第9話 砦潜入
冷たい石の床。
鼻をつく薬品の匂い。
遠くから聞こえる兵士たちの足音。
『……?』
美咲はゆっくりと目を開けた。
ぼやけていた視界が少しずつはっきりしていく。
石造りの天井。
鉄格子。
薄暗い部屋。
体には魔力を封じる銀色の拘束具が付けられていた。
『ここは……。』
体を起こそうとした瞬間。
ギィィ……
重い扉が開いた。
黒い鎧をまとった魔族が数人。
その中央を、一人の男がゆっくりと歩いてくる。
長い黒髪。
額には二本の黒い角。
戦場で王国軍を翻弄した、あの魔王軍幹部だった。
男は美咲の前で立ち止まり、静かに笑う。
『目覚めたか。』
『勇者、美咲。』
美咲は鋭く睨み返した。
『……ここは?』
男は両手を広げる。
『ようこそ。』
『ここは魔王軍第一砦。』
『魔王領最前線の要塞だ。』
美咲は小さく舌打ちする。
『だったら話は早い。』
『殺しなさい。』
牢の中へ静寂が流れた。
幹部は一瞬だけ驚いたような表情を見せる。
しかしすぐに笑った。
『潔いな。』
『だが、まだ殺さん。』
『調べ尽くしたら殺してやる。』
美咲の眉がわずかに動く。
『……何を調べる?』
幹部は美咲のまわりをゆっくり歩き始めた。
『勇者。』
『お前たちは、いつの時代にも現れる。』
『そして我ら魔族にとって厄介な存在になる。』
『何百年も。』
『何千年もだ。』
歩みを止める。
『だが誰一人、その理由を説明できなかった。』
『なぜ勇者だけが特別なのか。』
『なぜ勇者だけが魔王へ届く力を持つのか。』
『誰も知らない。』
幹部は肩をすくめる。
『そこで現れたのだ。』
『変わり者が。』
『勇者を殺すより、調べたいと言う変人がな。』
その言葉と同時に。
部屋の奥から足音が聞こえた。
コツ。
コツ。
コツ。
白衣を着た一人の魔族だった。
丸眼鏡。
ぼさぼさの黒髪。
両手には分厚い本を抱えている。
『へへへへ……。』
不気味な笑い声。
『勇者ですよ。』
『本物の勇者。』
『ようやく研究できます。』
男は目を輝かせながら美咲へ近付いた。
『興味深い。』
『実に興味深い。』
『勇者だけが持つ魔力。』
『勇者だけが持つ適性。』
『全部知りたい。』
『へへへ……。』
美咲は冷たく言い放つ。
『調べ尽くしてるじゃない。』
『人間も。』
『魔族も。』
『何百年も調べて分からなかったことが、今さら分かると思う?』
白衣の男は笑顔を崩さない。
『分かりますよ。』
『だって。』
『私は天才ですから。』
『へへへへ。』
幹部は呆れたようにため息をついた。
『……相変わらずだな。』
白衣の男は肩をすくめる。
『研究者なんて皆こんなものですよ。』
『さて。』
『勇者様。』
『少しだけ協力してくださいね。』
美咲は何も答えない。
ただ真っ直ぐ相手を睨み返していた。
その瞳には恐怖はなかった。
一方、その頃。
第一砦の外。
夜風が吹き抜ける草原を、一人の少年が静かに歩いていた。
神崎悠斗。
右手にはスマホ。
画面では赤い点がゆっくり点滅している。
ピッ……
ピッ……
『ここだ。』
視線を上げる。
巨大な砦。
石造りの高い城壁。
四つの見張り台。
松明が夜を照らしている。
『思ったより大きいな……。』
悠斗は身を低くした。
正門には十人以上の見張り。
正面突破など不可能だった。
『どうする……。』
周囲を観察する。
しばらく歩くと、人の気配が少ない側面へ出た。
城壁は高い。
軽く十メートル以上ある。
『登れるわけ……。』
そこで背中のドライヤーへ目が止まる。
『……。』
戦いの時。
風が自分を押した。
『もしかして。』
悠斗はドライヤーを握る。
地面へ向ける。
『頼む。』
魔力を流した。
ブォォォォォン!!
緑色の風が噴き出す。
『うわっ!?』
体がふわりと浮いた。
『え!?』
慌てて出力を弱める。
体はゆっくり着地した。
『飛べる……。』
いや。
正確には風が体を押し上げている。
『これなら!』
もう一度。
今度は慎重に魔力を流す。
ゴォォォォ……
風が足元を押し上げる。
体がゆっくり浮かび上がる。
壁へ近付く。
城壁の上では見張り兵が反対側を向いている。
『今だ。』
悠斗は息を殺しながら、風を細かく調整する。
少しずつ。
少しずつ。
そして
静かに城壁の上へ降り立った。
誰にも気付かれていない。
胸が激しく鼓動する。
スマホを見る。
赤い点は、まだ砦の中心で光っていた。
ピッ……
ピッ……
悠斗はドライヤーを握り直す。
『待ってろよ。』
小さく呟く。
『美咲。』
『今、助けに行くからな。』
夜の闇へ溶け込むように、悠斗は第一砦の内部へ足を踏み入れた。




