第十八話 隣国の商人が買い占めた春の種
「食べる麦はある。けれど、まく麦がない」
農夫が差し出した手には、去年の収穫から大切に残した種が三粒だけ載っていた。
春の播種まで、あと十日。
王都周辺の種麦が一斉に値上がりし、普段の三倍でも買えない村が出ていた。
マリナは市場の取引記録を机に広げた。
「隣国の商人ハルドが大量に買ったのは事実。でも、買い占めだけが原因とは限らないわ。冬の長雨で傷んだ袋もある」
「なら、どれだけ使える種が残っているか調べよう」
ライアンの言葉に、エマとエルが農家と一緒に保管庫へ向かった。
袋を開けると、見た目のよい麦にも湿気の匂いがあった。
農家は少量ずつ発芽試験を行い、数日後に使える割合を確かめることにした。
「試す間にも春が過ぎるぞ。発芽しなかった畑の責任は誰が取るんだ」
村長が声を荒らげた。
ノアは地図に、標高ごとの雪解けと畑の作業日を記した。
「南の村は先にまかないと間に合わない。北の村には、もう少し猶予がある」
マリナは各村の必要量を集め、先に播種する地域へ優先して運ぶ案を作った。
ただし、配分の根拠は公開する。
誰かが声の大きさだけで多く取れないようにするためだ。
翌日、ハルドが商会へ乗り込んできた。
「商売の邪魔をするな。俺は正当な値段で買った!」
「買ったこと自体を罪だとは言っていないわ」
マリナは答えた。
「けれど、村の種がなくなれば来年の取引相手も失う。あなたが保管している量と状態を確認させて。買い戻すなら、契約を結ぶ」
ハルドは笑った。
「俺の言い値で買うのか?」
「いいえ。ほかの地域からも調達する。あなたの麦が本当に種として使えるなら、その価値に応じて交渉する」
商人の顔から笑みが消えた。
その夜、農家の集会で一人の女性が手を挙げた。
「借りた種を秋に返すなら、収穫が悪い年はどうなるの。子供の飯を減らして返すのかい」
マリナは契約書を閉じた。
「それでは貸し付ける意味がないわ。凶作なら返済を猶予する。畑を取り上げる担保も取らない」
「口約束じゃ困る」
「書き直して、皆の前で読み上げます」
ライアンは頷いた。
二十年前、空腹の子供たちに必要だったのは、立派な約束より次の日のパンだった。
「種を守るために、今夜の飯を減らさせちゃいけない。食べる分は別に手配しよう」
セーラは村の炊き出しの量を調べ、食用麦を種麦とは別の倉庫に置くよう提案した。
数日後、発芽試験の結果が出た。
ハルドの倉庫にある種の一部は湿気で傷み、畑にまいても十分に育たない可能性が高かった。
マリナはその数字を示した。
「使えない分まで、種の値段では買えないわ」
ハルドは怒ったが、結局、検査を通った袋の一部を適正な条件で売ることに同意した。
残りは別の商会と村の備蓄から集める。
最初の荷車が村へ着いた日、農夫は種袋を開けて一粒を掌に乗せた。
「これをまけば、秋に食べられるんだな」
「天候次第だ。必ず実るとは言えない」
ライアンは答えた。
「でも、まかなければ始まらない」
農夫は土へ種を落とした。
その隣で娘が、炊き出しのパンをかじっていた。
マリナは村ごとの配分量、発芽率、返済猶予の条件を記録に残した。
来年、同じ危機が起きたとき、誰も一から困らないためだ。
日暮れ、共同倉庫の見張りが不審な油の匂いを報告した。
「気のせいかもしれません」
「気のせいなら、それでいい」
ライアンは警備の交代記録を確かめた。
「火の気だけは、もう一度見てくれ」
夜半、村の鐘が鳴り響いた。
火のそばにいた年配の女性は、湯気を見つめたまま口を開かなかった。
話を聞くと、前の冬に配給が突然止まり、家族に「明日もある」と言ってしまったことを悔やんでいた。
ライアンは確約できないことを約束しなかった。
「今日の分はここにある。明日の分は、集まった量を朝に知らせる」
女性はしばらく黙ってから、「それなら、私も数えるのを手伝う」と袖をまくった。
食べ物を渡す列には、声の大きな大人だけでなく、黙ったまま壁際にいる子供もいた。
ライアンは列を短くするためだけに配る順番を決めず、来られない者の分を誰が届けるか確かめた。
「全員に同じものを渡せば公平だと思っていた」と若い手伝いが言った。
「同じ場所に来られるとは限らないからな」
ライアンは空の器を一つ預かり、名前を書いた札と一緒に置いた。
小さな手伝いの子が、終わった仕事の数を指で数えた。
「まだ、こんなに残ってる」
ライアンは残った仕事だけでなく、今日できたことも数えてみせた。
水を運んだ人、記録を書いた人、疲れた人に椅子を譲った人。
どれも一人では足りないが、重なれば誰かの明日を支えられる。
「明日は、今日より少し上手にやろう」
その子は、やっと笑った。
作業台に残った材料を数えると、計画した人数分には少し足りなかった。
誰かが余分に取ったと決めつけるのは簡単だ。
しかし、運搬中にこぼれた分も、計量の違いも、まだ確かめていない。
ライアンは使いかけの袋を一つずつ開き、残量を書き留めた。
小さな手伝いの子が「数えるだけで、お腹はいっぱいにならないよ」と言う。
ライアンは頷いた。
「だから数える。明日も食べられるようにな」その子は首を傾げたが、袋の口を押さえる仕事を引き受けた。
播種の前日、村の広場に集まった農民たちは、配られた袋をすぐには受け取らなかった。
袋の数は揃っている。
だが、袋の中身が育つかどうかは別の話だった。
「発芽試験の結果を見せてくれ」
村長の求めに、エマは試験皿を並べた。
古い種、乾燥させた種、隣村から届いた種。
それぞれの発芽数を、誰でも数えられるようにしてある。
「この袋は芽が出にくい。だから同じ面積に多めにまく必要がある」
「多めにまけば、隣の村の分が減るだろう」
「そのとおりです」
マリナは地図を開いた。
すべての畑を救えると約束するのではなく、収穫が見込める畑を先に選ぶ。
その代わり、種を受け取れなかった家には食料と翌季の支援を保証する。
決定を聞いた農夫の一人が、拳を握った。
「俺の畑は、今年は空のままか」
ライアンは目をそらさなかった。
「悔しいと思う。だから、秋までお前の家の食卓を守る仕事を、俺たちにさせてくれ」
農夫はしばらく黙り、ようやく袋を受け取る仲間たちに道を開けた。
種を受け取る列で、農夫の一人が袋を返した。
「これじゃ足りない。うちの畑の半分しかまけない」
エマは畑の面積を聞き、必要量を書き直した。
「こちらの計算が間違っていました」
周囲がざわめく。
配り直せば、後ろの人の分が減る。
ライアンは村長へ向き直った。
「この場で誰かの袋を取り上げるわけにはいかない。足りない畑と、すでにまける畑を分けて確認しよう」
農夫は悔しそうに俯いた。
「秋に食べる麦までなくなる」
「だから、まけない分の畑には別の作物を考えよう。種だけ渡して終わりにはしない」
エマは農家の知恵を借り、畑ごとの播種計画を描き直した。
紙の上では一袋の誤差でも、畑では一季節の暮らしを左右するのだった。
仕事が終わるころ、誰かが残り物を片づけようとした。
ライアンは待ってもらい、傷んだものとまだ使えるものを分けた。
食料を無駄にしないことと、危ないものを食べさせないことは同じではない。
「もったいないから食べろ、とは言わない」と彼は言った。
腹を空かせていた頃ほど、食べられるかどうかを確かめる余裕はなかった。
今はその余裕を、子供たちのために作る番だった。
共同倉庫から黒い煙が上がっていた。
「火だ!」
農夫が叫んだ。
種麦の袋を抱えた人々が一斉に入口へ走ろうとする。
ライアンはその前に立ち、通路を空けさせた。
「種より先に、人を出してくれ!」
入口から飛び出した農夫が、まだ中に見習いがいると叫んだ。
ライアンは一歩踏み出しかけたが、消防隊の隊長に人数と場所を伝えた。
「裏の計量台です。煙が回る前に、そこにいたはずだ」
隊長は二人の隊員を裏手へ回し、避難者を数えるよう指示した。
ライアンはその場で袋を数えようとする村長の肩を押し、広場へ誘導した。
エマは袋の数を書いた板を地面に置いた。
数字は後から書き直せる。
だが、倉庫で働く人の名前は一人も消したくなかった。
鐘が鳴り、消防隊が駆け込んでくる。
消防隊は裏の計量台から見習いを救い出した。
煙を吸って咳き込む少年を、エマが広場の端へ導く。
倉庫の一角は焼け、発芽試験を終えた種の袋も失われた。
村長は地面に膝をついた。
「もう春に間に合わん」
そのとき、ハルドが焼け残った帳簿を見て口を開いた。
「俺の倉にも、検査済みの種がある。ただし全部は渡せない」
マリナは頷く。
「全部でなくていい。必要量と値段を、ここで一緒に決めましょう」
火は消えた。
けれど春を守る仕事は、そこから始まった。




