第百十一話 孤児院の卒業式に父さんが遅刻した
卒業式の日、ライアンはいつもより早く家を出た。
上着の内ポケットには、卒業生アベルへ渡す小さな手紙がある。
立派な祝辞を頼まれたが、どうしても長い言葉が浮かばず、『帰りたくなったら、いつでもおいで』とだけ書いた。
通りを曲がったところで、泣き声が聞こえた。
小さな兄妹が、店の軒下で立ち尽くしている。
兄は妹の手を握り、知らない大人を警戒していた。
「お父さんとお母さんは?」
「……市場で、はぐれた」
兄はようやく答えた。
ライアンは卒業式の鐘が遠くで鳴るのを聞いた。
間に合わなくなる。
けれど、ここで二人を置いて走れば、二十年前の自分を裏切る気がした。
「一緒に探そう。俺一人で連れて歩くより、近くの店の人にも手伝ってもらおう」
ライアンは通りの店主に声を掛け、迷子の届け出を頼んだ。
妹には水を渡し、兄には両親の服装を尋ねた。
急ぐ気持ちを抑え、二人が安心して話せる速さで聞いた。
店主が役所の迷子受付へ走り、ライアンは兄妹と市場の端で待った。
兄は何度も道を指さし、「あっちだと思う」と言ったが、ライアンは勝手に移動しなかった。
探す大人と行き違いになるからだ。
妹は疲れて眠りかけている。
「おじさん、どこかへ行く途中だった?」
「ああ。大切な人の卒業式へ」
「行かなくていいの?」
「行きたいよ。でも、君たちが家へ帰るのも大切だ」
しばらくして、息を切らした母親が走ってきた。
兄妹を抱きしめる姿を見て、ライアンは胸を撫で下ろした。
時計塔の鐘は、もう式の始まりを告げていた。
孤児院へ着くと、式は終盤だった。
扉の隙間から覗くと、卒業生たちは壇上で順番に名前を呼ばれている。
ライアンは邪魔をしないよう後ろに立った。
アベルの番になると、少年は一瞬だけ客席を見回した。
空席が一つある。
ライアンが座るはずだった席だ。
アベルはその席を見て、唇を噛んだ。
式のあと、ライアンが謝ると、アベルは小さく言った。
「今日くらい、僕のために来てほしかった」
ライアンは言い訳を飲み込んだ。
「そうだな。
寂しい思いをさせた。
ごめん」
アベルは少し驚いた。
ライアンが遅れた理由を聞いても、すぐには笑わなかった。
喜びと寂しさは、同時にあっていい。
孤児院の廊下には、卒業生が作った紙の花が飾られていた。
アベルは花を一つ手に取り、「これ、みんなで作ったんだ」と言った。
去年の冬は、卒業した先輩が帰ってきて作り方を教えてくれたという。
ライアンはその話を聞いて、少し安心した。
帰ってくる人がいる。
戻ってきた人が、次の子へ何かを渡している。
院長は卒業後の生活について、一人ずつ面談する時間を設けた。
仕事が決まっている子も、まだ迷っている子もいる。
アベルは町の工房へ通う予定しかし、住まいの契約が間に合っていない。
「大丈夫だと思ってた」
と彼は呟いた。
ライアンは言った。
「大丈夫かどうか、一緒に確かめよう」
院長と担当者は入居までの宿泊先を手配し、必要な連絡先を紙にまとめた。
アベルは卒業証書を握り直した。
大人になることは、突然一人で全部できるようになることではない。
分からないことを聞ける場所を、自分でも探せるようになることなのだ。
院長は式の写真に空いた椅子が写っているのを見て、撮り直そうかと尋ねた。
アベルは首を振った。
「このままでいい。遅れてきても、父さんは来てくれたから」
ただし次の写真では、二人が並んで笑った。
式の前夜、アベルは祝辞を読む練習をしていた。
途中で言葉が詰まり、紙を丸めかけたところを院長に見られた。
「上手に話さなくてもいいのよ」
アベルは首を振った。
「父さんに、ちゃんと成長したって伝えたいんです」
その願いをライアンは知らなかった。
だから遅れてきた時、ただの式典ではなく、少年が勇気を出す瞬間を見逃したのだと知った。
翌日、アベルは自分の祝辞をもう一度読んで聞かせた。
ライアンは途中で口を挟まず、最後まで聞いた。
式の後、アベルは空席の前に立っていた。
椅子の背には、院長が用意した白いリボンが結ばれている。
ライアンはそのリボンを外そうとして手を止めた。
「取らないで」
とアベルが言う。
「ここが空いていたのを、忘れたくない」
ライアンは頷いた。
自分が助けた迷子のことを語れば、アベルもすぐに許してくれると思いかけていた。
だが、誰かを助けるために別の誰かを寂しくさせた事実は、消えない。
二つの気持ちを同時に持つことはできる。
だからこそ、謝るべきことは謝りたい。
院長はアベルに、卒業生用の相談窓口の紙を渡した。
住所、開いている曜日、緊急時に連絡できる人。
アベルはそれを見て「父さんに迷惑を掛けなくても済むかな」と言った。
「迷惑じゃないよ」
とライアンは答えた。
「でも、俺が遠くにいる日もある。助けてくれる人が何人もいた方がいい」
アベルは紙を丁寧に折り、卒業証書と一緒に鞄へ入れた。
その夜、ライアンは迷子の兄妹を助けた店主へ礼を伝えに行った。
店主は「大したことはしていない」と笑ったが、ライアンは首を振った。
一人で何でもしようとしなかったから、兄妹を安全に親元へ帰せたのだ。
翌年の卒業式では、ライアンは一時間早く出るつもりだった。
そして道で困っている子を見かけたら、今度も見過ごさない。
その時は助けを頼める人を探し、式にも間に合う方法を考える。
式場の後ろに立っていたライアンを見つけた時、アベルは嬉しかった。
だからこそ、最初からいてほしかった気持ちが強くなった。
ライアンが「迷子を助けていた」
と言っても、その寂しさはすぐに消えない。
アベルは手紙を鞄にしまい、「今日は怒っていてもいい?」と尋ねた。
ライアンは頷いた。
「いいよ。俺が遅れたのは事実だから」
アベルはその答えに、ようやく息を吐いた。
翌朝、アベルは工房の主人へ挨拶に行った。
住む場所が決まるまで、朝の仕事を始める時間を調整してもらうためだ。
主人は少し考え、最初の一週間は短い時間から始めようと言った。
アベルは礼を言い、帰り道でライアンに報告した。
「一人で話せたよ」
ライアンは笑った。
「よかった。困ったら、また誰かに相談していい」
卒業証書を持つ手が、昨日より少し落ち着いて見えた。
卒業式のあと、アベルはライアンを教室へ案内した。
机の上には卒業証書と、小さな布袋が置かれていた。
「卒業したら、もう孤児院には戻れないって言われた」
「誰が?」
「僕が勝手に思ってた」
アベルは笑おうとして、うまく笑えなかった。
ライアンは内ポケットから手紙を出した。
『帰りたくなったら、いつでもおいで』。
アベルは一度読み、もう一度読んだ。
「卒業しても?」
「卒業したからこそ、帰りたい日もあるだろう」
院長は卒業生が相談できる窓口を作ると約束した。
窓口の開く曜日と担当者を掲示し、仕事を失ったときの宿泊先も町の職人組合と調整する。
アベルは「助けを求める先が紙に書いてあるだけで、ずいぶん違う」と言った。
住む場所や仕事に困った時、頼れる大人を明確にするためだ。
ライアンは自分だけが窓口になることを避けた。
百人の子供を育てた経験があっても、すべての相談に答えられるわけではない。
帰り道、アベルはライアンと並んで歩いた。
「遅刻した理由、ちゃんと聞いたよ」
ライアンは頷く。
「でも、遅れたことはごめん」
アベルは少し考えたあと、「来年の式は、最初から来て」と言った。
「来年も呼んでくれるのか?」
「もちろん。卒業したって、僕はここへ帰ってくるから」
ライアンは笑った。
卒業とは、扉を閉めることではなかった。
翌月、アベルは職人組合から届いた初めての給金の控えを持ってきた。
「父さん、これを見て。思ったより手取りが少ないんだ」
ライアンは理由を決めつけず、宿代と道具代を一緒に数えた。
「来月まで足りるか」
「今のままだと足りない。でも親方に相談して、道具を借りられることになった」
アベルは自分で書いた収支表を見せた。
卒業の日に渡せなかったものは、祝辞だけではない。
困ったときに戻って話せる場所だった。
卒業式の翌年、アベルは後輩たちの前で自分の失敗を話した。
「最初の給金で道具を買いすぎて、宿代が足りなくなったんだ」
会場が笑いに包まれる。
「でも相談できた。だから今ここにいる」
後ろの席で聞いていたライアンは、祝辞の紙を開かなかった。
式のあと、アベルは新しい卒業生の一人に「困ったら組合の窓口を使って」と伝えた。
ライアンは二人の背中を見送る。
自分が遅刻しても続く式、自分がいなくても差し出される手。
それを寂しいと思わなくなったことが、父としての新しい成長だった。
自分の足で外へ出ても、振り返れば灯りが見えるようにすることだった。




