第83話 天空の密室
イギリスの莫大な石炭と資本、プロイセンの巨額な軍事・医療予算、そしてロシア帝国の底なしの美容マネー。
『パリ万国・健康と技術の博覧会』は、連日大盛況を記録し、私たちの目論見通り、ヨーロッパの大国から次々と特大の契約を勝ち取っていた。
水晶の宮殿の二階に設けられたVIP専用ラウンジでは、今日も最高執行責任者、ナポレオン・ボナパルトが、猛烈な勢いで弾き出された売上帳簿を睨みつけていた。
「……マリー。各国の国家予算クラスの『企業間取引《BtoB》』の契約は、極めて順調です。我々の手元には、かつてないほどの外貨が雪崩込んできています」
ナポレオンは羽ペンを置き、懐中時計をカチリと鳴らした。その表情は、決して手放しで喜べるものではなかった。
「しかし、最大の壁である『オランダの巨大銀行団』が、未だにフランスへの追加融資と、債務の借り換えに首を縦に振りません。……彼らを落とさなければ、絶望的な元本と、毎年の利子という『死のループ』からは抜け出せないのです」
そう。私たちがどれだけ万博で小銭……といっても数百万リーブルだが……を稼ごうとも、国家を揺るがす天文学的な数字の前では、焼け石に水なのだ。この元本を長期の低金利ローンに借り換えない限り、フランスの未来に真の安泰はない。
「オランダの銀行団ね……。彼らはどう言っているの?」
「極めて保守的です。『フランスの技術力と一時的な熱狂は認めるが、政治的リスクが高すぎる。博覧会という一過性のお祭り騒ぎが終われば、再び国庫は干上がるだろう』と。……彼らのような強固な理性を持つ巨大資本から、何十億リーブルという巨額の譲歩を引き出すのは、通常の商談テーブルでは不可能です」
ナポレオンが眉間にシワを寄せた、その時。
「それなら、僕に任せてくれないか!」
ラウンジの扉がバンッと開き、油と石炭の煤にまみれたルイが、満面のドヤ顔で飛び込んできた。
「アントワネット! ナポレオン! シャン・ド・マルスの中央広場に建設していた『アレ』が、ついに完成したよ!」
「アレって……まさか、ルイがモンゴルフィエ兄弟を招聘して、夜通し図面を引いていた、あの巨大な布の袋のこと?」
「ああ! 絹とパラゴムを重ね合わせて完全な気密性を持たせた球体に、石炭ガスの熱気を送り込んで浮力を得る、世界初の超大型エンターテインメント装置……。名付けて『大型係留気球』だ!!」
(……出たわね、オタク王の史実先取りテクノロジー! 十八世紀のパリの空を飛ぶ『熱気球』爆誕!!)
「浮力で地上百五十メートルの空へ上昇し、極太の鋼鉄製ワイヤーと『蒸気機関のウインチ』を使って安全に地上へと引き下ろす。これなら風に流されて墜落する危険は絶対にない! 万博の目玉アトラクションさ!」
「素晴らしいわ、ルイ! ……ねえ、ナポレオン。その気球のバスケットの中って、地上からは声も届かない『完全な密室』になるわよね?」
私の言葉に、神童の目がスッと細められた。
「……なるほど。地上百五十メートルの空。取り巻きも、護衛もいない。……逃げ場の全くない、究極の『密室交渉』の舞台というわけですか」
「それに加えて『健康』よ! 相手の『理性』を強制的に引き剥がし、感情を揺さぶる圧倒的な『非日常の体験』……さあ、ターゲットを極上の空の旅へご案内しましょう!」
数時間後。
万博会場の中央にそびえ立つ、気球の前に、ヨーロッパ中から集まった富裕層たちが群がっていた。
そこへ、ひときわ不機嫌そうな顔をした恰幅の良い初老の男が歩いてきた。
オランダの巨大銀行の頭取、ファン・デル・ベルグ氏である。彼こそが、フランスの命運を握る最大の巨大資本トップだ。
「……フン。フランスの王室もついに狂ったか。あんな布の袋で空へ浮かぶなど、狂人の自殺行為だ。私をこんな野蛮な見世物に呼び出すとは……」
「おや、ベルグ頭取。ご存知ないのですか?」
私がサロペット姿で優雅に歩み寄ると、彼は不快そうに鼻を鳴らした。
「王妃殿下。私は退屈しているのです。貴国の経済が一時的に上向いているのは認めますが、私はあなた方に借金の借り換えや、追加投資をする気は一切……」
「投資のお話ではありませんわ! これはフランス王室が医学的見地から開発した、究極の『高高度・清浄空気デトックス療法』のデモンストレーションなのです!」
「……空気のデトックス、だと?」
「その通り! 地上百五十メートルの上空は、都市の煤煙や埃が一切届かない、完全なる無菌のクリーンルーム! さらに、地上から足が離れるスリルで交感神経が極限まで刺激された直後……パリの絶景を見下ろしながら深呼吸をすることで、副交感神経が急激に優位に立ちます!」
私はメガホンを握りしめ、彼の逃げ道を塞ぐように、あえて周囲の貴族たちに聞こえる大声で煽った。
「汚れた肺の空気をすべて吐き出し、脳内に『究極の快楽物質』を溢れさせる! ベルグ頭取、長年の金融ストレスで夜も眠れないとお悩みでしょう? フランス国王が安全を完璧に保証するこの最新医療、まさか『高いところが怖い』からと、尻尾を巻いて逃げるおつもりですか?」
ベルグ頭取は、周囲の貴族たちの好奇の目に晒され、引くに引けなくなってしまった。
「……よかろう! そのインチキ健康法、私が身をもって暴いてくれる!」
彼はシルクハットを深く被り直し、籐で編まれた大きなバスケットにどっかりと乗り込んだ。私とナポレオンも、すかさず同乗する。
「上昇開始ィィィッ!!」
地上で指揮を執るルイがバーナーの火力を上げ、地上の固定フックを外す。
ゴォォォォォォッ!!! という凄まじい炎の音とともに、巨大な気球がフワリと重力を失い、あっという間に空高くへと吸い込まれていく。
「ヒィィィィィッ! た、高い! 落ちる! 死ぬぅぅぅ!!」
高所恐怖症だったオランダきっての冷徹な銀行家の、腹の底からの絶叫がパリの空に響き渡った。
だが、ワイヤーがピンと張り、地上百五十メートルで気球が静かに静止したその時。
「……あ、あぁ……」
ベルグ頭取は、腰を抜かしたまま、眼下に広がるパリの街並みと、地平線の彼方まで続く広大な森のパノラマを目にした。
地上での金利の計算も、融資先の不安も、重圧も。圧倒的な高度と、まるで鳥になったかのような絶景によって、ガチガチに固まっていた彼の『理性』が、強制的にシャットダウンされた。
「……さあ、頭取。深呼吸です。汚れた空気を吐き出して」
私が優しく促す。
「すぅぅぅぅ……、はぁぁぁぁぁぁっ……」
ベルグ頭取は、冷たく澄んだ空気を肺いっぱいに吸い込み、そしてゆっくりと吐き出した。
その瞬間、極度の緊張からの解放による、圧倒的で暴力的なまでの『多幸感』が彼の全身を駆け巡った。
「す、素晴らしい……! 胸のつかえが完全に消え去った! 息が、こんなにも深く吸えるなんて……。地上の些末な悩みなど、この天空の前では塵芥に等しい!」
ベルグ頭取の瞳孔が開き、恍惚の表情を浮かべた。
……その、理性のタガが外れた瞬間を、ナポレオンは見逃さなかった。
「ベルグ頭取」
バスケットの中央に据え付けられた小さなテーブルに、一枚の分厚い契約書をスッと置いた。
「地上を見下ろしてください。あそこに広がるのは、無限の可能性を秘めたフランスの大地。我々の規格化技術と蒸気機関を用いて敷設予定の、『全土鉄道網』及び『巨大運河インフラ』の予定地です」
「てつどう……運河……」
「ええ。今のあなたなら分かるはずです。我々の技術力が、空すらも制覇したことが。……そして、イギリスやプロイセンの馬車が、我々の製品を大量に積んで帰っていく光景が見えるでしょう」
ナポレオンの言葉に、ベルグ頭取はハッと我に返り、銀行家としての鋭い目を微かに取り戻した。
「……確かに、貴国の技術と万博の成功は認めよう。だがね、王妃殿下、ナポレオン君。いくらイギリスやロシアに機械を売ったところで、それは一過性の利益に過ぎない。製品が行き渡れば売上は止まる。……それでは、借金の利子には到底追いつきませんぞ」
銀行家の冷静なツッコミが入る。彼はまだ、完全には落ちていない。
そこで、ナポレオンがフッと悪魔のように笑い、私が扇子を優雅に開いた。
「ベルグ頭取。あなたは一つ、重大な勘違いをしているわ。……彼らが買ったのは、ただの『空っぽの箱』よ」
「……箱?」
「ええ。イギリスが買ったスチーム・バーガーは、私たちが毎月輸出する『特製トリュフソース』がなければ、あの悪魔的な味は絶対に出せない。プロイセンが大量導入したピラティスマシンは、定期的に専用の『スプリング』を交換しなければ動かなくなる。ロシアの美顔器も、専用の『クレイパック』が毎月必要……」
私はニッコリと笑って、残酷な真実を告げた。
「私たちは、商品を売り切ったんじゃないわ。彼らに『消耗品を、数十年間にわたって毎月定額で買い続ける契約』……名付けて『サブスクリプション』にサインさせたのよ!」
「な……っ!?」
ベルグ頭取の顔から、一瞬にして血の気が引いた。
「彼らはもう、フランスの提供する健康と快楽なしでは生きていけない体になっている。機械をコピーできても、中身の消耗品がなくなれば禁断症状に陥るわ。……つまり、我が国にはこれから先、十年、二十年と、毎月数百万リーブルの現金が自動的に入り続けるのよ!」
現代における最強のビジネスモデル、『継続課金』と『消耗品ビジネス』の悪魔的融合である。
「ば、馬鹿な……! そんな悪辣な契約、各国の王族や資本家が気づかずにサインしたというのか!?」
「気づいていたとしても、彼らにはもはや拒否権はありませんよ。サウナの熱波と、美味しい食事で完全に『ととのって』、思考力が低下している隙にサインさせましたからね。……ちょうど今の、あなたのように」
ナポレオンが、一片の良心もない氷の笑顔で言い放った。
「ベルグ頭取。この圧倒的な『継続的キャッシュフロー』の仕組みを担保に、借金を一気に借り換えしなさい。……さもなくば、この特大の利権と、インフラ投資の独占権を、イギリスや他国の銀行に持っていくわよ?」
圧倒的なビジネスモデルの種明かし。逃げ場のない、地上百五十メートルでの絶対的な宣告。
「……空を支配する技術力。そして、この私の心が洗われるような圧倒的な体験。それに加えて、終わることのない搾取のシステム……。ハハハ! いいだろう! 貴国ほどのイノベーションを見せつけられて、投資を渋るなど銀行家の名折れだ!!」
ベルグ頭取は、恐怖と高揚感が入り交じった高笑いを上げながら、空の上で『国家規模のインフラ投資』と『借金借り換え』の契約書に、震える手でサインを書き殴った。
(……勝った!! 地上じゃ絶対に落ちない堅物を、高高度のドーパミンで酔わせて落とす『天空の密室営業』!! 成功だわ!!)
数十分後。
蒸気ウインチによって地上へ生還したベルグ頭取は、夢見心地のまま馬車へと向かっていった。
それを見ていた他の各国のVIPたちが、我先にと気球に群がってきた。
「オランダの狸おやじが、あんなにスッキリした顔で降りてくるとは! 私にも乗せろ!」
「わたくしも! 天空の空気で肺をデトックスしたいですわ!」
大パニックになりかけたその時、ナポレオンが「金色のチケット」を掲げて前に出た。
「皆様、申し訳ありません。スカイ・ゴンドラはVIPの皆様の『特別な商談と体験』を優先するため、一般枠は六時間待ちとなっております。……しかし!」
ナポレオンが、冷徹な笑みを深める。
「『優先搭乗券』を金貨十枚でご購入いただければ、待ち時間ゼロでご案内可能です」
「金貨十枚だと!? ええい、安いものだ! その優先券を寄越せ!」
「私にもだ! 今日一日、あの天空の籠を貸し切るぞ!!」
富裕層たちが、札束を叩きつけて優先券を買い漁り始める。
私は、その様子を見ながらナポレオンに小声で耳打ちした。
「すごい勢いね。でも、このチケット代じゃ、何千枚売っても国家の借金には焼け石に水よ?」
「ええ、分かっています。このチケット代は、あくまで万博の『運営費』を賄うための小銭に過ぎません」
ナポレオンは、先ほどベルグ頭取がサインした『超巨額契約書』を大切に懐にしまい込み、不敵に笑った。
「重要なのは、チケット代で万博の運営費を『無限に自給自足』させながら……この気球の中で、何十億という国家規模のインフラ投資契約を次々と結ばせることです。……気球は、彼らの財布のヒモを物理的に切断する『魔法の密室』なのですから」
マリー・アントワネット、24歳。
彼女と夫が作り上げた「熱気球」は、遊園地のアトラクションなどではない。
ファストパスのシステムでランニングコストを賄いつつ、空の上で世界の富豪たちから何十億もの国家投資を引き出す、人類史上最もえげつない『究極の天空商談ルーム』として、万博最大の利益を生み出したのである。




