第百九話 百人目の子が隠していた手紙
百人目の子が長いあいだ隠していた手紙が、ようやくライアンのもとに届いた。
『帰っていい?』。
それだけだった。
ライアンは返事を書く手を止めた。
二十年前、最後に家へ迎えた少年は、いつも自分の食事を後回しにした。
今は遠い町で働き、長く便りがない。
ガイアは「迎えに行こうか」と言ったが、ライアンは首を振る。
「帰るかどうかは、あの子が決めることだ」
それでも椅子を一つ磨き、食卓に並べた。
待つことしかできない夜が、親にはある。
◇
青年が帰ってきた時、服には旅の埃がついていた。
玄関で立ち尽くし、何度も帽子を脱ぎ直す。
「仕事を辞めたんだ」
「そうか」
「借金もある。みんなに合わせる顔がない」
ライアンは事情を聞き、すぐに大丈夫だとは言わなかった。
借金の返し方も、次の仕事も、これから考える必要がある。
「でも、今日は飯を食おう」
「怒らないの?」
「怒ることがあるなら、食べたあとで話そう」
青年は椅子に座った。
豆の煮込みは、昔と同じ味だった。
食事のあと、マリナが帳面を持ってきた。
青年は最初、差し出された数字から目を逸らしたが、ライアンが隣に座ると、少しずつ話し始めた。
誰にいくら借りているか、何ができるか、何を手放す必要があるか。
「助けてもらってばかりだ」
「俺も昔、助けてもらってばかりだった」
ライアンは笑った。
「お前が誰かを助ける日は、また来るさ。でも、その日まで帰ってくるなとは言わない」
青年は帳面に自分の名前を書いた。
失敗した理由を書く欄は、どこにもなかった。
◇
百人目に家へ来た子は、誰より静かな大人になっていた。
彼がしまい込んだ手紙には『帰っていい?』とだけ書かれていた。
ライアンは返事を書こうとして、筆を止めた。
帰るのに許可がいる家にしてしまったのか。
彼が戻った夕方、ライアンはいつもの席を空けておいた。
「手紙を読んだよ」
「忙しいと思って」
ライアンは首を振った。
「お前が帰る理由を説明する必要はない」
青年は椅子の背に触れた。
「失敗したんだ。みんなは立派になったのに」
ライアンは鍋の蓋を開けた。
「ここでは、成功した日も失敗した日も、同じだけ食べる」
青年は笑おうとして、泣いた。
次の朝、玄関に小さな帳面が置かれた。
帰宅を知らせるためだけの帳面だ。
書くのは名前と、食べたい料理。
理由の欄は作らなかった。
◇
帰るかどうか迷っていた青年は、途中の宿で何度も手紙を書き直していた。
成功した報告だけを持ち帰ろうとして、書くことがなくなったのだという。
ライアンはその話を聞き、昔の失敗を思い出した。
百人の子供たちが立派になれば安心できると思っていた。
でも、立派でなくても帰れる場所が必要だった。
青年の椅子には、ほかの誰も座らないようにしていたわけではない。
帰った時、すぐに席を作れる家でありたかった。
青年が帰った夜、ライアンは特別なご馳走を作らなかった。
昔から食卓に並んでいた豆の煮込みと、焼きたてのパンを出した。
青年は一口食べて泣き出した。
「失敗して帰ってきたのに」
ライアンは匙を置いた。
「成功した時だけ帰るなら、ここは家じゃない」
翌朝、青年は台所を手伝い、食卓の椅子を磨いた。
玄関には小さな帳面が置かれた。
帰ってくる人が名前と食べたい料理を書くためのものだ。
理由を書く欄はない。
ライアンはその空白を見て、ようやく安心した。
青年は自分の荷物を部屋へ運びながら、古い毛布を見つけた。
幼いころ使っていたものだ。
「まだ取ってあったの?」
ライアンは肩をすくめた。
「捨てる理由がなかった」
青年は毛布を広げ、縫い目のほつれを見た。
誰かが何度も繕った跡がある。
立派な仕事をしていない自分でも、あの頃と同じように迎えてもらえる。
そのことを、ようやく信じられた。
青年は翌日、失敗を知った仲間に会うのを恐れた。
だがガイアは昔のように椅子を引き、「まず朝飯だ」と言った。
誰も成功した仕事の話を求めなかった。
青年はようやく食卓で笑った。
ライアンはその笑い声を聞き、家の扉を閉めないでいてよかったと思った。
帰ってきた青年は、翌朝からすぐ働こうとした。
何もしなければ居場所を失う気がしたのだ。
ライアンは包丁を持つ手を止めた。
「働きたいなら頼む。でも、ここにいるための条件じゃない」
青年は黙って椅子に座った。
しばらくして、自分から野菜を洗い始めた。
命じられたからではない。
皆と朝食を作りたかったからだ。
その違いを、ライアンは大切にした。
夕食のあと、青年は昔の自分の椅子を探した。
背もたれに刻んだ傷が残っている。
「まだあったんだ」
ライアンは笑った。
「直しながら使ってる」
青年はそっと座った。
自分がいない間も、家は変わっていた。
だが、戻る場所は残っていた。
青年が荷物をほどくと、古い封筒が一通落ちた。
表には二十年前の幼い字で「父さんへ」とある。
中身は書きかけのままだった。
『ぼくが大きくなって失敗したら』。
そこで文章は途切れていた。
「最後まで書けなかった。返事が怖くて」
ライアンは封筒を返した。
「今、続きを書くか?」
青年は首を振り、代わりに夕食の皿を二枚運んだ。
返事を急がなくても、食卓には座っていい。
その事実が、手紙の続きを少しずつ書き換えていた。
ガイアは青年へ「何か手伝えるか」と尋ねた。
青年はすぐ答えず、少し考えてから「明日の買い物に付き合って」と言った。
大将軍に頼むには小さすぎる用事かもしれない。
だがガイアは嬉しそうに頷いた。
家族の助けは、必ずしも大きな力でなくていい。
青年が家へ戻ってきた時、ライアンは理由を聞かなかった。
まず椅子を引き、温かい煮込みをよそった。
青年は匙を持ったまま、なかなか食べ始めない。
「仕事を辞めた。借金もある」
ようやく口にした言葉は、震えていた。
「そうか。食べたら、一緒に考えよう」
「怒らないの?」
「怒ることがあったとしても、腹を空かせたまま話す必要はないだろう」
青年は一口食べ、俯いた。
二十年前と同じ味だった。
ガイアが隣に座り、何も言わずにパンを半分渡した。
翌朝、マリナが借金の書類を持ってきた。
青年は顔を強張らせたが、ライアンが隣に座ると、少しずつ話した。
借りた額、返済期限、仕事を失った事情。
返せる見込みのない約束はしない。
必要なら債権者と話し合い、働き口を探す。
ライアンは『全部俺が払う』
とは言わなかった。
青年が自分の生活を取り戻す道を、一緒に探したかったからだ。
夕方、青年は玄関の小さな帳面を見つけた。
帰宅した人が名前と食べたい料理を書くためのものだ。
『帰った理由』
の欄はない。
「これ、俺のため?」
「お前だけじゃない。百人の誰が帰ってきてもいいように」
青年は自分の名前を書き、その横に『豆の煮込み』と添えた。
ライアンは帳面を閉じず、次の人が書けるように置いた。
家は、成功した報告を持ってくる場所ではなかった。
失敗したままでも、扉を開けられる場所だった。
翌朝、青年は豆を洗う役を引き受けた。
ライアンは仕事を尋ねず、鍋の火加減だけを教えた。
焦げた豆を一粒つまんで二人で笑う。
帰ってきた日を特別な式にせず、明日の朝食へつなげる。
青年は三日後、自分から次の仕事の予定を話した。
ライアンは引き止めず、「帰る日を知らせなくても、椅子はある」と答えた。
青年は笑って、次の朝食に使う豆の量を帳面に書いた。
帰ってきたことが、また旅立てなくなる理由にはならなかった。
出発の朝、青年は玄関で振り返り、「今度は手紙を書くよ」と言った。
ライアンは「無理はするな。元気でいてくれればいい」と答えた。
青年は頷き、次の町へ向かって歩き出した。
青年が旅立ったあと、ライアンは玄関の靴跡を掃かなかった。
雨が降れば消えると分かっていたからだ。
数日後、フィルが食堂の帳面を持ってきた。
「あの子の席、次の食事会ではどうする?」
「誰かが座りたければ座っていい。ただ、帰ってきたときは一緒に場所を作ろう」
空席を守るために今いる子を立たせるのではない。
戻れる場所とは、決まった椅子ではなく、迎える人の手のことだ。
フィルは帳面の席順欄を消し、代わりに人数だけを書いた。




