第87話 ウィーンからの凶報
時は少し経ち1780年、秋深き11月――。
その日の午後、私室でジョゼフの新しいスニーカーの図面をチェックしていた私の元へ、駐仏大使であるメルシー伯爵が血相を変えて飛び込んできた。
「王妃様……! ウィーンより、緊急の早馬が到着いたしました!」
いつものように「サウナの温度設定について」といった母様からの元気な小言の手紙かと思いきや、メルシー大使の顔は死人のように青ざめ、その手はガタガタと震えていた。
「どうしたの、メルシー大使。母様に何か……」
彼が差し出した手紙には、いつもの力強い筆致はなく、かすれ、弱々しい文字でこう書かれていた。
『愛するマリーへ どうやら、私の体もついに限界を迎えたらしいわ。息が苦しくて、足がむくんで、サウナにも入れないの。ウィーンの医者どもは「悪い血が溜まっている」と言って、私の体から無理やり血を抜こうとするのよ。貧血で目が回るわ。 マリー。あなたの作ってくれた、あの温かいキノコのポタージュが、もう一度だけ食べたい……』
「――ッ!!」
手紙から目を離した瞬間、私の頭の先から足の爪先まで、冷たい氷水を浴びせられたような衝撃が走った。
史実の記憶がフラッシュバックする。
1780年11月。マリア・テレジアは、重度の水腫と呼吸困難に苦しみ、ウィーンの王宮でその偉大な生涯を閉じるはずだ。
しかも当時の医者たちは、体力が落ちた老女に対して「瀉血」という最悪の治療を行い、彼女の命をさらに縮めていた。
「……冗談じゃないわ」
私は、手紙を強く握りしめた。
「冗談じゃない!! あのヤブ医者ども、私の大事なお母様をなぶり殺しにする気!? 血を抜くなんて言語道断よ! 今すぐ温かいスープで栄養を補給して、利尿作用のあるお茶でむくみを取らなきゃいけないのに!」
私はドレスの裾を翻し、執務室の机をバンッと叩いた。
「メルシー大使! 私は今からウィーンへ行くわ!!」
「な、何を仰いますか王妃様!? パリからウィーンまでは、馬車を乗り継いでも通常なら二週間、悪天候のこの時期なら二十日はかかります! 一国の王妃が、そのような長旅に耐えられるはずが……それに、到着する頃には女帝陛下がどうなっているか……!」
「それでも行くの!! ここで指をくわえて母様の死を待つなんて、絶対に嫌!!」
私が叫んだ、その時だった。
「……行こう、アントワネット。いや、君を確実に送り届けてみせる!」
バンッ! と扉が開き、油まみれの作業着を着たルイが、丸めた巨大な図面を小脇に抱えて飛び込んできた。
彼の後ろには、ナポレオンが、懐中時計を片手に冷静な顔で立っている。
「ルイ……!」
「ウィーンからの早馬の知らせは、僕も今聞いた。通常なら二十日かかる道のり……だが、僕たちがこの数年で培ってきた『技術と物流の最適化』をすべて結集すれば、日数を大幅に短縮できる!」
ルイは机の上に、一枚の図面をバサァッと広げた。
そこに描かれていたのは、見たこともないほど流線型をした、異様な形状の馬車だった。
「名付けて、超軽量・独立懸架式サスペンション搭載の流体力学馬車……『マリー・エクスプレス号』だ!」
「まりー・えくすぷれす……!?」
「ああ! 徹底的に空気抵抗を減らしたボディに、車輪の軸には摩擦を極限までゼロにする『ボールベアリング』を仕込んである! さらに車輪には分厚いパラゴムを巻き、路面の振動を完全に吸収する。……この馬車なら、馬の疲労を最小限に抑えつつ、通常の馬車の『三倍の速度』で未舗装の道を爆走できる!」
ルイのオタク特有の早口が、かつてないほど頼もしく響く。
そこに、ナポレオンが地図を広げてペンを走らせた。
「ただ速い馬車があるだけでは不十分です。馬は疲れますからね。
私がすでに、パリからウィーンまでの全ルート上にある宿場町へ、先回りの伝令(ハトと早馬)を飛ばしました。各中継地点に『最も状態の良い替え馬』を常に待機させる、完全なリレー・システムを構築済みです」
神童は、恐るべき兵站の計算をすでに終わらせていた。
「陛下の馬車と私のリレー・システムを組み合わせれば……理論上、ウィーンまで『五日半』で到達可能です」
「五日半……! それなら、間に合うかもしれない!」
私は希望の光に目を輝かせた。
だが、そこに立ちはだかる問題がもう一つある。
「でも、誰がその暴れ馬車を操縦するの? ただでさえ悪路を三倍の速度で走るなんて、並の御者じゃ馬車ごとひっくり返ってしまうわ!」
「ご心配なく、王妃様」
部屋の隅から、スッと影のように進み出た男がいた。
元・英国情報部のエリートスパイであり、現在はチュイルリー工場の物流部門を仕切る、アーサーである。
「祖国イギリスの暗い霧の中を、数々の追手から逃げ切ってきた私の『超絶ドライビング・テクニック』。そして、王妃様のサウナで鍛え上げたこの強靭な体幹……。ウィーンまでの爆走、このアーサーに命を懸けてお任せください!」
「アーサー! 頼もしいわ!」
「そして、もう一人」
ルイが、部屋の外に向かって声をかけた。
「君が行ってくれれば、アントワネットも、お義母様も心強いはずだ」
静かに入ってきたのは、黒い外套をまとった長身の男――パリの処刑人であり、我が息子の命を救ってくれた「裏の名医」、シャルル=アンリ・サンソンだった。
「サンソン先生……!」
「王妃様。偉大なる女帝陛下を、古き悪しき『瀉血』の魔の手からお守りするため、私のこの解剖学と薬学の知識、すべてをお使いください。……最新の医療器具と、栄養剤(特製ゼリーとポタージュの素)は、すでに馬車に積み込んでおります」
死神と呼ばれた男が、今、最も頼れる「最強の主治医」として私の前に跪いた。
「みんな……! ありがとう……っ!」
私は涙を拭い、サロペットの上から厚手の防寒用コートを羽織った。
「ルイ。ナポレオン。……留守の間、ジョゼフとフランスのことをお願いね」
「ああ。君の帰る場所は、僕たちが完璧に守り抜く。……必ず、お義母様に会ってくるんだ!」
ルイが私を強く抱きしめ、背中を叩いてくれた。
1780年11月。
冷たい木枯らしが吹きすさぶ中、チュイルリー宮殿の裏門から、真っ黒な流線型の馬車『マリー・エクスプレス』が、轟音とともに弾き出された。
「しっかり捕まっていてくださいよ、王妃様! ウィーンまで、ノンストップでぶっ飛ばします!!」
御者台のアーサーが手綱を振るい、四頭の屈強な馬が土を蹴り上げる。
ボールベアリングとパラゴムのタイヤが、極限まで摩擦を殺し、馬車はまるで宙を浮くような滑らかさと、矢のような速度でフランスの大地を駆け抜けていく。
(待っていて、お母様……! ヤブ医者に血を抜かれる前に、私が絶対に、あなたを助け出すから!!)
マリー・アントワネット、24歳。
愛する母の最期を看取るため、そして18世紀の狂った医療から母を救い出すため。彼女はオタク王の技術の結晶に乗り込み、ヨーロッパ横断の大爆走をスタートさせたのである。




