第92話 灰降る大地の恵み
「フレンチ・リネン」と「特殊鋼のコイルスプリング」による完全国内生産の目処が立ち、チュイルリー宮殿の地下工場は再び轟音を上げて稼働し始めた。
労働者たちの顔に活気が戻り、イギリスの海上封鎖という物理的脅威は、私たちの「メイド・イン・フランス」の意地によって跳ね返されようとしていた。
だが、私の心には依然として、鉛のように重く冷たい不安が居座っていた。
「……太陽が、見えないわ」
チュイルリー宮殿の執務室。厚いガラス窓の向こうに広がるパリの空は、昼間だというのに薄暗く沈んでいた。
はるか北の国、アイスランドのラキ火山の大噴火。そこから偏西風に乗って流れてきた有毒な火山灰は、成層圏に分厚い灰色のベールを作り、太陽の光を無慈悲に遮断し続けている。
窓辺に立つ私の息は白く濁り、パリの街の屋根には、ザラザラとした黒っぽい灰が降り積もっていた。
「マリー。工場の稼働は維持できましたが、根本的な問題である『食糧』の枯渇が迫っています」
背後で、ナポレオンが、パタンと分厚い総勘定元帳を閉じた。その声は、外の空気よりも冷徹な現実を帯びている。
「地下のキノコ農場と代替肉の生産は順調です。しかし、それだけではパリ全市民数十万人のカロリーとビタミンを長期的に賄いきれません。……太陽の光がなければ、小麦も、ジャガイモも育たない。備蓄が底を突けば、遅かれ早かれ春には国中が餓死します」
「分かっているわ……」
私はギリッと唇を噛み締めた。
いくら工業をホワイト化して雇用を守っても、大地の恵みである『農業』が死んでしまえば、人間は生きられない。どんなに立派なスプリング靴を作っても、それを履いて歩くためのエネルギーがなければ、国は崩壊する。
(太陽の光が弱くて、外の空気が冷たいなら……。なけなしの光を限界まで一箇所に集めて、暖かい空間を人為的に作り出すしかない!)
私はガタッと立ち上がり、製図板に向かっていたルイの背中をバンッと叩いた。
「ルイ! 万博で作った『水晶の宮殿』で余ったガラス板と規格化鉄骨、まだ倉庫に大量に眠っているわよね!?」
「え? ああ、万博の拡張用に用意していた資材が山ほどあるけど……まさか」
「パリ郊外の平地に、そのガラスと鉄骨を使った巨大な『温室』を建設するのよ! ガラスの壁で灰と強風を防ぎ、太陽の光の温もりを内部に閉じ込めるの!」
私のトンデモ提案に、ルイは腕を組んで深く唸った。
「温室か……。確かに、王侯貴族が冬にオレンジや南国の花を育てるための小さな温室の概念はある。だが、何万人もの胃袋を満たす規模の農地をガラスで覆うとなると、太陽光の熱だけでは夜間の強烈な冷え込みに耐えられないぞ。土が凍ってしまえば作物の根は死ぬ」
「そこは、あなたの変態的な……じゃなくて、天才的な技術力の出番じゃない!」
私はルイの胸をドンと突いた。
「チュイルリーの地下で作った『キノコの堆肥の発酵熱』と『蒸気機関のボイラーの排熱』あれをただ捨てるのはもったいないわ。温室の地下に銅製のパイプを網の目のように張り巡らせて、温水を循環させるのよ!
つまり、世界初の『地中熱・温水暖房システム搭載型プラント』よ!!」
「地中……温水暖房……!」
ルイの瞳に、オタク特有の狂喜の光がバチバチと弾けた。
「できる! ポンプでボイラーの温水を温室全体の地中に循環させ、土壌そのものを温めれば、外気が氷点下でも内部は春のような地温を保てる! ガラスで覆われた空間なら、水分の蒸発も防げて湿度の管理も完璧だ。……アントワネット、君は農業すらも『工業化』してしまう気かい!?」
「飢え死にするよりマシよ! ナポレオン、すぐに工場の手が空いている労働者たちを動員して、ガラスの温室の建設を開始して!」
「了解しました。直ちに『農業プラント建設計画』に資材と人員のリソースを全振りします」
ナポレオンが、恐るべきスピードで建設工程表を書き殴り始めた。
数週間後。
パリ郊外の枯れ果てた大地に、突如として、幾棟もの巨大なガラス張りの建造物が立ち並んだ。
内部にはボイラーによって温められた空気が満ち、地下を巡る温水パイプのおかげで、冷害で凍りついていた土壌が湯気を立てるほどふかふかに解凍されている。
「素晴らしいわ! 外は雪が降っているのに、この中はぽかぽかの春みたい! これならジャガイモの種芋を植え付けられるわね!」
私がサロペット姿でクワを握りしめ、温室の土を耕していると、足元でカサカサと小気味良い音がした。
「まーま! まーま!」
二歳を目前に控え、すっかり足取りがしっかりしてきたジョゼフが、小さな子ども用のシャベルを両手で握りしめ、頭から火山灰を被って真っ白になりながらトコトコと歩いてきたのだ。
「こらこらジョゼフ、外の灰で遊んだらダメよ。お口に入ったら危ないから……」
私が慌ててジョゼフの顔をハンカチで拭こうとした、その時だった。
「ぱ! まぜまぜー!」
ジョゼフは、外から運んできた小さなバケツ一杯の「灰色の砂」を、温室のふかふかの土の上にバサァッとぶちまけ、持っていたシャベルで「まぜまぜ!」と楽しそうに土と灰を混ぜ始めたのだ。
「ああっ、ダメよジョゼフ! その灰は作物を枯らした有毒な……」
「待ってください、マリー!」
止めに入ろうとした私を、背後からナポレオンが鋭い声で制止した。
彼はジョゼフが混ぜた土を一つかみ手に取り、匂いを嗅ぎ、顔を限界まで近づけてじっと観察している。
「……ナポレオン? 灰がどうかしたの?」
「……盲点でした。確かに、葉に直接降り注ぐ火山灰は光合成を阻害し、強酸性の雨で作物を枯らします。……しかし、この『灰』そのものの成分を、土に混ぜ込んだ場合は話が別だ」
ナポレオンは、震える手で土をギュッと握りしめた。
「火山灰には、大地の奥底から噴き出した莫大な『カリウム』と『リン』、そしてマグネシウムなどの元素がたっぷりと含まれています。……王妃様。ジャガイモが最も必要とする肥料の成分は何でしたか?」
「えっ? ……カリウムと、リン……」
私はハッと息を呑んだ。
前世の記憶が、パズルのピースのようにカチリと噛み合う。
(……そうよ! 日本でも、火山の噴火でできた『シラス台地』や北海道の火山灰土壌は、水はけが良くてミネラルが豊富だから、サツマイモやジャガイモの世界的名産地になっているじゃない!)
土の上に積もった灰は作物を窒息させるが、適量を土に漉き込み、しっかりと混ぜ合わせれば……それは人工的には到底作り出せない、大自然がもたらした『究極のミネラル肥料』へと変貌するのだ!
「ジョゼフ……! あなた、天才よ!!」
私は、灰まみれのジョゼフを抱き上げ、泥だらけのふっくらした頬に何度もキスをした。
「きゃははっ! まぜまぜ!」
ジョゼフは自分が褒められたことを悟り、得意げに「ニパッ!」と笑ってシャベルを空に向かって振り回している。
「……酸性が強すぎる灰も、地下の『キノコ栽培で使った馬糞のアルカリ性堆肥』と混ぜ合わせることで中和され、究極の『ミネラル・オーガニック土壌』へと化学変化を起こす!ルイが温めた土と、ジョゼフが教えてくれた火山灰肥料……。これなら、かつてないスピードで、超特大のジャガイモが育つはずよ!!」
絶望の象徴であり、空を覆う「死の灰」が、ジョゼフの無邪気な泥んこ遊びによって、フランスの農業を爆発的に進化させる『魔法の粉』へと姿を変えた瞬間だった。
「ナポレオン! パリ中の道や屋根に積もった火山灰をかき集めなさい! 街の掃除にもなって一石二鳥よ! 労働者たちに『灰一袋につき、ボーナス支給』の号令をかけて!」
「了解しました! すぐに『火山灰回収・土壌改良部隊』を編成し、パリの灰をすべてこの温室の肥料に変換します!」
ナポレオンが、軍隊を指揮するような圧倒的な覇気で駆け出していく。
数週間後。
ガラスの箱舟の中で、温水パイプの熱と、火山灰の豊富なミネラルをたっぷり吸い込んだジャガイモの種芋たちは、外の凍てつく冬と大同盟の経済封鎖を嘲笑うかのように、力強く青々とした芽を一斉に吹き出し始めた。
「すごい……! 成長速度が通常の二倍以上だわ! 葉のツヤも厚みも、今までで一番良い状態よ!」
私は、青々と茂るジャガイモの葉を撫でながら、歓喜の涙を滲ませた。
工業の完全自給化に続き、食糧の完全自給化の道も、ついに切り開かれたのだ。
マリー・アントワネット、24歳。
太陽を奪われた絶望の冬に、夫のオタク技術と息子のファインプレーで見事な「全天候型・巨大農業プラント」を完成させ、彼女はフランスの食糧事情をコントロールする『大地の女神』へと至る階段を、力強く上り始めたのである。
――だが。
ガラス越しに見える遠くの森の暗がりから、この緑の奇跡を憎悪に満ちた瞳で監視している者たちがいた。
「……忌々しいオーストリア女め。海を封鎖したというのに、なぜあの中だけ春のように作物が育っているのだ」
闇に溶け込むような黒い軍服を着た男たち。
プロイセン王国と大英帝国から秘密裏に放たれた、対仏大同盟の『破壊工作員』である。
「放置すれば、フランスは永遠に干上がらん。……今夜、あの忌まわしいガラスの小屋に火を放ち、女狐の希望ごと灰にしてやれ」
冷酷な命令とともに、破壊工作員たちが音もなく闇の中へ散開していく。
国内の生産と農業を完璧に立て直したマリーたちの前に、今度は直接的な「物理的破壊」という卑劣な刃が、静かに、そして確実に忍び寄っていた。




