第88話 爆走マリー・エクスプレス
「どけェェェッ! フランス王妃殿下の御通りだァァァッ!!」
ヨーロッパの荒野を切り裂くように、アーサーの雄叫びが響き渡った。
彼の超絶ドライビング・テクニックと、ナポレオンが構築した「完璧な馬の乗り継ぎシステム」
そして何より、ルイのオタク技術の結晶である『マリー・エクスプレス号』の性能は、まさにバケモノだった。
「……すごい。時速四十キロは出ているのに、中の紅茶が全くこぼれないわ!」
私は馬車の中で、保温ポットから注いだカミツレ茶をすすりながら感動していた。
分厚いパラゴムのタイヤと鋼鉄の板バネが、悪路の振動を完全に吸収している。これなら疲労を極限まで抑えつつ、昼夜ぶっ通しで走り続けることができる。
「ええ。車軸のボールベアリングが摩擦を殺しているため、馬への負担も最小限です。……国王陛下は、本当に恐ろしい方だ」
向かいの席に座るサンソン先生も、馬車の構造に舌を巻いていた。
泥を跳ね上げ、風を切り裂き、私たちは物理的な限界を超えたスピードでヨーロッパ大陸を横断した。
そして、出発からちょうど五日と半日。
「王妃様! 見えました、ウィーンのホーフブルク宮殿です!!」
アーサーの叫びとともに、見慣れた、けれどどこか重苦しい空気に包まれた巨大な宮殿が視界に飛び込んできた。
「止まるなアーサー! そのまま中庭まで突っ込んで!!」
ギギギギィィィッ!!
ゴムタイヤが激しい摩擦音を立てて宮殿の石畳に滑り込み、マリー・エクスプレス号は急停車した。
「な、なんだあの黒い馬車は!?」
「どこの国の紋章だ! 止まれ!」
警備のオーストリア近衛兵たちが槍を構えて集まってくるが、私はドアを蹴り開け、サロペットの上に羽織った防寒コートを翻して飛び降りた。
「どきなさい! フランス王妃、マリー・アントワネットよ! 母様のところへ案内しなさい!!」
「マ、マリー皇女殿下!? 」
混乱する近衛兵たちをアーサーが巧みな体術でかき分け、私はサンソン先生を引き連れて、母様の寝室がある宮殿の最深部へと猛ダッシュした。
寝室の重い扉の前には、数人の重臣たちが暗い顔で立ち尽くしている。
その扉の向こうから、嫌な話し声が聞こえてきた。
『……陛下、息苦しいのは体に悪い血が滞っている証拠。さあ、この太い静脈から、もうあと二杯分の血を抜きましょう』
『ヒルも追加しろ! 水分を摂らせてはならん、水腫が悪化する!』
(……間に合った!! 出たわね、18世紀最悪のトンデモ医療!!)
私は、重いオーク材の扉を、親の仇のように両手でバーーーンッ! と押し開けた。
「ストップ!!! 全力でストップよ!!!」
豪華な天蓋付きベッドを取り囲んでいた数人の老医師たちが、ビクッと肩を跳ね上げて振り返った。
「な、何者だ! 神聖な女帝陛下の治療中に……」
「フランス王妃だと!? なぜここに!」
私は彼らを無視してベッドへ駆け寄った。
そこに横たわっていたのは、かつてベルサイユのサウナで一緒に汗を流した、あの力強く艶やかな母様の姿ではなかった。
顔は青白く、手足はむくみ、呼吸は浅く早い。
そしてその腕には、今まさに血を抜くための銀の刃が当てられようとしていた。
「……マ、リー……? 幻かしら……。あなたが、どうして……」
母様が、うわ言のようにかすれた声で私を呼んだ。
「お母様! 幻じゃないわ、私が来たからにはもう大丈夫よ!」
私は医師の腕をガシッと掴み、メスを奪い取って床に投げ捨てた。
「無礼な! 瀉血はヒポクラテスの時代から続く、最も神聖で確実な治療法であるぞ! 素人はすっこんでおれ!」
白ひげの老医師が激怒して怒鳴りつけてきた。
私は鼻で笑った。
「素人? ええ、私は素人よ。……でも、私が連れてきた『この人』は、あなたたちみたいなヤブ医者より、一万倍人体の構造に詳しいわよ!」
私が道を空けると、背後から黒い外套をまとった長身の男――シャルル=アンリ・サンソンが、音もなくベッドサイドへと進み出た。
「……な、なんだ貴様は! どこの馬の骨の医者だ!」
サンソンは、懐から取り出した『特製・アルコール消毒液』で丁寧に自らの手を清めながら、極めて冷たく、そして圧倒的な威圧感を放つ声で言った。
「……私は医者ではありません。ただの、パリの『処刑人』です」
「「「しょ、処刑人!?」」」
「ですが……」
サンソンの目が、刃のように鋭く医師たちを射抜いた。
「代々、何千、何万という人間の体を解剖し、血管の配置、筋肉の構造、内臓の働きを、この手と目で直接見てきました。……あなた方のように、古文書の理屈だけで適当に血を抜いている机上の空論者とは、経験の桁が違います」
サンソンが一歩踏み出すと、死神のオーラに圧倒された老医師たちが「ヒィッ」と後ずさった。
「水腫で心臓に負担がかかり、呼吸が浅くなっている高齢の患者から、さらに血を抜くなど正気の沙汰ではない。心不全を引き起こす直接の引き金になります! 必要なのは血を抜くことではなく、温めて血流を促し、利尿作用のある薬草で水分を『尿』として排出させることです!」
現代医学にも通じるサンソン先生の完璧なロジックと、その凄まじい迫力に、ウィーンの最高峰の医師団は完全に沈黙した。
「さあ、分かったらとっとと出て行きなさい! この部屋の空気の入れ替えと、徹底的な消毒を行うわ! アーサー! 窓を開けて!」
入り口で控えていたアーサーが素早く窓を開け放ち、淀んでいた部屋の空気が一気に冬の冷たく澄んだ空気へと入れ替わる。
「……サンソン先生。お母様の状態は?」
私は、母様の冷え切った手を握りしめながら、不安な声で尋ねた。
サンソンは母様の脈を測り、顔色を慎重に確認して、静かに首を横に振った。
「……王妃様。間に合いました。あと半日血を抜かれていれば、心臓が止まっていたでしょう。……ですが、陛下の御寿命が残りわずかであるという事実に、変わりはありません。心臓のポンプ機能が、すでに限界を迎えておられます」
「……そう。分かっていたわ。もう治らない病気だってことくらい」
私は、涙をこらえて母様の手に頬をすり寄せた。
私がここへ来たのは、不老不死の魔法をかけるためじゃない。
母様の最期の時間を、苦しい血抜きや薬漬けの地獄ではなく、少しでも温かく、穏やかで、美味しい思い出で満たすためだ。
「……マリー。うるさいわね、相変わらず」
不意に、母様の唇が微かに動き、力弱い、けれどはっきりとした声が部屋に響いた。
「……お母様!」
母様は薄く目を開け、私を見て、ふっと優しく微笑んだ。
「死にかけの年寄りの部屋に、泥だらけのサロペットで怒鳴り込んでくる王妃なんて……ヨーロッパ中探しても、あなたしかいないわ。……でも、嬉しい。本当に、来てくれたのね」
「当たり前でしょう! 私の足と、ルイの馬車を舐めないで!」
私は、こらえきれずにポロポロと涙をこぼしながら、母様を抱きしめた。
母様の体はむくんで重かったが、その匂いは、懐かしい、大好きなウィーンのお母さんの匂いだった。
「サンソン先生。アレを」
「はい、王妃様」
サンソンが保温ポットから小ぶりの銀のカップに注いだのは、ベルサイユから持参した、母様の大好物――『極上マッシュルームと大豆のポタージュ』だった。
「お母様、血なんか抜かなくていいの。これを飲んで。体が芯から温まるわ」
私がスプーンでスープを口元に運ぶと、母様は一口飲み込み、ほうっと至福の吐息を漏らした。
「……美味しい。ウィーンの宮廷料理より、ずっと。……マリー、あなた本当に、立派になったわね」
母様の目に、静かな涙が光った。
マリー・アントワネット、24歳。
夫の技術と仲間たちの力でヨーロッパを爆走し、ついに18世紀の悪習から母を奪還した彼女は、ここから最愛の母との「最期の数日間」という、かけがえのない時間を過ごすことになる。




