第十一話 王都の倉庫に、まだ飢えた子供がいた
「昨日、受け取ったことになっています」
西区配給所の係員は、帳簿を指で叩いた。
窓口に立つ少女フィアは、雨でふやけた配給札を差し出した。
「でも、もらっていません。弟も、昨日から何も食べてないんです」
「ここには受領印がある。次の人!」
フィアは動かなかった。
背中の小さな弟が、姉の服をつかんでいる。
列の最後にいたライアンは、少女の前へ出た。
「俺にも帳簿を見せてくれないか」
係員は顔をしかめたが、同行していたマリナが正式な調査依頼書を示すと、帳簿を開いた。
配給予定は百二十人分。
受領を確認できる署名は七十三人分。
残る四十七人分には、同じ形の印が並んでいた。
「四十七人が、同じ印を使ったのかしら」
マリナの問いに、係員は答えなかった。
ライアンはフィアの前にしゃがんだ。
「まず、今日の飯を食べよう。調べるのはそのあとだ」
セーラが近くの炊き出しから粥を運んできた。
弟は椀を両手で抱えたが、口をつけない。
「どうした?」
「明日の分に、取っておく」
ライアンは返す言葉が見つからなかった。
昔、百人の子供たちもそうだった。
次の食事があると信じられず、パンを枕の下へ隠していた。
「明日も配る場所を用意する。ただ、まだ決まっていないことは、決まったふりをしない。ここに掲示するから、確認してくれ」
弟は姉を見上げた。
フィアが頷くと、ようやく粥を食べ始めた。
その間にマリナは、受領印の時刻を門番の日誌と照合した。
四十七人分のうち十六件は、配給所の閉門後に押されていた。
「少なくとも、この十六件は記録と合わない」
「帳簿が間違っているんですか」
フィアが尋ねる。
「そう考えられる証拠があるわ。ただし、誰が、なぜ印を押したかはこれから調べる」
マリナは少女の札を取り上げず、番号だけを書き写した。
「あなたが証言しなくても調査できるよう、大人の記録から確かめる」
係員はうつむいていた。
「上から、余った分も配ったことにしろと言われました」
「誰から?」
「名前を言ったら、職を失います」
マリナは彼の言葉を記録し、証言を強制しなかった。
「調査は別の担当者が行う。あなたが今日から正しい記録を付けられるよう、手順を変えましょう」
午後、窓口の横に二枚の紙が貼られた。
『今日用意した食事』
『実際に渡した食事』
数字を読めない人のため、声に出して説明する係も置いた。
札を失った人には仮の受給記録を作り、本人確認を後から補うことにした。
「札がなければ、二度も受け取る人が出ます」
倉庫番が心配すると、ライアンは答えた。
「防ぐ方法は考えよう。でも、札を失くした子を空腹で帰す理由にはしないでくれ」
夕方、フィアが弟を連れて戻ってきた。
新しい札には、受け取った食事の数、担当者の名前、明日の窓口が記されていた。
「明日、弟だけで来ても大丈夫?」
「大丈夫よ。もし断られたら、この相談先へ」
係員の女性が指で場所を示した。
フィアは紙を折らず、胸の前で大切に持った。
ライアンはそれを見届け、ようやく自分のパンを食べた。
しかし、調査は終わらなかった。
マリナが受領簿の裏に残る搬出印を見つけたのだ。
「父さん。配給の数字だけじゃない。小麦そのものが、倉庫から消えている」
「どれくらいだ?」
「帳簿上では五千袋。ただし、本当に五千袋が運び出されたかは、まだ分からない」
ライアンはフィアの弟が空の椀を返すのを見た。
一食を取り戻しただけでは、明日の食卓は守れない。
「なら、まず数え直そう。何がなくなって、何が残っているのか」
ライアンは支援を受けた家の名前ではなく、次に届ける食料の量と担当者を書き留めた。
助けたことを記念するためではない。
明日、誰かが同じ仕事を続けられるようにするためだった。
窓口を離れる前、フィアは配給札を握りしめたまま、壁に貼られた古い掲示を見上げていた。
「これ、先週も同じことが書いてあった」
「何が?」
「明日から必ず配ります、って。でも、次の日には誰もいなかった」
ライアンは掲示の端に残る日付を確かめた。
確かに一週間前のものだった。
新しい約束を掲げる前に、守れなかった約束を消してはいけない。
「マリナ。古い紙は残しておこう」
「記録として?」
「それもある。俺たちがまた同じことを書きそうになったとき、思い出すためだ」
マリナは紙の端をそっと押さえ、剥がさずに日付を書き足した。
弟は粥を半分ほど食べると、匙を置いた。
「お姉ちゃんの分は?」
フィアは笑って首を振ったが、腹の鳴る音までは隠せなかった。
セーラがもう一つ椀を持ってきた。
「姉弟だからって、二人で一人分じゃないよ」
その言葉を聞いて、フィアは初めて両手で椀を受け取った。
湯気に顔を隠すようにして、ゆっくり口へ運ぶ。
ライアンは幼い頃のセーラを思い出した。
あの子も最初は、食べることにさえ許しを求めていた。
二十年たっても、同じ顔をした子がいる。
それが腹立たしかった。
倉庫番は新しい掲示を見て、難しい顔をした。
「毎日、実数を出すんですか。足りなかった日も?」
「足りなかった日ほど必要だ」
ライアンは答えた。
「足りないと分かれば、別の場所から運べる。足りていることになっていたら、誰も助けに来られない」
「責任を問われます」
「数字を直した人の責任と、食事が足りないことの責任は分けて調べよう。隠したままにするより、そのほうがいい」
係員はしばらく無言だった。
やがて新しい用紙を持ち出し、実際に渡した椀を一つずつ数え始めた。
閉門の鐘が鳴るころ、フィアが戻ってきた。
「弟が、明日も来ていいかって」
「来ていい」
「でも、もし食べ物がなかったら?」
ライアンはすぐに大丈夫とは言わなかった。
「そのときは、ここで何が足りないか伝える。別の窓口も案内する。黙って帰らせない」
フィアは何度か頷いた。
「じゃあ、弟にもそう言う」
小さな背中が雨の通りへ消えるまで、ライアンは戸口に立っていた。
配給所の裏で、フィアは弟の袖を引いた。
「昨日の印、私が押したことになってるの?」
マリナは帳簿の写しを二枚並べた。
印影は同じでも、押された位置まで寸分違わない。
「一人ずつ押したなら、こんなふうには揃わないわ。けれど、誰が書き換えたかはまだ調べる必要がある」
係員は肩を落とした。
「前任者から引き継いだとき、数が合わないことには気づいていました。でも上に報告すれば、配給が止まると思って」
「止めたくなかった気持ちは分かる」ライアンは答えた。
「だからこそ、足りないと書かなきゃいけなかったんだ」
その日の夕方、掲示板には『本日不足した人数』と『明日の補充便の到着予定』が並んだ。
フィアは数字を読めない弟に、予定時刻の横へ描かれた鐘の絵を教えた。
フィアは、掲示の場所を忘れないように、弟と一緒に窓口から数えて三つ目の柱を指さした。
文字を読めない弟にも分かる目印だった。
フィアが弟の手を引いて角を曲がるとき、弟は一度だけ振り返った。
ライアンは手を振った。
明日もその手を振れるようにするには、帳簿を閉じるだけでは足りなかった。
マリナは頷き、倉庫の扉へ向かった。
「明日、また来てもいい?」とフィアが戻ってきて尋ねた。
「もちろん。でも、配給を受けるために俺を探さなくていいようにする」
ライアンは掲示板の下に、受け取れなかった人が申し出るための札箱を置いた。
誰が訴えたかを窓口の係員に知られず、監査官だけが開けられる箱だった。
フィアは弟の手を離さず、空の札を一枚入れた。
乾いた音がした。
「でも、名前を書かなければ、誰の分が足りないか分からないでしょう?」と係員が言った。
マリナは箱の脇に二枚綴りの番号札を置いた。
一枚は申し出た者が持ち、もう一枚は監査官が保管する。
窓口で名を名乗らなくても、後から本人が受け取れたか照合できる仕組みだ。
フィアは札の番号を何度も確かめた。
「弟がなくしたら?」
「お姉ちゃんの分と合わせて控えを取っておくわ」
マリナは番号を帳面へ写し、係員にも見えるようにした。
秘密にするのは申し出た人の名前であって、不足した数ではない。
「これで、明日の人も困らない?」
「すぐには約束できない。だから明日、箱の中身と届いた麦を一緒に確かめよう」
その返事を聞いて、フィアはようやく頷いた。




