第十七話 英雄たちが剣を抜かなかった理由
偽慈愛院の院長が拘束された翌日、王都の広場には人々が集まった。
「牢を開けろ!」
「子供を閉じ込めた男を、ここへ連れてこい!」
石を握る者もいた。
ガイアの兵は列を作り、牢へ向かう道を塞いでいる。
若い兵士が尋ねた。
「閣下、剣を抜きますか」
ガイアは首を振った。
「まだ誰も襲っていない。盾を前に。槍先は下げろ」
広場の端では、寄付者たちが自分の名前の書かれた帳簿を見つめていた。
「私は孫の服を渡したんです」
老婦人が泣きながら言った。
「寒い子に着せてほしかった。それが、どこへ行ったのかも分からない」
マリナは老婦人の話を記録した。
「寄付品の行き先は調査中です。判明した分から、お知らせします」
「いつまで待てばいいの?」
「日付を決めて、進捗を掲示します。分からないことは分からないと書きます」
群衆の前へ、ライアンが歩み出た。
ガイアが腕を伸ばす。
「父さん、危険だ」
「分かってる。でも、ここにいる人の話を聞きたい」
ライアンは壇上に上がらず、人々と同じ地面に立った。
「怒って当然だと思う。俺も腹が立っている」
男が叫んだ。
「だったら、なぜ牢から出さない!」
「牢から引きずり出したら、何をしたのか確かめる前に終わってしまう。寄付金がどこへ行ったか、誰が手を貸したか、まだ分かっていない」
「裁判なんて信用できるか!」
「信用できない理由があるなら、聞かせてほしい」
男は一歩前へ出た。
「前にも同じことがあった。役人は書類を隠して、責任者だけ別の町へ逃がした!」
マリナが答えた。
「今回は押収品の一覧を作り、保管者を複数に分けています。公開できる記録は、日付を決めて掲示します」
「子供の名前も出すのか?」
「出しません。子供を守る記録と、責任を調べる記録は分けます」
群衆の中から、別の声が上がった。
「俺たちの寄付が盗まれたのに、被害者の名前を隠してどうする!」
セーラが進み出た。
「子供の名前が知られれば、後から責められるかもしれません。
誰がどれだけ寄付したかは調べられます。でも、子供にもう一度怖い思いをさせる必要はありません」
人々はすぐには納得しなかった。
ガイアは兵に、広場から帰る道を空けるよう命じた。
「怒っている人を囲むな。帰りたい人が帰れるようにしろ」
夕方、牢の前に石が一つ投げ込まれた。
兵士たちが身構える。
ガイアは投げた少年を見た。
少年は震えていた。
「弟が、あそこにいたんだ」
「弟は今、どこに?」
「病院だ。まだ熱がある」
ガイアは剣から手を離した。
「それなら、病院へ一緒に行こう。弟のことを聞かせてくれ」
少年は石を拾おうとしたが、ガイアが止めた。
「それは置いていこう」
二人は広場を離れた。
夜になっても、すべての怒りが消えたわけではない。
けれど、牢の扉は壊されず、帳簿は燃やされなかった。
ガイアは若い兵士たちを集めた。
「今日、俺たちは剣を抜かなかった。しかし、何もしなかったわけじゃない」
「もし襲われていたら?」
兵士が尋ねた。
「人を守るために必要な力は使う。でも、怒りを晴らすためには使わない。相手が誰でも同じだ」
ガイアは父の方を見た。
昔、ライアンが木の棒を取り上げたとき、ガイアは弱くなった気がした。
今は分かる。
武器を持ったまま踏みとどまるには、別の強さが要る。
ライアンは広場に残った椅子を片づけていた。
「父さん、俺がやるよ」
「じゃあ、頼む」
ガイアは椅子を重ねながら尋ねた。
「今日は、正しかったと思う?」
ライアンは少し考えた。
「少なくとも、子供たちの話を聞ける明日は残った」
翌朝、広場の掲示板には調査の進捗が貼られた。
『確認済みの寄付品』『所在調査中の寄付品』『子供の保護状況』
その前で、昨日石を握っていた男が立ち止まった。
「……明日も、ここに来れば分かるのか」
マリナが頷いた。
「はい。変わったことがなくても、そのことを書きます」
男は紙を読み、ゆっくり立ち去った。
ガイアは報告書の「完了」という文字を消した。
現場の仕事は終わっていても、修理後の確認はまだだった。
次に来る者のために、確認する日付と担当を追記した。
休憩の合図が出ても、若い兵士の一人は食事に手をつけなかった。
失敗したら仲間が傷つくと思うと、喉を通らないのだという。
ガイアは隣に座り、自分も初めて部隊を預かった夜は眠れなかったと話した。
「怖くない者を探しているんじゃない。怖いと分かって、それでも確かめる者が必要なんだ」
兵士はようやく水を飲んだ。
帰還する者の数を数えるとき、ガイアは名簿を一度読み上げるだけでは済ませなかった。
負傷者を運ぶ者、途中で合流した者、別の道を選んだ者。
それぞれの所在を確認する。
ライアンは昔、子供たちが外へ出るたび、帰ってきた足音を聞いていたことを思い出した。
英雄になっても、帰る人数を確かめる手間だけは省いてほしくなかった。
兵士たちが命令を待つ間、避難する家族は何を持って行けばよいか分からずにいた。
ライアンは持ち物を減らすよう強く言う代わりに、運べる荷物の量を確かめた。
子供が古い木の人形を抱いているのを見ると、誰かが「置いていけ」と言いかけた。
「それを手放せない理由があるんだろう」
ライアンが言うと、兵士は人形を荷袋に収める場所を作った。
地図の上では一本の道でも、実際には荷車がすれ違えない細い場所があった。
ガイアは偵察の報告を聞き、先頭だけでなく最後尾の安全を確かめさせた。
ライアンは「一番強い者が前に立てば済む話じゃないんだな」と言った。
「前だけ守っても、後ろにいる者が帰れなければ勝ちではありません」
ガイアは地図の端に小さな印をつけた。
広場の端で、一人の少年が石を握っていた。
偽慈愛院へ寄付した父親が、怒りのあまり家を出たまま帰らないのだという。
「悪いやつを許すのかよ」
ガイアは少年の前でしゃがんだ。
「許すかどうかを、俺が決めることはできない」
「じゃあ、どうして剣を抜かない?」
「ここで誰かを斬れば、お前の父親が知りたかった金の行き先も、子供たちが閉じ込められた理由も、分からなくなる」
少年の手から石が落ちた。
ガイアは拾わなかった。
「怒りを捨てろとは言わない。その怒りで、誰を守りたいのかを忘れないでくれ」
やがて広場には、証言を受け付ける机が置かれた。
人々は列を作り、石の代わりに領収書や手紙を差し出した。
避難所に到着したあと、ガイアは兵士たちを集めた。
「今日は誰も剣を抜かなかった。だが、だからといって危険がなかったわけではない」
見張りを担当した若い兵士が一歩前へ出た。
「私は、道を塞いだ男を脅して退かせようとしました」
「なぜやめた?」
「その男が背負っていた袋から、赤ん坊の泣き声が聞こえたからです」
男は荷物を盗もうとしていたのではない。
避難の列に入れず、子供を抱えて途方に暮れていたのだ。
ガイアは兵士に、男を探して事情を聞くよう命じた。
叱責のためではない。
次に同じことが起きたとき、どこに案内役を置けばよいか知るためだった。
「命令を守っただけで満足するな。守れたはずの者が取り残されていないか、最後に確かめろ」
その夜、避難所の入口には剣を持つ見張りの隣に、案内板を持つ兵士が立った。
道を尋ねる人が来るたび、兵士は膝を折って子供の目線に合わせた。
ガイアは剣を鞘に収めたまま、その背中を見送った。
広場で石を握っていた男が、翌朝、兵舎を訪ねてきた。
「昨日は、投げるところだった」
ガイアは椅子を勧めた。
「怒る理由はあった。だが、石が当たる相手を選べたか?」
男は黙り、やがて首を振った。
「子供たちの証言を聞く場を作ってほしい。ただし、本人が望む場合だけだ」
男は石を机に置き、証言を守るための見張り役を申し出た。
「ただし、証言する子の顔を見物人に見せるな」とガイアは言った。
男は驚いた顔をした。
「俺は、みんなに真実を知ってほしいだけだ」
「子供が話す相手を選べなければ、院長の命令と変わらない」
翌日、証言室の前には二本の列ができた。
被害を届ける大人の列と、希望する子供だけが入る短い列。
後者には兵士ではなく、救護所の職員が付き添った。
ガイアは剣ではなく、避難所への道順を書いた紙を渡した。




