第90話 対仏大包囲網
ウィーンのカプツィーナー納骨堂は、凍てつくような冷気に包まれていた。
ハプスブルク家の歴代君主が眠るその地下霊廟に、母様――マリア・テレジアの豪奢な棺が静かに納められた。
ヨーロッパ中から集まった王侯貴族たちが、黒い喪服に身を包んで仰々しい涙を流している。
だが、私は知っている。
彼らがハンカチで隠した口元が、オーストリアという巨大な重石が消えたことへの「打算」と「野心」で醜く歪んでいることを。
(……お母様。あなたの遺したハプスブルク帝国は、兄のヨーゼフが必ず守り抜くわ。だから私は……私が愛したフランスを、絶対に守り抜いてみせる)
私は喪服のヴェールの下で、母様から託された『白いサウナハット』をそっと胸に抱きしめ、深く、深く一礼をした。
「……行きましょう、アーサー、サンソン先生。私たちの戦場へ」
帰りの『マリー・エクスプレス号』の車内は、行きのような張り詰めた緊張感とは違う、重く静かな空気が漂っていた。
向かいの席に座るサンソン先生は、私の悲しみを慮り、微かに目を閉じて深い沈黙を守ってくれている。
私は膝の上に置いた、不格好な手編みのサウナハットを、指先でそっと撫でた。
羊毛の少しチクチクとした感触が、母様のゴツゴツとした手で不器用に編み棒を動かしていた姿を鮮明に思い起こさせる。
『これを被っている間だけは、王冠の重さを忘れなさい』
耳の奥で、母の優しい声が何度もリフレインした。
前世で突然死に、親孝行も別れの言葉も言えなかった私。今世でようやく、不器用で冷たかった「ヨーロッパの母」と、本当の家族としての絆を結べたのに。
その時間は、あまりにも短すぎた。
(……お母さん。私、もっと一緒に笑いたかった。ジョゼフが歩くところも、ルイの作った変な発明品も、もっと見せたかったよ……)
車輪が規則正しいリズムを刻む中、私の頬を温かい涙が音もなく伝い落ち、真っ白なウールに染み込んでいく。
私は声を殺し、サウナハットに顔を埋めて、ただ静かに、子供のように泣き続けた。
どれくらい、そうしていただろうか。張り詰めていた心の糸が涙と共に溶け出し、やがて深い悲しみが、静かな決意へと変わっていくのを感じた。
馬車がフランス領内に入ったあたりだった。
御者台の小窓がコンコンと叩かれ、アーサーの鋭い声が飛んできた。
「王妃様……! 何かおかしいです。万博の特許品を運ぶはずの荷馬車と全くすれ違いません。それに、港の方角から内陸へ向かうはずの物流網が、完全に死んでいるように見えます」
元スパイの研ぎ澄まされた直感が、異常事態を告げていた。
胸の奥で、母様の最期の警告が警報のように鳴り響く。
――『私が死ねば、ヨーロッパの古い王たちが、あなたの温かさを恐れて必ず火を消しに来るわ』。
私はサウナハットから顔を上げ、冷たい手で両頬の涙をグッと拭った。
窓の外には、見慣れたパリの街並みが、重い灰色の雲の下に広がっていた。
(……もう、泣かない)
私は喪服のヴェールを静かに後ろへ払い、深く息を吸い込んだ。
悲しみに浸る時間は終わった。ここから先は、母が案じた「理不尽な暴力」から、愛する家族と国を守り抜くための戦いが始まるのだ。
「急いで、アーサー! 宮殿へ向かって!」
弾丸のような速度でパリへと帰還した私たち。
だが、シャン・ド・マルス練兵場にそびえ立つ『水晶の宮殿』の横を通り過ぎた瞬間、私は息を呑んだ。
「……音が、しない」
つい数週間前まで、各国のVIPが長蛇の列で溢れかえっていた万博会場が、嘘のように静まり返っている。
さらに、それに連動してフル稼働しているはずのチュイルリー宮殿の工場からも、蒸気機関の地響きが消え失せていたのだ。
「ルイ! ナポレオン!」
私が血相を変えて執務室に飛び込むと、そこには、頭を抱えて座り込むルイと、壁に巨大なヨーロッパ地図を広げ、無数にバツ印を書き込んでいる十歳のナポレオンがいた。
「アントワネット……! お義母様のことは、本当に、残念だった……。君のそばにいてあげられなくて、ごめん……」
ルイが痛ましげに顔を歪め、私を気遣う。
だが、彼自身の目の下にはドス黒い隈ができ、数日は一睡もしていないことが一目でわかった。
「私のことはいいわ。ルイ、工場はどうしたの!? 万博で結んだ莫大なサブスク契約の納品があるのに、ストライキでも起きたの!?」
「……逆です、マリー」
地図の前から振り返ったナポレオンが、氷のように冷たい声で事実を告げた。
「労働者たちは働きたがっています。しかし……『材料』がないのです。スニーカーの底やサスペンションに不可欠な南米産のパラゴム、サロペットに使う極上の木綿。……万博の特大受注を捌くための海外からの輸入素材が、昨日からピタリと止まりました」
「輸入が止まった……? 万博で稼いだ外貨で、代金ならいくらでも先払いできるじゃない!」
私がパニックになりかけると、アーサーが執務室に駆け込んできた。その手には、傍受した暗号通信の束が握られている。
「資金の問題ではありません、王妃様! 『買えない』のではなく、海路を完全に『封鎖』されたのです! ……大英帝国の、王立海軍によって!!」
「――ッ!!」
イギリス海軍。当時の世界の七つの海を支配する、最強にして最悪の軍事組織。彼らが、フランスの主要な港を何百隻もの軍艦で取り囲み、一切の商船の出入りを禁じたというのだ。
「ど、どういうことよ! 万博でイギリスの資本家連合とは、Vバーガーの販売権や蒸気機関の特許で巨額の契約を結んで、めちゃくちゃ喜んで帰っていったはずじゃない!」
「それが原因です、王妃様」
アーサーが、血を吐くような声で言った。
「私がかつて所属していた英国情報部からの通信を解読しました。……ロンドンの議会と資本家たちが、フランスに対して完全にブチギレたんです」
彼が広げたイギリスの新聞の写しには、信じられない見出しが踊っていた。
『マンチェスターの紡績工場で大規模ストライキ! 労働者たちが「フランスを見習え! 我々にも八時間労働とサウナとVバーガーを寄越せ!」と暴動!!』
アーサーの報告を聞き、私は背筋が凍りつくのを感じた。
私たちが万博で誇示した「高品質な製品」
それを生み出していたのが、実は『一日八時間労働・食事付き・サウナ完備』という超絶ホワイト工場だという事実。
万博に訪れた各国の貴族や資本家たちが自国に持ち帰ったその情報は、劣悪な環境で十六時間働かされていた各国の平民たちに希望を与え……そして、「フランス王妃万歳!」と一斉に決起させてしまったのだ。
「資本家どもは気づいたのです。フランスの技術は喉から手が出るほど欲しいが、あの『健康と平等』という労働環境の思想が広まれば、自分たちの搾取システムが崩壊してしまう、と」
ナポレオンが、地図上のフランスの国境をペンでグルリと黒く囲んだ。
「王権や搾取を前提とする他国からすれば、王妃様のイデオロギーは疫病よりも恐ろしい『国家転覆の猛毒』です。だから彼らは手のひらを返し、『武力でフランスを制圧し、技術ごと工場を奪う』方向に舵を切りました」
私は、息が止まりそうになった。
永続的な生産のために、自分たちの周りをホワイトで健康的な環境にした。それが、凄まじいバタフライ・エフェクトを引き起こし、他国の『搾取構造』そのものを根底から揺るがしてしまったのだ。
「イギリスだけではありません」
ナポレオンはペンをプロイセンとスペインの国境へと滑らせた。
「女帝マリア・テレジアの崩御を絶好の好機と見たのでしょう。万博でピラティスに感動していたプロイセン軍部も、国境に大軍を集結させ始めました。彼らは、『王権を揺るがすフランスの危険思想を物理的に叩き潰す』という名目で……前代未聞の『対仏大同盟』を結成しました」
四面楚歌。
万博で「お客様」だったはずのヨーロッパ中の大国が、すべてフランスを包囲する敵に回ったのだ。
「材料が届かなければ、サブスクの納品が滞り、契約違反で違約金が発生します。工場が止まれば、パリの平民たちは再び職を失い、飢える。……さらに、借金の利子も払えなくなり、国家は今度こそ完全に破産します」
ナポレオンが、悔しげに拳を握りしめる。
前世で無敵の軍隊を率いた彼も、今はまだ十歳の子供。兵を率いる権力も、圧倒的な物量も、今の彼らにはない。
「僕の……僕の作った機械と工場が、巡り巡って、この国に世界大戦を招いてしまったというのか……」
ルイが膝から崩れ落ち、頭を抱えた。
個人の知恵とオタク技術で作った「完璧な健康社会」が、外界の強大な武力と地政学という「絶対的な暴力」によって、今まさに蹂躙されようとしている。
健康も、ピラティスも、サウナも。
港を封鎖する巨大な大砲と軍艦の前では、何の意味も持たない。
「……王妃様。水晶宮の前の広場に、労働者たちが集まっています」
カトリーヌが、重い足取りで執務室に入ってきた。
「みんな、材料がなくてラインが止まったことに不安を感じています。……このままじゃ、また昔の飢えたパリに逆戻りだ、と」
私は、窓から外を見下ろした。
そこには、万博の華やかなパビリオンを見上げながら、数千人の労働者たちが不安と恐怖に満ちた顔で立ち尽くしていた。
彼らの手には、私が与えた「明日を生きるための仕事」がない。
――『マリー。理不尽な暴力や、大国の理屈があなたたちを押し潰そうとするだろう。でも、決して屈してはならない』
脳裏に、母様の最期の言葉が蘇る。
私は、喪服のヴェールを引き剥がし、箱から取り出した真っ白な『サウナハット』を、強く、強く握りしめた。
「……泣き言を言っている暇はないわよ、ルイ、ナポレオン」
私が振り返ると、二人はハッとして顔を上げた。
「イギリスが海を封鎖した? 上等じゃない。ゴムや木綿がないなら、フランスの大地から代わりのものを捻り出せばいい! 大砲で脅してくるなら、大砲より恐ろしい『経済の暴力』で連中の喉元を締め上げてやるわ!」
私は、サウナハットを頭に深く被り、真っ赤に充血した目で不敵に笑い飛ばした。
「彼らが私たちの『ホワイト工場』を消し去りたいと言うのなら……売られた喧嘩は、一万倍の生産性とイノベーションで買い返してあげる。
さあ、反撃の狼煙よ! 『対仏大同盟』を、根こそぎ吹き飛ばしてやるわ!!」
マリー・アントワネット、24歳。
万博の特大の成功が引き金となり、世界を敵に回した絶望の淵で、彼女は涙を汗に変え、18世紀の常識を覆す国家総力戦への壮絶な戦端を、今ここに開いたのである。




