第91話 メイド・イン・フランス
チュイルリー宮殿に広がる、王立工場。
昨日まで、絶え間なく響いていた高圧蒸気機関の力強いピストン音も、規則正しく部品を削り出す旋盤の金属音も、今は嘘のように消え失せていた。
冷え切った巨大なボイラー。動かないベルトコンベア。油と鉄の匂いだけが虚しく漂う薄暗い空間で、数千人の労働者たちが、主のいない機械の前に力なく座り込んでいた。
「……王妃様。もう、ダメなんでしょうか」
「俺たち、また明日から、凍えるパリの路地裏でその日暮らしのホームレスに戻るしかねぇんですかい……」
視察に訪れた私を見上げ、彼らは絶望に染まりきった暗い瞳を向けてきた。「材料の枯渇」という現実が、彼らの尊厳を再び打ち砕こうとしている。
私は唇を強く噛み締め、何とか笑顔を作って彼らを慰めた後、足早に工場の管理室へと向かった。
重い扉を開けると、そこには、自分の頭の大きさほどもある分厚い帳簿を前に、氷のように冷たい表情でペンを走らせる、ナポレオンの姿があった。
「……現状の報告を」
私が声をかけると、ナポレオンはペンを置き、容赦のない数字を突きつけてきた。
「主力商品である『ベルサイユ・スニーカー』のキャンバス地を作るための、輸入木綿。そして、靴底のクッション材や『サスペンション・ベビーカー』の緩衝材に不可欠な南米産パラゴム。……先ほど、最後のストックがゼロになりました。現在、生産ラインは稼働率ゼロパーセント。完全な機能停止状態です」
「港からの密輸ルートは? アーサーが何とか裏から手を回せないの!?」
私が食い下がると、部屋の隅で腕を組んでいた元・英国スパイのアーサーが、苦虫を噛み潰したような顔で首を横に振った。
「不可能です、王妃様。相手はあの大英帝国が誇る『王立海軍』ですよ。七十四門の大砲を積んだ巨大な戦列艦が何十隻も連なり、ドーバー海峡から大西洋沿岸まで、文字通り『オーク材の分厚い壁』を作って海上を完全封鎖しています。……ネズミ一匹、いや、海鳥一羽すら、今の海を越えてフランスの港に入ることはできません」
「くそっ……! 僕の作った旋盤が、ただの重たい鉄のゴミになっちまった……!」
油まみれの作業着を着たルイが、自分の手で精巧に削り出した真鍮の歯車を、怒りに任せて壁に投げつけた。
ガシャン! と乾いた音が響き、歯車が床を転がる。
「大同盟の連中は、僕たちの『技術』に武力で勝てないから、卑怯にも『兵站』を絶ちやがったんだ! 材料がなきゃ、どんな機械だってただのガラクタだ!」
普段は温厚なオタク王が、髪を振り乱して悔しがっている。
無理もない。彼が魂を削って組み上げた量産システムが、外の世界の理不尽な暴力によって止められてしまったのだから。
「マリー。これが現実です」
ナポレオンが、机の上に広げたヨーロッパ地図の、フランスを取り囲む国境線をペンでなぞった。
「イギリスの海上封鎖。さらに陸路も、プロイセン軍とスペイン軍によって国境を完全に封じられています。相手は、私たちが内部から干上がり、労働者が暴動を起こして自滅するのを待っている。……王妃様、このままでは一週間で工場の資金がショートし、来月の借金返済が滞り、フランスは破産します」
ナポレオンが告げたのは、文字通りの『詰み』の宣告だった。
外から何も入ってこない。金も稼げない。
太陽を失った空からは、未だにラキ火山の有毒な灰がチラチラと舞い落ちており、外の空気は刺すように冷たい。
絶望。
誰もが、この暗い管理室の中で下を向いていた。
だが。私は、深く被っていた母の形見の『白いサウナハット』のツバを、クイッと上に持ち上げた。
「……二人とも、下を向いている暇はないわよ」
私の声に、ルイとナポレオンがハッとして顔を上げた。
「海がダメ、陸がダメ。外から材料が入ってこない。……それがどうしたの?」
私は、机の上に広げられたヨーロッパの地図をバサッと払い落とし、その下にあった『フランス国内の詳細図』を指で強く叩いた。
「外から入ってこないなら、中にあるもので作ればいいじゃない! フランスは広大な大地と、豊かな自然に恵まれた国よ。イギリスのように植民地から搾取しなくても、自分たちの足元の土から、いくらでも富を生み出せるはずだわ!」
「マリー、精神論は結構ですが……」
ナポレオンが眉をひそめて反論する。
「不可能です。スニーカーのキャンバス地を作る木綿も、衝撃を吸収するゴムの木も、このフランスの気候では育ちません。代用品がなければ、製品は作れないのです」
「代用品ならあるわよ!!」
私は、ナポレオンの言葉を真っ向から切り捨てた。
「コットンがないなら、『亜麻』を使えばいいじゃない!」
「リネン……?」
「そうよ! フランス北部のノルマンディー地方は、古くから世界最高品質の亜麻の産地じゃないの! コットンより丈夫で、水に強く、通気性も抜群。洗えば洗うほど肌に馴染むわ。これを極限まで細く、強く紡ぐ技術を開発して、スニーカーのキャンバス地も、労働者たちのサロペットの生地も、全部最高級の『フレンチ・リネン』に置き換えるのよ!」
私の言葉に、ナポレオンの目が微かに、しかし鋭く見開かれた。
「……なるほど。国内の農家に亜麻の増産を指示し、全量を国が買い上げれば、冷害で苦しむ国内の農業にも莫大な現金が回る。海外への関税も、危険な輸送コストもゼロ。……富がすべて国内で循環する、完全な『内需の経済サイクル』が完成しますね」
「でも、アントワネット」
ルイが、床に落ちた歯車を拾い上げながら立ち上がった。
「布地はそれで解決できても、『ゴム』はどうするんだい? スニーカーの靴底のクッション性や、ベビーカーが石畳の振動を吸収するためのサスペンションは、パラゴムのあの圧倒的な弾力がないと……」
「ルイ。あなた、プロイセンの将軍を打ち負かした『インナーマッスル・リフォーマー』を作った時、ゴムなんて使ったかしら?」
「え……?」
「あなたが使ったのは、南米の木の汁なんかじゃない! フランスで産出された鉄を、あなたの技術で叩き上げて作った、強靭な『スプリング』でしょう!?」
私は、ルイの分厚い胸板をドンッと突いた。
「ゴムがないなら、鉄を極限までしなやかに加工して、金属の弾力で衝撃を吸収するのよ! あなたの『冶金技術』と『オタク魂』なら、ゴムのクッション性を超える、緻密で美しい『金属サスペンション』を靴底サイズにまで小型化できるはずだわ!」
「金属の……サスペンションを、靴底に……!」
ルイの瞳孔が、カッと見開かれた。
枯れかけていた彼の職人魂に、猛烈なガソリンが注ぎ込まれた瞬間だった。
「……できる! ゴムに頼るからいけないんだ。アルザス・ロレーヌ地方で採れる良質な鉄鉱石に、炭素の含有量を極限まで調整し、『焼き入れ』と『焼き戻し』を徹底的に管理する。そうすれば、決して折れず、しなやかに反発する『特殊鋼』が完成する!」
オタク王が、弾かれたように製図板に向かい、猛烈な勢いで新しい靴底とベビーカーの設計図を引き始めた。
「パラゴムの代わりに、靴底のコルクの間に、直径数ミリの超小型コイルスプリングを数十個敷き詰めるんだ! そうすれば、ゴム以上に反発力があり、半永久的に劣化しない究極の『メカニカル・クッション・ソール』が誕生するぞ!!
ああ、血が騒ぐ! 今すぐ高炉の温度を上げろ!!」
「アーサー!」
私は、呆然としている元スパイを怒鳴りつけた。
「は、はい! 王妃様!」
「国内の物流網を総動員して、ノルマンディーから亜麻を、アルザス・ロレーヌから鉄鉱石をありったけかき集めなさい!ナポレオン! あなたは亜麻を効率よく紡ぐための新しい『自動紡績機』のライン構築と、国内のサプライチェーンの再編成よ! 予算は全額突っ込みなさい!」
「……了解しました。大英帝国の海上封鎖を、フランスの大地だけで完全に無力化してみせましょう」
ナポレオンが、かつてないほど獰猛な笑みを浮かべた。
私は、メガホンを手に取って管理室の扉を蹴り開け、一階の工場で不安に震える数千人の労働者たちの前へと駆け下りた。
「みんな、聞いて!!」
私のメガホンを通した声が、静まり返った地下工場にビリビリと響き渡った。
カトリーヌたち市場の女や、屈強な労働者の男たちが、ハッとして顔を上げる。
「イギリスの連中は、海を封鎖すれば私たちが干上がって、泣きながら降伏すると思っているわ!
でも、冗談じゃない! 私たちは他国の搾取になんて頼らない!!」
私はメガホンを高く振り上げた。
「今日からこの工場は、フランスの大地から採れた素材だけで、世界最高の製品を生み出す『完全自給自足の要塞』に生まれ変わるわ!あなたたちの仕事は、絶対に奪わせない! 私たちの健康な体と、この大地の恵みがある限り、フランスは絶対に負けないのよ!!」
しんと静まり返っていた空間に、誰かがゴクリと息を呑む音が聞こえた。
そして次の瞬間。
「……やってやろうじゃねえか!!」
カトリーヌが、肉切り包丁を頭上に掲げて叫んだ。
「外国のゴムがねえなら、国の鉄を叩きまくってやる! 王妃様が仕事を守ってくれるなら、アタイらは死ぬ気でハンマーを振るうぞ!!」
「そうだ! 海が封鎖されたくらいで、この最高のサウナとステーキを手放してたまるかァァッ!!」
「「「うおおおおおおおおっ!! 誇り高きフランス労働者、万歳!! 王妃様、万歳!!」」」
労働者たちの雄叫びが、冷え切っていた地下工場の空気を一瞬にして沸騰させた。
止まっていた高圧蒸気機関のボイラーに、男たちが歓声を上げながら次々と石炭をくべ始める。
シュッシュッ、ガシャン! と、巨大なピストンが再び命を吹き込まれたように力強い産声を上げた。
絶望に沈んでいた地下迷宮に、かつてないほどの熱気と、反撃の轟音が鳴り響き始めたのだ。
マリー・アントワネット、24歳。
彼女は「外部からの輸入」という最大の弱点を切り捨て、フランスの大地と人々の力を100%活用する『完全内需の超・自給自足エコシステム』へと、国家の舵を大きく切り直した。
だが、彼女たちはまだ気づいていなかった。
フランスが内部から強靭に立ち直ろうとしているその活気を、チュイルリー宮殿の暗闇から、冷酷な目で監視している「対仏大同盟」の卑劣な工作員たちが潜んでいることに――。




