第十九話 燃える倉庫で、父さんが最後に抱えたもの
共同倉庫の屋根から、黒煙が噴き出していた。
夜半の鐘に駆けつけたライアンは、最初に建物の中へ走ろうとした。
けれど、入口に立つ消防隊員が腕を広げた。
「入らないでください。梁が落ちる恐れがあります。救助班が裏手から進んでいます」
ライアンは足を止めた。
二十年前なら、止められても飛び込んだかもしれない。
「中に人は?」
「当直が二人。ひとりは外へ出ました。もうひとりの見習いが見当たりません」
ガイアが到着し、兵士たちに命じた。
「消火は消防隊の指揮に従え。俺たちは周囲の避難と、隣の家への延焼を防ぐ」
ノアは消防隊長と相談し、魔法で飛び火を抑える防壁を張った。
熱を閉じ込めて人を危険にさらさないよう、屋根の上ではなく隣家との間に展開する。
セーラは負傷者の手当てを始めた。
「父さん、煙を吸ってる。ここから離れて」
「まだ見習いがいる」
「分かってる。でも、救助する人まで倒れたら困る」
ライアンは唇を噛んだ。
そこへ、逃げ出した当直の青年が駆け寄ってきた。
「トビが、奥の戸棚へ行ったんです。配給先の名簿を取りに」
ライアンは青年の肩をつかんだ。
「その名簿は、どこに置いてある?」
「北側の壁です。鉄の箱に入っています」
ガイアが消防隊長へ位置を伝えると、隊長は建物の外から構造を確認した。
「北側の通路なら、短時間だけ入れるかもしれない。しかし、梁が持つ保証はない」
隊員二人が防護具を着け、救助に向かった。
ライアンは入口から離れ、配給所の担当者を呼んだ。
「名簿が焼けても、明日の食事を止めないようにしてくれ。受け取り先は別の記録から確かめられるはずだ」
マリナは頷いた。
「商会と村役場に控えがある。朝までに照合するわ」
火の勢いが増し、屋根の端が崩れた。
セーラは思わずライアンの腕を握った。
「父さん、お願い。ここにいて」
「ああ」
その短い返事を、セーラは聞き逃さなかった。
やがて消防隊員が、煤にまみれた見習いトビを抱えて現れた。
トビは意識があったが、激しく咳き込んでいた。
手には鉄箱の取っ手だけが握られている。
「名簿……」
「もういい。お前が帰ってきたことの方が大事だ」
ライアンが言うと、トビは泣き出した。
セーラが呼吸を確かめ、担架へ乗せる。
ライアンも煙を吸っていたため、診察を受けることになった。
「俺は平気だ」
「平気かどうかは、診てから決めるの」
娘の厳しい声に、ライアンは逆らわなかった。
翌朝、倉庫は半分焼け落ちていた。
保存していた種麦の一部も失われた。
原因はまだ分からない。
前夜の油の匂いが放火を示すのか、作業用の油が漏れたのか、調査を待つ必要がある。
ガイアは焼け跡を封鎖し、消防隊と監査官が調べられるよう見張りを残した。
マリナは村役場と商会の控えを照合し、配給先の一覧を復元した。
ライアンが病床から尋ねた。
「今日の分は?」
「別の倉庫から出した。子供たちは食べられたわ」
「そうか」
ライアンは目を閉じた。
「それなら、今日は休む」
セーラの目から涙が落ちた。
「父さんがそう言ってくれるの、ずっと待ってた」
窓の外では、ガイアが荷車の数を確かめていた。
父が守ろうとした食事は、父が寝ている間にも届いている。
マリナは配給の代替倉庫と担当者を帳面に書き留めた。
火災原因の調査は続くが、今夜の食事は待ってくれない。
ライアンは炎を見つめながら、昔の自分が同じ場面で何をしたか考えていた。
二十年前なら、危険を承知で飛び込み、誰かを助けたつもりになっていたかもしれない。
だが、待っている子供が百人いる父親が倒れれば、その百人が困る。
「俺にできる仕事をくれ」
消防隊長に頼むと、隊長は短く答えた。
「救出された人の名前を確認してください。誰がまだ中にいるか、間違えないために」
ライアンは煤のついた帳面を受け取り、避難した人々の声を一人ずつ聞いた。
声が震えている者には急がせず、聞き取れない名は繰り返してもらう。
地味な仕事だった。
だが、最後の一人の所在が判明したとき、隊長は深く頷いた。
「これで救助班を余計な危険にさらさずに済みます」
ライアンは初めて、炎の前に立つだけが人を守る方法ではないと知った。
戸口を出るとき、ライアンは振り返って忘れ物がないか確かめた。
物ではなく、話を聞いてもらえなかった人が残っていないかを見たのだ。
遠慮して声を出せない者がいることを、彼は長い年月で学んでいた。
ひとりの老人が手を挙げ、まだ困っていることがあると告げた。
ライアンは急ぎかけた足を止め、もう一度椅子に座った。
火が消えたあとも、倉庫の周囲には焦げた麦の匂いが残った。
避難してきた人々の中に、ひとりだけ何度も建物を振り返る少女がいた。
配給所で手伝いをしているリナだった。
「弟の薬を、倉庫の奥に置いたままなの」
ライアンが尋ねると、少女は泣きそうな顔で頷いた。
「明日の朝までに飲まないといけないって」
セーラは薬の種類と処方した施療院を確認した。
焼け跡に戻る必要はない。
代わりを手配できる可能性がある。
「同じ薬があるか調べるわ。ない場合も、医師に別の方法を相談する。今ここで危ない建物へ戻るのは、弟さんのためにならない」
リナは唇を震わせた。
「でも、私がちゃんと持っていれば」
「火事の責任を、薬を置いたあなたに負わせることはできないよ」
ライアンは答えた。
夜が明けるまでに、商会から種麦の代替品が届いた。
しかし数量を数えると、最初の報告より三十袋少なかった。
マリナは輸送中の紛失を疑う前に、荷札と計量記録を照らし合わせた。
湿った麦を乾燥させたため、袋数の数え方が違っていたのだ。
「急いでいるときほど、数字を確かめないと」
マリナは記録係に言った。
「不足していると決めつければ、運んでくれた人まで疑うことになる」
ライアンは病床から報告を聞き、ほっと息をついた。
「お前たちがいてよかった」
「父さんがいなくても、やれるようにしてきたもの」
マリナはそう言ってから、少し言い直した。
「違うわね。父さんが休めるように、やれるようにしてきたの」
夕方、見習いトビが病室の前まで来た。
煙で声がかすれ、まだ長く話せない。
彼は何かを言おうとして、何度も口を閉じた。
ライアンは急かさなかった。
「名簿を取りに戻ったこと、怒ってる?」
やっと出た声は細かった。
「怖かったよ」
ライアンは答えた。
「お前が戻らなかったらどうしようって。でも、怒ってはいない」
「名簿がないと、食べられない子がいると思って」
「その心配は間違っていない。だから次は、名簿を一つの場所にしか置かないやり方を変えよう」
トビは驚いて顔を上げた。
「僕のせいじゃないの?」
「お前だけに背負わせる仕組みの方を直すんだ」
焼け跡の前で、トビは焦げた名簿の端を拾おうとした。
「これがないと、誰に配ったか分からなくなる」
消防隊員が制止する。
まだ梁が落ちる危険があった。
マリナはトビを安全な場所へ連れて行き、白紙を一枚渡した。
「覚えている名前を、ここに書いてくれる?」
「全部は覚えてないよ」
「全部じゃなくていい。分からないところは空欄にして、明日みんなに聞こう」
トビは最初の一人の名を書いた。
次に二人目。
手が震えて、文字が歪んだ。
ライアンは寝台からその紙を見て言った。
「火事で失ったのは紙だ。お前が覚えていた人まで消えたわけじゃない」
翌朝、配給所には名簿を作り直すための机が置かれた。
受け取りに来た人自身が名前を確かめ、書けない人には職員が読み上げて確認した。
ライアンは手元の紙に、翌日の仕事を三つ書いた。
配給名簿の控えを作ること。
薬の保管場所を分けること。
そして、救助に入った消防隊員の名前を記録し、無事を確かめること。
火事で失ったものは戻らない。
だが、誰かが次の火事で同じ危険を負わずに済むようにはできる。
そのことが、ライアンにとって何よりの救いだった。
「父さん、今日はもう休んで」
セーラが紙を取り上げると、ライアンは反論しかけて口を閉じた。
火事の夜、救助隊員の制止に従えたことを思い出したのだ。
「明日の仕事を任せてもいいか」
セーラは紙を見て、ひとつだけ書き足した。
『父さんの診察を受けること』。
「仕事じゃないだろう」とライアンが言う。
「家族には大事な仕事よ」
廊下ではトビが新しい名簿の一枚目を抱えて待っていた。
ライアンは呼び止めず、セーラに任せた。
翌朝、トビはライアンを起こさずに配給所へ向かった。
任されたことが嬉しいのだと、その足取りで分かった。
「明後日も、その次も」
セーラは紙を畳み、寝台の脇に置いた。
ライアンはようやく目を閉じた。
誰かを守るために、今日は自分が守られる側になる。
それも家族の仕事なのだと思えた。




