第百十話 誰も買わない小さな靴
靴屋の棚に、小さな靴が一足だけ残っていた。
売れ残りではない。
注文した子供の家が代金を払えず、引き取れなくなったのだ。
職人は何度も磨き直したせいで、革が薄くなりかけていた。
「これを安く売れば、あの子の靴がなくなる。けれど置いておくだけでは工賃が戻らない」
ライアンは靴を手に取り、左右で形が違うことに気づいた。
「この子に合わせて作ったのか」
職人は頷いた。
足に障害がある子のため、何度も木型を削り直したという。
ライアンは靴を棚に戻した。
「まず、その子に会おう」
◇
子供の母親は、靴屋へ行くのをためらっていた。
以前、特別な靴を頼んだ時、他の店で笑われたことがあるという。
「うちの子には贅沢だって」
ライアンは職人の作業台を見た。
左右の木型には、削り直した跡が幾つも残っている。
「贅沢かどうかは、誰が決めるんだろうな」
職人は採寸の記録を開いた。
子供の足は成長しており、最初の寸法のままではもう合わない。
革を切り直し、留め具の位置を変える必要があった。
「作り直しになっても、代金は同じでいいです」
職人が言うと、マリナが首を振った。
「必要な作業には、きちんと費用を出します。次の子の靴も作ってもらわないと」
町の共同購入制度を使うことになった。
費用の審査には日数がかかったが、その間、職人は子供の歩き方を何度も確かめた。
完成した靴を履く日、子供は店の敷居で立ち止まった。
母親が手を差し出すと、そっと握り返す。
最初の一歩は小さかった。
誰も拍手をしなかった。
次の一歩を待つために、静かに見守っていた。
◇
靴屋の棚に残った小さな靴は、何度値札を替えても売れなかった。
ライアンが尋ねると、職人は注文票を見せた。
何度も消して描き直された足形がある。
「足に障害のある子のために作った。でも家族が代金を払えなくなって」
職人は勝手に売ることもできず、棚へ戻していた。
ライアンは靴を持ち上げた。
「その子は今、何を履いている?」
訪ねてみると、子供は大きな靴に布を詰めて歩いていた。
職人は採寸し直し、留め具を調整した。
費用は共同購入の仕組みで賄うことになった。
初めて靴を履いた子は、すぐには走らなかった。
一歩、また一歩と歩き、母親を振り返った。
「痛くない」
職人は顔を覆った。
ライアンはその小さな一歩を、どんな凱旋より大きな出来事だと思った。
◇
靴職人は代金を受け取る時、何度も頭を下げた。
「こんなに時間がかかった靴は初めてだ」
ライアンは首を振った。
「時間をかけたから、その子に合ったんだろう」
職人は左右の木型を棚に並べ、次に似た注文が来ても同じ形を押し付けないと決めた。
足の形も歩き方も一人ずつ違う。
子供が石畳で足を止めた時、誰も急かさなかった。
その子自身が次の一歩を選べるように。
靴を履いた子供は、走り出さなかった。
母親の手を握り、石畳を一歩ずつ確かめた。
「痛くない」
その声に職人が俯いた。
代金は町の共同購入費から支払われ、職人は次の注文に取りかかれる。
ライアンは店を出る前、棚に残った木型を見た。
左右で形の違う木型は、誰か一人の足に合わせた証だった。
帰り道、子供が振り返って手を振った。
ライアンも手を振り返す。
世界最強の軍団が何度勝利を収めても、あの一歩に勝るものはないと、彼は思った。
子供は店の外の小さな段差で足を止めた。
職人が手を貸そうとすると、母親がそっと制した。
「自分で試したいんです」
子供は時間をかけて片足を上げ、もう一方を運んだ。
段差を越えると、嬉しそうに笑った。
靴の出来を確かめるのは職人だけではない。
履く本人が、歩きたい場所を歩けるかどうかだった。
職人は子供の歩き方を記録し、成長したら調整できる部分を残した。
今ぴったりでも、半年後には窮屈になるかもしれない。
「また来ていい?」
と子供が聞く。
「もちろん。次は靴が小さくなったって言いにおいで」
子供は嬉しそうに頷いた。
成長して靴が合わなくなる日を、職人は心から楽しみに待つことにした。
その日もまた採寸して、歩く姿を見届けるつもりだった。
職人は靴の手入れ方法を母親に教えた。
濡れたら乾かし、留め具が当たるようになったら無理に履かせず相談すること。
子供の足はこれからも成長する。
今日ぴったりでも、ずっと同じとは限らない。
母親は説明を書き留め、何度も頷いた。
ライアンは次の調整費も制度の対象になるかマリナに確かめた。
一度履けたことを、最後の支援にしてはいけなかった。
翌月、子供は靴屋へ歩いて戻ってきた。
留め具が少し当たるようになったという。
職人はすぐ調整し、歩き方を確かめた。
子供は店を出る時、前より少し長い距離を歩いた。
最初の一歩だけでなく、その次の一歩を支える仕事が続いていた。
靴職人は納品の後、木型と調整記録を棚の奥へしまわず、母親に写しを渡した。
「成長したら、また形が変わります。その時は遠慮なく持ってきてください」
費用の相談先も紙に添えた。
子供は新しい靴のまま水たまりを避け、石の継ぎ目を一つずつ踏んだ。
ライアンは歩幅を合わせた。
早く歩けることより、自分で行きたい場所を選べることが大切だった。
靴屋には新しい注文が届いた。
今度は別の町の子供からだった。
職人は前の木型をそのまま使わず、採寸に行く日を決めた。
同じように困っていても、同じ靴で歩けるとは限らない。
ライアンはその準備を見て、職人の仕事が次の子へつながったことを喜んだ。
靴を受け取りに来た母親は、店の入口で立ち止まった。
「やっぱり、うちには高すぎます」
職人は値札を見せなかった。
代わりに、左右で形の違う木型を机に並べた。
「この子の足に合わせて作ったものです。他の子には合いません」
母親は目を伏せた。
「だからこそ、申し訳なくて」
マリナが説明した。
一か月後、職人は母親から届いた短い手紙をライアンに見せた。
子供は学校までの道を以前より楽に歩けるようになったが、坂道ではまだ足が痛むという。
「作り直しですか」と職人が尋ねる。
「調整で済むか、本人に聞こう」
二人は学校を訪れ、子供にどこが痛むか指で示してもらった。
革を少し柔らかくし、紐の位置を変える。
靴は完成品として棚を出たあとも、使う人と一緒に変わっていく。
職人は次の注文票に『受け渡し後の確認日』という欄を作った。
費用は町の共同購入制度から支払われ、職人には正当な代金が渡る。
寄付だけに頼らず、次に必要な子にも靴を作れる仕組みだ。
「あなたが申し訳なく思う必要はありません」
母親はすぐには頷かなかったが、子供の手を引いて中へ入った。
職人は靴を履かせ、留め具を調整した。
以前の採寸から足が少し大きくなっている。
急いで履かせず、痛い場所がないか一つずつ尋ねた。
子供は最初、返事をしなかった。
母親がしゃがんで目を合わせると、頷いた。
店の前の石畳で、子供は一歩踏み出した。
次にもう一歩。
走り出すことはなかった。
けれど、足を引きずらずに歩けた。
「痛くない」
その言葉を聞いて、職人は顔を覆った。
ライアンは店の棚に残った木型を見た。
誰か一人のために形を変えた道具だった。
世界最強の百人がどれほど大きな勝利を収めても、この小さな一歩は負けていない。
帰り際、子供は振り返って手を振った。
ライアンも手を振り返した。
職人は木型の寸法と調整した箇所を帳面に残した。
次に靴がきつくなった時、子供はまた一から事情を説明しなくていい。
小さな靴は贈り物で終わらず、成長する足を支える約束になった。




