第二十話 百一脚目の椅子に、父さんが帰ってきた
ライアンが療養を終えて家へ戻ると、食堂に百一脚の椅子が並んでいた。
「これは、誰の席だ?」
ライアンが一番端の椅子を指さす。
「父さんの」
ガイアが即答した。
「最初は子供たちの椅子を優先して、父さんだけ立っていたからな。百一脚目を作ってからも、なかなか座ろうとしなかっただろう」
椅子の背には、古い傷が残っていた。
二十年前、ライアンが拾った板で直した跡だ。
「まだ使ってたのか」
「捨てられなかったんだよ」
エマが笑った。
台所では、ガイアが不揃いな人参を切り、エルが鍋をかき混ぜていた。
ノアは焦げついた鍋底を魔法で磨こうとして、マルタに止められている。
「そんなことに魔法を使うくらいなら、布巾を取っておいで」
「はい……」
世界に名を知られる魔法使いが、素直に布巾を取りに行った。
ライアンは笑いかけたが、すぐに咳をした。
セーラが椅子を引く。
「まだ無理をしないで。食事の途中でも休んでいいから」
「今日はお前たちの言うことを聞くよ」
その返事に、食堂が一瞬静かになった。
ガイアが小声で言った。
「父さんが、そんなことを言うなんて」
「俺だって、少しは変わるさ」
食事が始まると、マリナが共同倉庫の報告を持ってきた。
「焼けた種の代わりは、近隣の村から融通してもらえた。配給の名簿も復元できたわ」
「火事の原因は?」
「まだ調査中。分かっていないことを、犯人がいると決めつけるわけにはいかない」
ライアンは頷いた。
「助かった人は?」
「全員、命に別状はない。見習いのトビも、もう歩けるそうよ」
ライアンは息を吐いた。
ちょうどそのとき、セーラが小さな黒パンを卓の中央へ置いた。
「覚えてる?」
ガイアが頷く。
「最初の冬だ。七人で一つのパンを分けた」
「父さんは、自分の分を取らなかった」
エルが言う。
ライアンは目を伏せた。
「あのときは、足りなかったからな」
「でも今は、足りてる」
セーラはパンを小さく切り分けた。
「だから今日は、父さんも食べて」
ライアンはひとかけらを受け取った。
固くて、少し苦い。
あの冬と同じ味だった。
だが今は、鍋に温かいスープがあり、隣には百人の大人になった子供たちがいる。
「俺は、立派なことをした覚えはない」
ライアンが言った。
「飯を作って、寒くないようにして、泣いていたら話を聞いた。それだけだ」
「それが難しいって、外へ出てから分かったんだ」
ガイアは答えた。
「俺たちは軍を動かせても、一人の子が明日も食べられると信じるまでには時間がかかる」
「そうだな」
ライアンは頷いた。
「だから、お前たちも一人で抱え込むなよ」
食後、ライアンが皿を下げようとすると、マルタが手を伸ばした。
「今日は座ってな」
「明日は?」
「明日は、体調を見てから」
食堂に笑いが広がった。
ライアンは椅子へ座り直した。
台所では、ガイアが鍋を洗い、エルが食器を拭き、マリナが翌日の食材を数えている。
誰かに任せても、朝は来る。
ライアンはその音を聞きながら、初めて安心して目を閉じた。
食事が終わりかけたころ、玄関を控えめに叩く音がした。
戸口には、包帯の残るトビが立っていた。
「病院から、少しなら歩いていいって言われました。どうしても、お礼を言いたくて」
ライアンが立ち上がろうとすると、百人の子供たちが一斉に制した。
「父さんは座ってて!」
笑いが広がった。
しかしトビは笑わなかった。
「ぼく、名簿を守ろうとして、みんなに迷惑をかけました」
「名簿は作り直せる」
ライアンは膝の上で手を組んだ。
「お前が生きて帰った。それが一番だ」
トビの目から涙が落ちた。
「でも、ぼくには帰る家が……」
言葉の先を、誰も急がせなかった。
ガイアが空いた長椅子を寄せ、エマが温かい皿を置く。
セーラはトビの呼吸を確かめてから、ゆっくり頷いた。
「今日はここで食べていきなさい」
トビは皿を見つめた。
黒パンはもう残っていなかったが、鍋にはまだスープがある。
ライアンは自分の椅子を動かさず、隣に座る場所を作った。
「百一脚目は俺の席だ。だけど、食卓は百一人で終わりじゃない」
誰かが小さく拍手した。
それが広がる前に、トビは両手で椀を抱えた。
温かさを逃がさないように。
食堂の隅には、いつの間にか古い木箱が置かれていた。
ガイアが蓋を開けると、中には欠けた匙、短くなった蝋燭、子供の手の大きさほどの布切れが入っていた。
「何だ、これは」
ライアンが尋ねると、エマが笑った。
「最初の冬の宝物。父さんが捨てようとしたのを、みんなで隠したの」
「そんなものを二十年も?」
「そんなもの、じゃないよ」
エマは欠けた匙を手に取った。
「これで父さんがスープを一口ずつ分けた。私たちはみんな、最後に自分の分が来るか心配してた。でも父さんは、必ず名前を呼んでくれた」
ライアンは匙を見つめた。
あのころの自分には、明日まで食料が持つかどうかも分からなかった。
名前を呼ぶのは、取り分を間違えないための工夫だった。
子供たちには、それが忘れられない約束になっていた。
トビが食卓に座ると、ガイアは無言で大きな器を出した。
少年は遠慮して小さな椀を選ぼうとしたが、エルが首を振った。
「食べられる量を選んでいい。少なくても多くても、誰も笑わないよ」
「僕、ここにいてもいいんですか」
「今夜はね」
ライアンは答えた。
「明日からのことは、トビと一緒に決めよう。勝手に決めて、また居場所をなくした気持ちにさせたくない」
トビは何度も頷いた。
食事のあと、マリナが紙と筆を持ってきた。
「今日から、食卓の人数を数える係を決めようと思うの。席が足りなかったら、誰が椅子を出すかも」
ガイアが眉を上げた。
「百一脚では足りないのか?」
「足りない日があっていいでしょう」
マリナは笑った。
「ここに来る人が増えるなら、増やせばいい。父さんの席を誰かに譲らせる必要はないもの」
ライアンは、自分がずっと立って食べていた理由を思い出した。
椅子が足りないからだった。
だが子供たちが大人になった今、足りないものを一人の我慢で埋める必要はない。
夜更け、トビが眠りについたあと、ガイアは台所で最後の皿を拭いていた。
「父さん。あのころ、どうして俺たちを置いていかなかった?」
ライアンはしばらく答えを探した。
「置いていく理由がなかったからだよ」
「食べ物も、金もなかったのに?」
「それでも、朝になったら腹が減るだろう。だったら一緒に朝飯を考えるしかない」
ガイアは笑った。
大将軍として何万もの命令を出してきた男が、父の前では、また小さな少年の顔になっていた。
食卓の終わりに、ライアンは椅子を一脚だけ引いた。
「ここは、俺の席なんだな」
「そうだよ」エマが答えた。
「なら、今日は最後まで座っていていいか」
子供たちは顔を見合わせた。
ガイアがわざと大げさに頷く。
「大将軍の命令です。父さんは食後の片づけを禁止」
「それは困る。俺だって手伝いたい」
「明日からでいい」マリナが笑った。
ライアンは椅子の背に手を置いた。
昔は自分が立っていれば、子供の一人が座れた。
けれど今は、誰かが椅子を増やせる。
そのことが、少し寂しくて、何より嬉しかった。
「じゃあ、今夜は甘える」
百人の子供たちは、それを特別な宣言のように聞いた。
ライアンが寝室へ向かうと、食堂には百一脚の椅子が並び、扉のそばには客用の折り畳み椅子が仮置きされていた。
食事が終われば片づける椅子だが、明日ここに来る人が誰か、決めなくていい席だった。
翌朝、玄関へ泥だらけの手紙が届いた。
宛名には、たどたどしい字で『ライアンさんへ』と書かれていた。
ライアンは封を開く前に、差出人がどこから来たのかを確かめた。
封の裏には、北の村の名があった。
ライアンは椅子へ戻り、家族の前で手紙を開いた。
「一人で読まないの?」とガイアが尋ねる。
「昔ならそうした。でも今は、百人いるからな」
差出人の文字はところどころ雨でにじんでいた。
それでも、助けを求める一文だけは読めた。
ライアンは立ち上がろうとしたが、セーラが肩に手を置いた。
「まず朝ご飯を食べて。それから、誰が行くか相談しましょう」
子供たちが父のために用意した百一脚目の椅子が、ようやくライアンを引き留めた。
手紙には、北の村で冬越しの食料が尽きかけているとあった。
ライアンはすぐに荷物をまとめようとしたが、ガイアが地図を広げ、マリナが在庫帳を持ってきた。
「父さんが行くより先に、今日出せる荷車を数えよう」
「俺は何をすればいい?」
「朝飯を食べながら、村で必要なものを聞き出す手紙を書いて」
ライアンは少し考え、椅子へ座り直した。
助けに行くことと、自分が先頭を走ることは、同じではなかった。




