第三話 赤ん坊を預けた母親の約束
昨夜、ライアンが毛布を取りに戻ったときの光景が、まだ目に焼きついていた。
母親は赤ん坊を抱いたまま戸枠にもたれかかっていた。
濡れた髪が頬に張りつき、腕には小さな包みを抱いている。
包みが動いた。
赤ん坊だった。
「お願いです。この子だけでも」
女はそれだけ言うと、膝から崩れた。
ライアンは反射的に肩を支えた。
奥から駆け寄ってきたガイアに声をかける。
「毛布を。ノア、火を強くしてくれ。セーラは水を頼む」
子供たちが散った。
誰も「また人が増えるの」とは言わなかった。
けれどライアンは、鍋の底に残ったわずかな麦を思い出していた。
女の名はセラ。
赤ん坊はユイという。
セラは街外れの洗濯場で働いていたが、冬になって仕事が減った。
住んでいた部屋の家賃を払えず、三日前に追い出されたのだという。
「私はどこで寝てもいいんです。でも、この子は」
セラは赤ん坊を渡そうとした。
ライアンは受け取らなかった。
「まず、あんたも中に入るんだ」
「二人も養えないでしょう」
「そうだな。今夜の分も怪しい」
ライアンはセラの顔を見た。
食事が足りないと告げれば、彼女はユイを連れて雪の中へ戻ろうとするかもしれない。
だからこそ黙っているわけにはいかなかった。
「今夜は一緒に考えてほしい。母親だからといって、全部を一人で背負わなくていい」
正直に答えると、セラは目を伏せた。
「だから、二人を引き離す前に、ほかの方法を探す」
ライアンは椅子を引いた。
セラは座ったものの、腕の力を緩めない。
ユイの頬は冷たく、泣き声にも力がなかった。
ライアンは薬師を呼びに走った。
薬師ルクスの店は閉まりかけていた。
戸を開けた老人は事情を聞くなり、薬箱を持って立ち上がった。
「金は?」
「今はありません。明日から荷を二倍運びます」
「倒れたら薬代も払えんぞ」
ルクスはそう言いながら先を歩いた。
ユイの呼吸と体温を確かめたルクスは、眉間に皺を寄せた。
母親もひどく消耗している。
赤ん坊に必要な乳を十分に与えられる状態ではなかった。
「この子に大人の粥を食わせるな。乳を確保することが先だ。母親には温かい食事と休養が要る」
「乳は、どこで」
「助産師のマルタを訪ねろ。授乳の支援を頼める家を知っている」
ライアンは頷いた。
しかし、立ち上がると足元が揺れた。
昨日からほとんど食べていなかった。
「ライアン」
セーラが袖を引いた。
いつもより切羽詰まった声に、ライアンは振り返った。
「これ」
少女は自分の皿から取っておいたパンを差し出した。
「お前が食べなさい」
「半分こ」
最初に会った夜と同じ言葉だった。
ライアンは小さな欠片を受け取り、残りをセーラの手に戻した。
「助かった。じゃあ、行ってくる」
夜更け、助産師マルタは事情を聞くと、乳を分けてもらえる家を二軒紹介した。
一軒は断られた。
もう一軒の女性は、明日の朝なら力になれると言った。
「今日の夜はどうするんです」
ライアンの声が荒くなった。
「母親の状態を見ながら、私がつく。あんたが怒っても乳は湧かないよ」
マルタの言葉に、ライアンは頭を下げた。
戻ると、セラは眠っていなかった。
ユイの胸が上下するたび、息を数えていた。
「明日の朝、手を貸してくれる人が見つかった。今夜は助産師がそばにいてくれる」
「……お金は」
「俺が薪を割る約束をした」
「そんなことまで」
「働くのは慣れてる」
セラは唇を噛んだ。
「私は母親失格です」
ライアンは答えを急がなかった。
安易な慰めを口にすれば、彼女が今まで耐えた寒さまで軽くしてしまう気がした。
「ユイを抱いて、ここまで歩いてきたんだろう」
「……はい」
「それは、簡単なことじゃない」
セラの目から涙が落ちた。
その翌朝、ライアンは市場で仕事を探した。
荷運びの親方には、遅刻を叱られた。
「家に子供が増えた? お前は何人食わせる気だ」
「子供が六人。俺と母親と赤ん坊を入れれば、九人です」
「数を数えられるなら、無茶も分かるだろう」
親方は呆れた顔をした。
それでも午後の荷下ろしを一件回してくれた。
代わりに、休憩時間はない。
ライアンは働いた。
腕の感覚がなくなるまで木箱を運んだ。
稼いだ銅貨を握りしめ、帰りに麦と野菜を買った。
家では、ガイアが小さな問題を抱えていた。
「ノアが、ユイのための毛布を勝手に切った」
ノアは切れ端を握っていた。
「隙間から風が入るから。詰めようと思って」
「でも、毛布が短くなったら寒いだろ」
二人とも正しかった。
ライアンは怒鳴らず、切った場所を見た。
「次からは、切る前に相談しよう。今夜は俺の上着で隙間を塞ぐ」
「父さんが寒い」
「寒いさ。だから明日、別の布を探す」
ガイアは答えるまでに間があったが、やがて言った。
「俺も探す。荷車の下に落ちた麻布なら、親方に聞ける」
ライアンは首を振りかけた。
子供に働かせたくはない。
けれどガイアは、何もできないまま守られることにも苦しんでいた。
「拾っていいか、必ず大人に確認すること。危ない場所には入らないこと。それなら頼む」
ガイアは初めて少し笑った。
数日後、セラの熱は下がった。
ユイも声を張って泣くようになった。
マルタは「元気な証拠だ」と笑ったが、ライアンは夜中に何度も飛び起きた。
ある朝、セラが洗濯場に戻りたいと言った。
「働いて、部屋を借ります。ユイと暮らせる場所を作りたい」
「その間、ユイはどうする」
「ここに……預けてもいいでしょうか」
言い終えるまでに、セラは何度も息を継いだ。
ライアンは帳面を開いた。
食料の残り、助産師の訪問日、セラが会いに来られる時間を書き込む。
「預かる。でも、これは別れの約束じゃない。迎えに来るための約束にしよう」
ライアンは続けて、セラがいつでもユイに会えるように、訪問の時間を二人で決めた。
マルタにも立ち会ってもらい、授乳や体調の変化を記す紙を一枚用意する。
「お母さんが来るたび、私が邪魔になるんじゃないかって思うんです」
「ユイの母親はあんただ。ここで世話をするのは、その代わりになるためじゃない」
セラはようやく肩の力を抜いた。
助けるとは、誰かの大切なものを取り上げることではない。
ライアンは、ユイを抱くセラの手を見て、その当たり前のことを胸に刻んだ。
「もし仕事が見つからなかったら」
「また一緒に考える」
「もし、約束の日に来られなかったら」
「次の日でもいい。誰かに伝言を頼んでもいい。会わせないなんて言わない」
ライアンは、母と子の面会日だけでなく、急に病気になった場合の連絡先も帳面に書き加えた。
洗濯場の主人に伝言を頼めるか、助産師マルタにも確認する。
離れて暮らす時間があっても、二人の関係まで途切れさせてはならない。
セラはユイの額に頬を寄せた。
長い時間をかけて、小さな手をライアンに託した。
セーラはその様子を戸口から見ていた。
「ユイは、お母さんが迎えに来たら行っちゃうの?」
「そうなるかもしれない」
「寂しいね」
「ああ」
ライアンは嘘をつかなかった。
「でも、ユイがお母さんと暮らせるなら、嬉しいことでもある」
セーラは少し考え、赤ん坊の毛布の端を整えた。
「じゃあ、帰る日まで、ちゃんと覚えててもらおう」
彼女はユイの手をそっと握り、自分の名前を教えた。
その日の夕方、教会から使いが来た。
炊き出しが止まったという。
寄付の麦が届かず、橋の下には食事を待つ子供たちが残されているらしい。
セラは今夜もユイと一緒に家で休んでいる。
仕事が見つかるまで母子がどう暮らすかは、まだ相談の途中だった。
「十七人です」
使いの声が震えた。
ライアンは鍋を見た。
九人で分けるだけでも足りない。
セラのために書いた帳面の余白には、まだ白い場所があった。
ライアンは使いに尋ねた。
「今夜、教会に空いている部屋はありますか。十七人を一度にここへ入れると、病気の子まで床に寝かせることになる」
「物置ならあります。ただ、火を使えません」
「分かりました。まず薬師を呼びます。食べ物はガストンさんに相談してみる」
使いは驚いたようにライアンを見た。
「引き受けてくださるんですか」
「まだ何も引き受けられていません。十七人に会って、必要なことを確かめます」
救いたいという言葉だけで、十七人の夜は暖かくならない。
ライアンは帳面に人数を書き、上着を取った。
セラが声をかけた。
「私も行きます。まだ長くは歩けませんが、子供を数えるくらいなら」
「休んでいてくれ。ユイのそばにいてほしい」
「なら、戻ってきた子の名前を私が書きます」
ライアンは頷いた。
守られるだけでなく、できる形で誰かを支えたい。
それはガイアだけでなく、セラも同じなのだ。
彼は新しい頁に『橋の下・確認待ち』と記した。
その晩、セラはユイを寝かせてから帳面を覗いた。
「十七人というのは、確かな人数ですか」
「使いの話だ。まだ俺たちの目では確かめていない」
「なら、乳飲み子がいるかも聞いてください。ユイのとき、何が足りなかったか、私には分かります」
ライアンは項目を一つ増やした。
年齢、今夜の寝場所、必要な食事、病気の有無。
『十七人を助ける』
という大きな約束より、誰に何が必要かを確かめる小さな質問のほうが、今は役に立つ。
まだ会っていない十七人を、勝手に家族の人数へ加えることはしなかった。




