第80話 石炭の覇者
健康と技術のパリ万国博覧会の開幕日。
パリ郊外に広がるシャン・ド・マルス練兵場は、これまでのフランスの歴史上、いまだかつてない熱気と喧騒に包み込まれていた。
遥か北の地、ラキ火山の噴火がもたらした分厚い火山灰の影響で、パリの空は相変わらず薄暗く、どんよりと重く沈んでいる。本来ならば気分を滅入らせるはずのその陰鬱な空模様すらも、今日ばかりはこの巨大なパビリオンを引き立てるための、最高の背景幕に過ぎなかった。
「す、すげぇ……! 石もレンガも使ってねえ! 鉄の骨組みとガラスだけで、まるで空が透けて見える魔法の城じゃねえか!」
一般公開エリアに足を踏み入れたパリの市民たちが、遥か頭上の高い天井を見上げて感嘆のため息を漏らしている。
ルイがそのオタク的建築設計を爆発させ、組み上げた『水晶の宮殿』。内部に一定間隔で設置された無数の石炭ガス灯の光が、ガラス面を透過してキラキラと乱反射し、まるで地上に降り立った星屑のように眩い輝きを放っていた。
だが、私たちの本当の標的は、歓声を上げる彼らではない。
「……フン。国庫が空っぽの破産国家が、万博などと笑わせる。どうせ、ハリボテのテント小屋に、泥まみれの芋でも並べているのだろう」
パビリオンのVIP専用ゲート。
そこに、ひときわ豪華な馬車から降り立ったのは、イギリスの『大資本家連合』のトップ、サー・ウィリアムであった。
彼は上質なシルクハットを被り、純銀のステッキを片手に、傲慢な冷笑を浮かべていた。産業革命の「本家本元」を自負するイギリスの資本家にとって、農業国フランスの技術など「児戯にも等しい」というのが共通認識だったのだ。
「アーサーが寝返ったのも、何かクスリでも盛られたに違いない。今日こそ、この野蛮なフランスの底の浅さを暴き、すべての技術を奪ってやる……」
ウィリアム卿が、付き従う秘書たちを引き連れて、パビリオンの正面ゲートをくぐった、その瞬間だった。
カランッ。
ウィリアム卿の手から、純銀のステッキが滑り落ち、磨き上げられた大理石の床に虚しい音を響かせた。
「な、なんだ、ここは!?」
彼の視界に飛び込んできたのは、石炭の煤で汚れ、薄暗く息苦しいイギリスの工場とは対極にある、圧倒的な「光と機能美」の空間だった。
真っ直ぐに伸びる広い通路の両側には、ルイが設計した『規格化旋盤』や『高圧蒸気機関』が整然と並び、静かに、そして力強く稼働音を響かせている。油まみれの床や、無秩序に積み上げられた資材などどこにもない。
「おや、いらっしゃいませ。イギリス大資本家連合の皆様ですね。遠路はるばる、我が『水晶の宮殿』へようこそ」
驚愕で固まる彼らの前に、優雅に歩み寄る影があった。
サロペットを最高級のシルクで仕立てた「フォーマル・ワークウェア」を身に纏った私と、その隣には、オーダーメイドの清潔な作業着を着たルイ。
「あーうー! パパ、ママ!」
そして私たちの足元には、子供用スニーカーを履いたジョゼフが、トコトコと元気よく歩き回っている。
「ふ、フランス国王と王妃……! それに、王太子殿下までが、なぜそのような平民の作業着で!? しかも、赤ん坊が乳母に抱かれず、自らの足で歩き回っているだと!?」
ウィリアム卿が目をひん剥いて後ずさった。イギリスの王族や大貴族であれば、ガチガチのコルセットと重いマントを纏い、赤ん坊は乳母に抱かせているのが常識だ。
「ええ。私たちは『実用性』と『健康』を何よりも愛する王室ですから。さあ、ウィリアム卿。ご案内しましょう。……この国が今、どれほど『未来』を進んでいるかを」
私が不敵な笑みを浮かべて誘うと、ウィリアム卿は我に返り、慌ててステッキを拾い上げた。
「ふん。見せてもらおうか、そのハリボテの機械とやらを」
ウィリアム卿は強がって見せたが、展示ブースを回るにつれ、彼の額にはじんわりと冷や汗が滲み始めていた。
「……ほう。確かにこの蒸気機関は、我が国のニューコメン機関より遥かに小型で高出力だ。それに、別の職人が作った歯車同士が微調整なしで完璧に噛み合うのか。『規格化』とやらも、悪くない」
ルイによる実演を見た後でも、ウィリアム卿は忌々《いまいま》しげに葉巻を咥え、強引に冷笑を作った。
「だがね、王妃殿下。機械というものは、所詮『模倣』できる代物だ。我々がこの図面を一つ盗み出し、大英帝国の圧倒的な資本力で量産体制に入れば、フランスの優位などわずか一年でひっくり返るのですよ。我々に高い特許料を払わせようなど、夢見がちな真似はおやめなさい」
(……さすがはトップ資本家。ちょっとやそっとの技術開示じゃ、揺さぶれないわね。それに、彼には『絶対的な優位性』がある)
ウィリアム卿は、私の痛いところを突くように、ニヤリと口角を上げた。
「素晴らしい機械だが、貴国にはこれを動かし続ける『燃料』がない。薪は枯渇し、石炭を掘る技術も未熟。……我が国が技術を一年かけて盗めば、燃料不足で自滅するフランスになど、勝負にもならんのですよ」
イギリスの圧倒的な「石炭」の差。
これこそが、現在のフランスが抱える最大のアキレス腱だった。
背後に控えていたナポレオンすら沈黙する中、私は一歩前に出て、扇子をパチンと閉じた。
「……だからこそ、あなたを特別に招待したのよ、ウィリアム卿」
「何?」
「立ち話もなんですから、VIP専用のラウンジへどうぞ。ちょうど『昼食』の時間ですし」
私は彼らを、ガラス張りで明るい豪華な商談室へと案内した。
そこへ、元スパイのアーサーがフードカートを引き、英字新聞で作られた特製コルネをテーブルに並べた。
「さあ、まずは腹ごしらえを。当万博限定の『ベルサイユ・スチーム・ヴィーガンバーガー』よ」
ウィリアム卿は怪訝な顔で、その巨大なバーガーを手に取った。
「随分と分厚く、しかも奇妙なほど真っ白なパンだな……」
彼は無造作に、バーガーにガブリと噛み付いた。
フワァァ……。サクッ、ジュワッ。
「……ッッッ!!!」
彼は資本家の威厳も忘れ、両手でバーガーを握りしめ、夢中で二口目、三口目と貪り食った。
私は、彼がバーガーを完食し、至福の吐息を漏らした瞬間を見計らって、残酷な真実を突きつけた。
「美味しいでしょう? でもね、ウィリアム卿。そのパティに、本物の肉は一切使われていないわ。小麦のタンパク質とキノコの出汁を固めた『代替肉』よ。つまり……原価は肉の十分の一以下」
「……な、なんだと!?」
「さらに、その白いパンは、オーブンで焼いたものではないわ。展示してある『蒸気機関の廃熱』を利用して蒸し上げたの。……つまり、薪の燃料代は『ゼロ』よ」
「廃熱でパンを……!? 原価がゼロだと!?」
ウィリアム卿の顔から、完全に血の気が引いた。
「想像してごらんなさい」
私は身を乗り出し、資本家の急所を突く悪魔の囁きを落とした。
「この圧倒的な旨味と満足感を持つバーガーを、あなたの工場の労働者たちに『無料のまかない』として配給するの。原価が極端に低いから、あなたの懐は全く痛まない」
「労働者に……これを食わせるだと?」
そこで、ナポレオンが分厚いファイルをドンッと机に置いた。
「サー・ウィリアム。現在、あなたの経営するマンチェスターの主力紡績工場では、週に三日のストライキが発生していますね。睡眠不足と低栄養、劣悪な労働環境に対する、労働者たちの暴動寸前の不満です」
「き、貴様ら……! なぜ我が国の内部事情をそこまで!」
「元・英国情報部のアーサー卿の諜報網を甘く見ないことです」
ナポレオンが冷徹に微笑む。
「さらに、あなたのライバルである『北部資本家連盟』は、新たな炭鉱利権を手に入れ、あなたの市場シェアを猛烈な勢いで侵食している。……あなたは今、労働者のストライキによる『生産の停止』と、ライバルによる『市場の独占』という、二つの火薬庫の上で綱渡りをしている状態だ」
ウィリアム卿の額から、滝のような冷や汗が流れ落ちた。
「軍隊を呼んでストライキを鎮圧すれば、ラインは完全に止まり、あなたはライバルに市場を奪われて破産するわ。一年かけてフランスの技術を盗んでいる暇なんて、あなたにはないのよ」
私は、彼の顔のすぐ横に扇子を突きつけた。
「でも、短い休憩時間でも片手で食べられるこのスチーム・バーガーで、空腹の彼らに至福の喜びを与えれば、暴動の不満は完全に鎮圧できる。労働者のコンディションが上がれば、生産性は三倍に跳ね上がるわ」
「…………ッ」
「私たちの『規格化技術』と、労働者の暴動を抑える『スチーム・バーガーの配給ノウハウ』を、あなたの会社に独占的に提供するわ。その代わり……」
私は、ニッコリと、この世で最も邪悪な笑顔を浮かべた。
「あなたたちが腐るほど持っているイギリスの『石炭』を、フランスに優先輸出する契約を結びなさい」
「な、なんだと……! 我々の石炭で、フランスの工場を回せと言うのか!」
「ええ。あなたたちは暴動を抑えて生産性を上げ、私たちは燃料を得て工場を回す。互いの弱点を補い合う、完璧な『ビジネス・パートナー』になれるわ。……それとも、燃料の意地を張って、一年かけて技術をコピーしている間に、明日にも労働者に工場を燃やされるのを選ぶ?」
ナポレオンが、すかさず一枚の契約書をウィリアム卿の目の前に滑らせた。
「もしサインしないのであれば、この技術とバーガーのフランチャイズ権を、あなたのライバルである『北部資本家連盟』に独占販売するだけです。彼らの特使が、一時間後にこのラウンジに来る予定ですので」
「…………ッ!!!」
ウィリアム卿は、完全に息を呑んだ。
味覚の驚きなどではない。圧倒的な「資本家としての合理性」と「ライバルに独占される恐怖」が、彼の首を完全に締め上げたのだ。
「……くそっ……! オーストリアの女狐と、悪魔の小僧め……!!」
ウィリアム卿はギリッと奥歯を噛み砕きそうな音を立てながら、震える手で懐から小切手帳を取り出した。
「負けだ! 契約しよう! 石炭の優先輸出ルートを開く! 代わりに蒸気機関の特許使用料、旋盤のライセンス、そしてこの……忌々《いまいま》しいほど美味い『バーガー』のフランチャイズ権を寄越せ!! 北部連盟には絶対に渡すな!!」
「フフフ……。契約成立ね、ウィリアム卿」
ナポレオンが、インクの滴る羽根ペンを差し出す。
ウィリアム卿は屈辱と、それを上回る『利益への渇望』に顔を歪めながら、猛烈な勢いでサインを書き殴った。
(……よしっ!! これでイギリスからの莫大な外貨獲得と、フランス最大の弱点だった『石炭ルート』が確定したわ!!)
私は、ふかふかのバンズを頬張るジョゼフを抱き上げながら、心の中で特大のガッツポーズを決めた。
マリー・アントワネット、24歳。
彼女のプロデュースした万博は、初日にしてイギリスのトップ資本家を「労働者管理のソリューション」と「競合へのブラフ」という泥臭い交渉術で完全に陥落させ、フランスの工場を完全稼働させるための『エネルギーの覇権』を盛大に奪い取ったのであった。




