第十三話 王家の紋章がついた荷車
門の向こうから、焼きたての白パンの匂いがした。
王家の古い別邸。
その門前では、配給を受けられなかった人々が空の袋を抱えている。
「門を開けろ!」
ガイアが一歩出ると、ライアンが腕をつかんだ。
「剣で開けた門の向こうで、誰かが証拠を燃やすかもしれない」
マリナは同行した監査官に頷いた。
立ち入りの許可状には、倉庫と会計記録を確認する範囲が明記されている。
「まず、管理人へ渡しましょう」
門番は王家の紋章を指さした。
「ここは王家の所有地だ。無断で入ることはできない」
「無断ではありません」
監査官が許可状を示すと、門番の顔色が変わった。
それでも門はすぐには開かなかった。
そのとき、門柱の陰から下働きの娘が現れた。
「私、袋を運びました。『王室用』と書いてあったけれど、夜になると市場の商人が引き取りに来ました」
「あなたの名前は?」
マリナが尋ねると、娘は怯えて後ずさった。
「弟が配給所で倒れたんです。私が話したって知られたら、仕事を失います」
ライアンは娘の前にしゃがんだ。
「弟の治療は、証言と引き換えじゃない。まずセーラのところへ行ってくれ」
娘はしばらく迷い、ようやく頷いた。
管理人は許可状を読み終えると、門を開けた。
倉庫には小麦袋が積み上がっていた。
袋の縫い目には、王都の配給倉庫で使われる青い糸が残っている。
「これが消えた五千袋?」
ガイアが問う。
「全部とは限らないわ」
マリナは袋の番号を控えた。
「ここにある数量と、運ばれた記録を照合する。勝手に動かさないで」
監査官が立ち会い、袋を数えた。
確認できたのは千八百四十袋。
残りの行方は不明だった。
一方、ノアは荷札の紋章を調べていた。
「翼の線が一本多い。今の王家の意匠じゃない」
古文書係が図案を照合すると、それは十年以上前に廃止された紋章だった。
「王室の命令ではなかったのか?」
ガイアが眉をひそめる。
「古い紋章が使われていることは分かった。でも、誰が使わせたかは別の問題よ」
マリナは答えた。
別邸の門番が口を開いた。
「夜中に荷車が来たとき、御者は王家の通行証を見せました。逆らえば孫の勤め先に迷惑がかかると言われたんです」
ライアンは老人を責めなかった。
「その通行証は、まだ残っているか?」
老人は小さく頷き、鍵のかかった引き出しから紙を出した。
通行証には、発行部署の名があった。
だが日付の欄だけ、別の筆跡で書き直されている。
マリナは原本を封印し、写しを取らせた。
「この紙が本物かどうかも、保管庫の記録と照合します」
門番は深く頭を下げた。
「私が止めていれば……」
「今、話してくれたことが役に立つ。けれど、責任がないと決めるのも、ここで俺たちがすることじゃない」
ライアンは静かに言った。
午後、倉庫から出てきた料理人が、さらに一枚の伝票を差し出した。
「荷の一部は『慈愛院』へ運べと言われました。ライアン様の名前が付いた施設です」
「俺の名前?」
伝票には確かに『ライアン慈愛院』とある。
ライアンは見覚えのない住所を読んだ。
「俺は、そんな場所を作っていない」
料理人は震えた。
「私は、子供たちのためだと聞いていたんです」
「それなら、まず子供たちがどこにいるか確かめよう」
ライアンはそう答えた。
夕刻、押収した袋の一部を正規の配給倉庫へ戻すための手続きが始まった。
監査官が数量と状態を確認し、傷んでいない分から配給に回す。
別邸の台所では、料理人が白パンを数えていた。
監査官が伝票を示すと、料理人は戸惑った。
「これを王都の孤児へ送ったことになっているんですか。ここで焼いた分は、別邸の宴席にしか出していません」
「責めに来たんじゃない」ライアンは伝票を台に置いた。
「誰が何を頼み、誰が受け取ったかを知りたい」
料理人は奥から油染みた注文札を持ってきた。
宴席の日付と出荷伝票の日付が重なっている。
マリナは二つを照らし合わせ、注文主の欄を指で押さえた。
「紋章だけでは王家の命令とは限らない。この署名の持ち主を確かめるわ」
門の外では腹を空かせた人々が待っていた。
ライアンは厨房に残るパンの提供を申し出たが、料理人の判断だけでは動かせない。
そこで監査官に正式な保全と配給の許可を求めた。
待つ間にも、子供たちへ温かい湯を運ばせた。
門前で待っていた人々に、翌日の受け取り場所が伝えられた。
それでも五千袋の全容は分からない。
マリナは帳簿を閉じ、次の住所を指さした。
「父さん。今度は、あなたの名前で寄付を集めている施設よ」
ライアンは黙って頷いた。
自分の名が使われたことより、その名を信じて食べ物を待った子がいるかもしれないことが、怖かった。
「今度は、子供たちがいる場所を先に確かめよう」
その声に、マリナも地図を畳んだ。
別邸の門を出ると、待っていた母親が小さな紙片を差し出した。
寄付を集めた者の受領書だった。
そこにはライアンの名だけでなく、偽の施設の住所も書かれている。
「この紙を渡したら、子供を引き取ってもらえると言われました」
ライアンは受領書を奪わず、母親の手の中で住所を読んだ。
「預ける前に、施設を一緒に見に行こう。あなたを責めるためじゃない。そこにいる子供を確かめるためだ」
母親は受領書の端をめくった。
裏側には、子供を迎えに来る日として三日後の日付が書かれていた。
「預けた子に会うには寄付が必要だと……」
ライアンの指が止まった。
寄付の強要だけではない。
面会そのものを金で縛っている。
マリナは受領書を証拠として預かる前に、母親の手元に写しを残した。
「あなたが子供を迎えに行くとき、何も持たずに門前へ立たされないように」
母親は紙を握り直し、同行を申し出た。
その瞬間、別邸の裏門から、王家の紋章を付けた荷車が動き出した。
「止めてください!」
マリナが叫ぶと、御者は鞭を振り上げた。
ガイアは剣に手を掛けたが、荷台の隙間から子供の泣き声がした。
「斬るな!」
ライアンの声にガイアは手を止め、車輪の前へ回って御者に停止を求めた。
監査官が立ち会って荷台を調べると、麦袋の陰に二人の子供が座っていた。
「慈愛院へ連れていくと聞いた。でも母さんに会わせてくれない」
一人は、母親の差し出した受領書と同じ番号の札を握っていた。
母親が駆け寄ろうとしたが、マリナがまず名前を確かめる。
別の家の子を間違って引き渡すわけにはいかない。
札の番号と母親が知る傷跡が一致したとき、子供は自分から母親の腕に飛び込んだ。
「紋章を見たから、安心して預けたんです」
母親の声が震えた。
ライアンは紋章のついた板を見上げた。
信頼される印を使えば、人を助けることも、人を騙すこともできる。
監査官は御者の身元と運送指示書を確認し、子供たちを安全な保護先へ移す手続きを始めた。
御者は命令を受けて運んだだけだと主張したが、指示した人物はまだ分からない。
マリナは偽の通行証、配給袋の番号、受領書の写しを同じ封筒に入れた。
「三つの記録がつながった。次は誰が紋章を使わせたかを突き止める」
「それより先に」
ライアンは母親の肩を抱いた子供を見た。
「まだ帰れない子が何人いるのか調べてくれ」
門の外で待つ人々に、保護された子供の人数と相談先が告げられた。
喜ぶ声の隣で、まだ子を見つけられない親が泣いていた。
事件は終わっていない。
だが、荷車を止めたことで、今日帰れる子が二人いた。




