第77話 悪魔の交渉術
チュイルリー宮殿の地下工場が莫大な外貨を生み出し始めて数日。
宮殿の重厚な「赤の間」は、氷室のように冷え切った空気に支配されていた。
テーブルを挟んで座るのは、黒いフロックコートに身を包んだ三人の男たち。
スイス銀行団の特使――フランスに二十億リーブルという天文学的な借金を背負わせた、ネッケルの元同僚たちである。
お茶も、温かいスープも出さない。
彼らの前には、ただ水が入ったグラスだけが置かれている。
「……単刀直入に申し上げましょう、国王陛下、王妃殿下。我がスイス合同銀行は、貴国の『返済能力』に重大な疑義を抱いております」
代表格である銀髪の男、ヨハンが、一切の感情を交えない声で切り出した。
「最近の『通信販売』や工場の利益は存じ上げております。しかし、所詮は王室の小遣い稼ぎ。利子を永続的に支払うには、到底足りません」
ヨハンは、懐から分厚い契約書を取り出し、テーブルの上に滑らせた。
「来月分の利子支払いが滞れば、我々は即座にフランスの『国家破産』を全ヨーロッパに宣言します。……それを避けたければ、フランスの主要な港の関税権と、王室直轄領の全土を、我々スイス銀行団の管理下に置くことにご署名いただきたい」
それは、国家の主権を金貸しに明け渡すことを意味する、事実上の「死刑宣告」だった。
隣に座るルイが、膝の上で拳を強く握りしめているのがわかる。
「……随分と、強欲な条件ね」
私は、扇子を閉じてヨハンを冷ややかに見据えた。
「私たちが血と汗で回し始めた国の経済を、紙切れ一枚でかすめ取ろうというの?」
「感情論は無用です、王妃殿下。我々は冷徹な数字の奴隷。数字が合わなければ、国だろうと容赦なく差し押さえる。それが『金融』というものです」
ヨハンの眼鏡の奥の瞳は、毛穴から血の気が引くほど冷酷だった。
彼らの脳にあるのは「利益」と「回収」の二文字だけだ。
(……なら、その土俵で戦ってやるわ!)
「ナポレオン」
私が短く呼ぶと、部屋の隅の暗がりから、少年が分厚いファイルの束を抱えて進み出た。
「……子供? 王室の商談の場に、なぜ子供が」
ヨハンが眉をひそめるが、ナポレオンは一切動じることなく、彼らの目の前にドンッとファイルを叩きつけた。
「特使殿。あなた方は『数字の奴隷』だと言った。ならば、この数字の矛盾に答えられますか?」
ナポレオンは、ファイルをめくり、ある特定のページを指差した。
「前財務長官ジャック・ネッケルが発行した『国王への会計報告書』。あなた方スイス銀行は、この報告書の『黒字』という嘘の数字を根拠に、フランスの国債をヨーロッパ中の投資家に売り捌いた。……違いますか?」
「……それが何か? 財務長官が作った書類です。我々はそれを信じて貸し付けたに過ぎない」
「嘘ですね。あなた方は、ネッケルが帳簿を操作していることを『知っていて』黙認した。いや、むしろ共犯だ。……なぜなら、この隠し口座の送金記録には、ネッケルの個人口座を経由して、スイス銀行団の幹部たちへ巨額の『手数料』が支払われた痕跡が残っているからです」
――ピキッ。
ヨハンの冷静な表情に、初めて亀裂が入った。
ナポレオンが突きつけたのは、情報網を使って徹底的に洗い出した、スイス銀行とネッケルの「癒着の決定的な証拠」だった。
「……馬鹿な。そんな証拠、どこから……」
「もしフランスが『国家破産』を宣言すれば、我々はこの帳簿を全ヨーロッパの新聞社に公開します。……投資家を騙し、王室を食い物にした詐欺的金融機関。その事実が明るみに出れば、スイス合同銀行に怒り狂った投資家が押し寄せ、『取り付け騒ぎ』が起きるでしょうね」
ナポレオンの氷のような声が、静かな部屋に響き渡る。
「十万リーブルの借金なら、我々の首が締まる。……しかし、二十億リーブルもの借金を抱えた国が破綻すれば、首を吊るのは『あなた方』の方だ。……違いますか?」
「き、貴様ら……! 我々を脅迫する気か!」
ヨハンが立ち上がり、声を荒らげた。
だが、そこで私はゆっくりと立ち上がり、彼を冷徹に見下ろした。
「脅迫? いいえ、『交渉』よ。……座りなさい、ヨハン。私たちは、あなたたちと一緒に地獄に落ちたいわけじゃないの。あなたたちを『助けてあげる』と言っているのよ」
私は、ルイに目配せをした。
ルイは無言で、木箱の中から一枚の精巧な「真鍮の歯車」と、丸められた「羊皮紙の図面」を取り出し、テーブルの上に置いた。
「これは……?」
「チュイルリーの地下で稼働している『高圧蒸気機関』と、部品をミリ単位で均一化する『旋盤の固定治具』の特許図面だ」
ルイの低い、威厳に満ちた声が響く。
「イギリスの粗悪な工場とは次元が違う、世界初の『完全規格化された大量生産システム』。我々は今、この技術を使って、生活家具から馬車のサスペンションまで、あらゆる産業を塗り替えようとしている。……この知的財産の価値が、金貸しの君たちなら分かるはずだ」
ヨハンの額に、ツーッと冷たい汗が流れた。
彼はその図面が、世界の産業構造を根本からひっくり返す「魔法の杖」であることを、一目で理解したのだ。
「……我々の要求は一つです」
ナポレオンが、最後の一撃を放つ。
「現在の二十億リーブルの負債を、年利『三パーセント』にリファイナンスしなさい。そして、元本の返済を五十年の長期分割とする。
……その条件を呑むなら、このフランスの『産業革命』が生み出す全ての輸出入の決済手数料を、スイス合同銀行に独占的に任せましょう」
圧倒的な「破滅の脅迫」と抗うことのできない「莫大な利益」
「……ッ」
ヨハンたち銀行家は、完全に沈黙した。
彼らの手は微かに震え、その顔は滝のような冷や汗でびっしょりと濡れていた。
もはや、彼らに選択肢などない。
フランスの喉元に突き立てていたはずのナイフは、いつの間にか、彼ら自身の心臓に深く突きつけられていたのだ。
「…………分かり、ました。本国に戻り、理事会を説得……いえ、必ず承認させます」
ヨハンは絞り出すようにそう言うと、屈辱と恐怖に顔を歪めながら、借り換えの同意書に震える手でサインをした。
「賢明な判断ね。……これからの五十年間、良いビジネスパートナーになれそうね、ヨハン」
私が優雅に微笑むと、スイスの銀行家たちは、まるで悪魔から逃げるように足早に部屋を退室していった。
扉が閉まり、足音が完全に遠ざかった瞬間。
「……はぁぁぁぁぁぁっ……!!」
私は膝から崩れ落ち、ドレスの裾を握りしめて猛烈な深呼吸をした。
「お、終わった……! 足が、足がガクガクよ……!」
「僕もだ……。心臓が口から飛び出るかと思った……。もし彼らが『破産でも何でもしろ』と開き直っていたら、本当に終わりだった……!」
ルイも、机に突っ伏してぜぇぜぇと息を切らしている。
冷徹な態度を装ってはいたが、私たちにとってもこれは、国家の命運を懸けた文字通りの「死の綱渡り」だったのだ。
「お二人とも、お見事な芝居でした。……これで、毎年二億リーブルだった狂気の利子払いが、六千万リーブルにまで激減しました。地下工場とパトロン制度の利益を合わせれば、十分に元本を削っていける計算です。……ですが、我々の『真の反撃』はここからです」
ナポレオンだけは一人平然と懐中時計をしまいながら、部屋の奥の扉へ視線を向けた。
「カミーユ。手はず通りに」
「ああ、待ってたぜ! 輪転機はすでにフル稼働だ!」
勢いよく飛び出してきたのは、インクにまみれた新聞記者、カミーユ・デムーランだった。彼の手には、まだインクの匂いが漂う、刷り上がったばかりの新聞の号外が握りしめられている。
「ナポレオンの坊主に言われた通り、スイス銀行の癒着部分は黒塗りにして、奴らを『被害者』として仕立て上げといた。その代わり……『前財務長官ネッケルが、王室を騙して意図的に赤字を隠蔽し、私腹を肥やしていた決定的証拠』は、一文字残らずスッパ抜かせてもらったぜ!」
カミーユが広げた新聞の第一面には、目を引く巨大な活字が躍っていた。
『大詐欺師ネッケルの幻影! フランスを借金地獄に陥れた真の国賊を暴く!』
『国王陛下は騙されていた! 借金返済のために私財を投げ打つ王室の真実!』
「これを今から、パリ中……いや、外交ルートを使って全ヨーロッパにばら撒く。民衆も、投資家たちも、これを見れば『誰が真の悪党で、誰が国を救おうと泥にまみれているか』、一発で目が覚めるはずだ」
カミーユの誇らしげな笑顔に、私は胸のすくような思いで深く頷いた。
「完璧よ。……スイス銀行団も、自分たちへの飛び火を防ぐために、ネッケルとの関与を全力で否定して彼を『トカゲの尻尾切り』にするはずだわ」
数日後。
スイスの豪奢な別荘で、優雅に朝の紅茶を傾けていたジャック・ネッケルは、届けられたパリの新聞を開いた瞬間、ティーカップを床に落として粉々に砕いた。
「な、なんだこれは……! ば、馬鹿な! 私の完璧な裏帳簿が、なぜ漏れている!?」
青ざめる彼の元へ、慌てふためいた執事が駆け込んでくる。
「旦那様! 邸宅の周りを、怒り狂った投資家たちとスイスの警察が取り囲んでおります! スイス合同銀行も『我が銀行もネッケル氏の偽造報告書に騙された被害者である』と声明を発表し、貴方様の口座をすべて凍結したと……!」
「そ、そんな馬鹿な……! オーストリアの小娘と、ただの錠前オタクの王に、この私が……金融の天才たるこの私が、完全にハメられたというのかぁぁぁっ!?」
名声も、財産も、すべてを失ったネッケルの絶望の叫びは、スイスの冷たい空の彼方へ虚しく吸い込まれていった。
マリー・アントワネット、23歳。
彼女は「国家の破綻」という最悪の脅迫カードを逆手に取って冷酷な金貸しのラスボスを服従させただけでなく、ペンの力で夫の汚名を見事に雪ぎ、フランスを縛り付けていた『死の借金スパイラル』からの脱出ルートを切り開いたのである。




