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マリーアントワネットに転生したけど処刑されたくないので、お菓子はほどほどに  作者: てっぺい
第五章

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第89話 二人の母

 ウィーン、ホーフブルク宮殿。

 分厚い石壁に囲まれたその部屋は、冬の冷たい風を遮断しているはずなのに、どこか芯から冷え切っているように感じられた。


 パリから特製馬車で死に物狂いで駆けつけ、サンソン先生の的確な処置が功を奏したことで、母様を苦しめていた恐ろしい呼吸困難と肺に水が溜まる症状は、奇跡的に和らいでいた。


 だが、それは決して「病の治癒」を意味するものではなかった。


 燃え尽きる寸前の蝋燭が、最期にひときわ高く、そして澄み切った光を放っているだけの時間。


 サンソン先生の悲痛な沈黙が、残された時間がわずか数日、いや、数時間であることを物語っていた。


「……」


 私は、薄暗い天蓋付きのベッドの傍らに膝をつき、眠る母様の顔をじっと見つめていた。


 そこには、私が知っている、ヨーロッパ中を震え上がらせた「鉄の女帝」の面影はない。十六人の子供を産み、果てしない戦争と外交に生涯を捧げ、心身ともにすり減って疲れ果てた、一人の小柄な老女が横たわっていた。


「……マリー。そこに、いるの?」


 カサカサに乾いた落ち葉のような、微かな声が静寂を破った。


「ええ、お母様。ここよ。ずっと手を握っているわ」


 私は弾かれたように顔を上げ、母様のひんやりとした両手を、自分の両手で包み込んで温めた。


 母様は薄く重い瞼を開け、焦点の定まらない目で私を探し、やがて私の顔を見つけ、穏やかに微笑んだ。


「……どうして泣いているの。私の、誇り高きフランス王妃」


「泣いてなんか、ないわ。外の雪の反射が、目に沁みただけよ」


 強がる私の声は、情けないほど震えていた。

 母様は、ベッドからゆっくりと片手を引き抜き、私の手に重ねた。その指先が、私の手のひらや指の腹を、確かめるようになぞっていく。


「……あなたの手。ひどくゴツゴツして、硬いマメだらけね。……爪の先も、すり減っているわ」


「サウナで重い薪をくべたり、ジョゼフを毎日抱っこしたり、泥だらけのジャガイモを洗ったりしてるからね。……昔みたいに、白魚のような美しい手じゃなくてごめんなさい。ハプスブルクの恥よね」


 私が自嘲気味に笑ってみせると、母様は静かに、けれど力強く首を横に振った。


「いいえ。……どんな宝石で飾られた手より、今のあなたの手が、世界で一番美しいわ。……私には、決して手に入れられなかった、命を育むための手よ」

 

 母様の瞳から、一筋の涙が、深く刻まれた目尻の皺を伝ってこぼれ落ちた。

 鉄の女帝の、初めて見る涙だった。


「……私はね、マリー。……あなたに、ずっと、ずっと謝らなければならないと思っていたのよ」


「謝る? お母様が、私に?」


「……ええ。私は、本当に冷酷な母親だったわ。ハプスブルクという巨大な帝国を守るためとはいえ……まだたった十四歳だったあなたを、見知らぬ異国に、愛のない政略結婚の道具として縛り付けた。言葉も通じない、敵意に満ちたベルサイユという『狼の群れ』の中に、たった一人で放り込んだ」


 母様の声が、懺悔の重みで震える。


「……あなたからの手紙で『寂しい』『誰も信じられない』と泣きつかれても、私は女帝という仮面を被り続けるために、『王妃としての義務を果たせ』と、突き放すような冷たい言葉ばかりを送り続けた……。 あなたを心配していなかったわけじゃない。あなたが泣いている姿を想像するたびに、胸が張り裂けそうだったわ。……ごめんなさいね。冷たい母親で」


 それは、女帝マリア・テレジアが、生涯誰にも見せることのなかった「母親としての後悔」の吐露だった。


 だが――。

 私の胸の奥は、ひどく複雑な痛みに締め付けられていた。


(……ごめんなさい、お母様)


 14歳で異国に放り込まれ、毎晩ベッドで泣いていたという「本来のマリー・アントワネット」の記憶は、私にはない。


 私がこの体に転生したのは18歳の時。

 だから、幼い頃に母様に抱きしめられた記憶も、ウィーンの宮廷で無邪気に遊んだ記憶も、私の中にはすっぽりと抜け落ちているのだ。


 私の脳裏に浮かんだのは、全く別の「お母さん」の顔だった。


『お菓子ばっかり食べて! 喉に詰まらせるわよ!』

『薄着して出かけないの! お腹冷やすわよ!』


 現代日本の、狭いアパート。

 口うるさくて、お節介で、スーパーの特売日を気にする、ごく普通の私の「お母さん」


 私は、あのマカロンを喉に詰まらせた日。

 突然の事故で、あっけなく死んでしまった。


『いってきます』も、『ありがとう』も、『ごめんなさい』も、私を一人で育ててくれたお母さんに、何一つ、最後のお別れを言うことができないまま、私はこの世界に来てしまったのだ。


 前世で、死ぬほど後悔した「母への別れ」

 それが今、目の前のマリア・テレジアの姿と、痛いほどに重なり合っていた。


 ベルサイユへ頻繁に届いていた、小言だらけの手紙。

『サウナの温度が低すぎる』『ジョゼフちゃんに風邪を引かせるな』『体に良い菌を送りつけるわよ』


 それは、女帝からの命令などではなかった。ただの、離れて暮らす娘を心配する「お母さんからの仕送り」と同じ、泥臭くて温かい、不器用な愛情そのものだったのだ。


「……いいのよ、お母様」


 私は、母様の冷え切った手を自分の頬に押し当てた。

 私の熱い涙が、母様の手の甲を濡らしていく。


「お母様は、少しも冷たくなんかないわ。……私に、いっぱい手紙をくれたじゃない。私が大暴れしてパリ万博を開いた時も、地下でキノコを育てた時も。……お母様はウィーンから、ずっと、ずっと私のことを心配して、見守ってくれていた」


 私は、前世の母と、目の前の母。

 二人の「お母さん」に向けて、心の底から言葉を紡いだ。


「私ね、お母様。今、少しも不幸じゃないのよ」


「マリー……」


「お母様が私をフランスへ送ってくれたから、私はルイに出会えたの。ジョゼフという、世界で一番可愛い宝物にも出会えたのよ」


 私は、涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、最高の笑顔を作ってみせた。


「ルイはね、最高にかっこいい旦那様よ。ジョゼフはね、金貨なんかよりも、パパのスパナと私のジャガイモを両手に持って、ニコニコ笑ってくれる優しい子なの。 ……だからお母様。私を産んでくれて、送り出してくれて、本当にありがとう。私は今、世界で一番幸せな女の子よ!」


 私がそう言うと、母様は、声を殺して、子供のように泣きじゃくった。


「……そう。あの子は、王冠の重さではなく、あなたたち『家族の温もり』を選んだのね。……マリー、あなたは私の想像を遥かに超えて……強くて、優しくて……強い母親になったのね……」


 母様は、残された僅かな力を振り絞るようにして体を起こし、私の頭を優しく、愛おしそうに撫でた。


「王冠なんて……本当は、ただの冷たくて重い、鉄の輪でしかないのよ。……私は、夫のフランツを失ってから、その王冠の冷たさに、ずっと凍えながら生きてきたわ。国を守るために、心を殺して、血の涙を流してきた」


 母様は、ふっと息を吐き、愛おしそうに目を細めた。


「……でもね。あなたがベルサイユの地下で作ってくれた、あの白樺の香りのするサウナと、おからクッキーと、キノコのスープ。……あの熱気の中で大汗をかいて、冷たい水風呂に飛び込んだ時。私は何十年ぶりかに、自分が『女帝マリア・テレジア』ではなく、ただの『一人の生身の女』になれた気がしたの。 ……あれが、私の人生の最期に与えられた、神様からの……いえ、私の自慢の娘からの、一番の『ご褒美』だったわ」


「お母様……っ」


「……マリー。その、一番上の引き出しを開けて頂戴」


 私が言われた通りに引き出しを開けると、そこには宝石箱でも遺言書でもなく、最高級のふかふかなオーストリア産メリノウールで編まれた、真っ白な『サウナハット』が入っていた。


「……これは?」


「私の、形見よ」


 母様は、震える手でそのサウナハットを受け取り、私の手にそっと乗せた。


「……ウィーンに帰ってきてから、公務の合間に、自分で編んだのよ。目が揃っていなくて、不格好でしょう?」


「自分で……お母様が、手編みで……?」


 私は、息を呑んだ。

 前世の冬、日本の母が「安売りしてた毛糸で作ったのよ」と照れくさそうに渡してくれた、不格好な手編みのマフラー。


 あの時の記憶が、目の前の真っ白なサウナハットと完全に重なり合った。


「宝石や領地は、ただあなたを争いに巻き込むだけの『呪い』になる。だから、私があなたに遺せる一番価値のあるものは、これしかないの」


 私は、そのサウナハットを両手で包み込んだ。

 羊毛の温かさの中に、母が不器用な手つきで編み棒を動かし、遠く離れた娘を想いながら一目一目編んでくれた時間が、確かな重みとして伝わってくる。


「……マリー。それを被っている間だけは、王冠の重さを忘れなさい。これから先、どれだけ国が重くのしかかっても、借金があなたを苦しめても……自分がただの『マリー』であり、ルイの妻であり、ジョゼフの母親であることを、決して忘れてはダメよ」


「……うん、うんっ……! 分かったわ、お母様。大切にする……絶対に、絶対に一生大事にするわ……!」


 私はサウナハットを胸に抱きしめ、母様のベッドに顔を埋めて、ついに声を上げて泣き崩れた。


 母様の手が、私の背中を一定のリズムでトントンと優しく叩き続ける。

 前世で言えなかった「ありがとう」と「さようなら」を、私は今、この世界で、私を心から愛してくれたもう一人のお母さんに、全力で伝えていた。


「……泣かないの。お母さんはね、やっと、やっとフランツのところへ行けるのよ。……あの人、私が来るのを二十五年も待たされて、きっと天国で不機嫌にしているわね」


 母様の声が、急に遠く、微かになり始めた。

 トントンと背中を叩く手の力が弱まり、呼吸が、ゆっくりと、間隔を空け始める。


「お母様……!? サンソン先生! サンソン先生!!」


 私が叫ぶと、部屋の隅で控えていたサンソンが弾かれたように飛び込んできたが、彼は母様の顔を見た瞬間、ただ深く、深く頭を垂れた。

 もはや、いかなる神の技術をもってしても、寿命という砂時計の最後の砂粒が落ちるのを止めることはできないのだ。


「……マリー。最期に、聞いて」


 母様は、虚空を見つめながら、最後の生命力を振り絞るようにして、私を真っ直ぐに見た。


 その目は、再び「ヨーロッパの母」としての、厳しくも愛に満ちた強い光を放っていた。


「……私が死ねば、ヨーロッパの王たちが……あなたのその『温かさ』を恐れて、必ず火を消しに来る。あなたが平民と共に笑い、泥にまみれて国を豊かにする姿は、特権階級にとって『最も恐ろしい疫病』なのよ。……イギリスも、プロイセンも、そしてこのオーストリアの愚かな貴族たちも、理不尽な暴力となって、あなたたちを囲むでしょう」


 母様の最期の言葉は、遺言であり、これから来る絶対的な絶望に対する、必死の警告だった。


「……でも、負けないで。私の、愛する娘」


 母様の手が、私の頬を包み込んだ。

 その冷たい手から、信じられないほどの熱い愛情が流れ込んでくる。


「あなたとルイが築き上げた、その『家族の絆』で……古いヨーロッパの冷たい常識なんて、全部……全部、熱い蒸気で、溶かして、おしまいなさい……」


「お母様……! お母さんっ!!」


「……ああ。……フランツ。……やっと、あなたに、会えるわ……。私たちの娘は……こんなにも、立派に……綺麗に……」


 その、愛する夫を呼ぶ、どこまでも甘く安らかな微かな囁きを最後に。

 母様の手から、ふっと力が抜けた。


 私の頬から滑り落ちたその手は、ベッドのシーツの上へ、力なく落ちた。

 胸の上下が止まり、部屋を支配していた静かな呼吸音が、永遠に消え去った。


「……お母、さん……?」


 私は、信じられない思いで、その冷えゆく手を両手で握りしめ、何度も、何度も頬にすり寄せた。


「嫌……嫌よ、お母さん。起きて。まだ、ジョゼフが歩くところを見せてないじゃない……。ルイが作った新しいベビーカーに乗せて、一緒にパリの街をお散歩するって約束したじゃない……っ!!」


 ──返事はない。

 ただ、窓の外を舞う冷たい雪だけが、無音で降り積もっていく。


 偉大なるオーストリア女帝、マリア・テレジア。

 戦争と外交に明け暮れ、帝国を背負い続けた彼女は、二つの世界を越えて「娘」となった私からの、精一杯の愛情とサウナハットの温もりに包まれながら、その激動の生涯を静かに閉じたのである。


「……ああぁぁぁぁっ……お母さんぁぁぁっ!! お母さんぁぁぁぁぁっ!!!」


 ウィーンの宮殿の重く冷たい石壁に、前世と今世、二つの別れを同時に迎えた私の慟哭が、どこまでも、どこまでも響き渡った。

 私は、彼女から託された真っ白なサウナハットに顔を埋め、涙が枯れ果てるまで、いつまでも泣き続けた。


 1780年11月29日。

 私の最愛の母であり、そしてヨーロッパにおけるフランスの最強の「防波堤」であった巨星が、その光を永遠に失った。


 それは、母が最期に案じた通り、これまでの「知恵」や「経験」だけでは到底太刀打ちできない、古い時代の理不尽な嵐がフランスへと忍び寄る、重く冷たい鐘の音でもあった。


 マリー・アントワネット、24歳。

 二人の母の不器用な愛と、世界で一番温かいサウナハットを胸に固く抱きしめた。

彼女は赤く腫れた目を拭い、これから待ち受ける未知の脅威から「愛する家族」と「国」を守り抜くため、再び戦場たるパリへと帰還するのである。

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