表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
マリーアントワネットに転生したけど処刑されたくないので、お菓子はほどほどに  作者: てっぺい
第四章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

83/92

第76話 英国スパイとブラック国家の呪縛

 チュイルリー宮殿の地下工場がフル稼働を始めてから数ヶ月。


 王室の巨大金庫には、ヨーロッパ中から送られてきた金貨や為替手形が、文字通り「山」のように積み上がっていた。


 だが、私たちのこの圧倒的な成功を、海の向こうからギリギリと歯ぎしりをして睨みつけている国があった。


「……バカな。フランスの劣悪な手工業で、なぜこれほど精巧な品が大量に、しかも安価に市場へ出回っているのだ!」


 産業革命の「本家本元」となるはずだった国、イギリスである。


 ロンドンの資本家たちはパニックに陥っていた。彼らが石炭と児童労働で必死に生産している粗悪な日用品を差し置き、ヨーロッパ中の貴族が「ベルサイユ・ブランド」の高価な品をこぞって買い求めているのだ。


「フランスの宮殿地下に、未知の工場が存在するらしい。……腕利きのスパイを送り込み、その『設計図』を盗み出せ。そして、工場の心臓部を完全に破壊してこい」


 英国情報部から密命を受け、一人の極めて優秀なスパイ、暗号名『アーサー』がパリへと潜入した。


 彼はこれまで数々の暗殺や破壊工作を冷徹に遂行してきた、大英帝国の冷酷な刃である。


 ある深夜。

 チュイルリー宮殿の地下換気口から、黒装束のアーサーが音もなく侵入を果たした。


(……警備は手薄だな。やはり農業国の連中だ、危機管理というものを知らん)


 アーサーは、すれ違った見回りの衛兵の背後に影のように忍び寄り、音を立てずに気絶させて物陰に隠した。彼の動きに一切の無駄はない。


 彼は地下のさらに奥、工場のメインフロアへと足を踏み入れた。


 その瞬間、彼の冷徹な視線が驚きに揺らいだ。


「なんだ……ここは!? 異常なほど明るく、そして……清潔すぎる!」


 広大な地下空間は、均等に配置されたオイルランプで煌々と照らされ、床には塵一つ落ちていない。そして中央には、ルイが設計した巨大な『高圧蒸気機関』が、規則正しい地響きを立ててシリンダーを上下させていた。


(あ、あれが動力か! 我が国のニューコメン蒸気機関より遥かに小型で高出力……!

そして、あの労働者たちは一体何だ!?)


 アーサーが驚愕したのは、機械だけではなかった。


 深夜の清掃やメンテナンスを行っている労働者たちの顔に、過酷な労働による疲労や絶望が一切ないのだ。彼らは血色が良く、互いに冗談を言い合いながら、機敏に立ち働いている。


(馬鹿な……。監督官のむちもないのに、なぜあれほど効率的に動けるのだ? イギリスの工場では、恐怖で縛らねば労働者は動かんというのに……!)


 だが、アーサーはすぐにスパイとしての冷徹な思考を取り戻した。


(どんな魔法を使っていようが関係ない。この心臓部を吹き飛ばせば、フランスの優位は終わる)


 彼は音もなく蒸気機関のコアへと忍び寄り、懐から爆薬を取り出した。さらに、横の管理デスクの鍵をピッキングで鮮やかに解除し、束になった『規格化旋盤の設計図』を上着にねじ込む。


 完璧な手際だった。

 彼が爆薬の導火線に火をつけようとした、まさにその時。


「……深夜の残業、ご苦労様です。ですが、我が社は完全なる『定時退社』を推奨しております」


「――ッ!」


 アーサーは即座にナイフを抜き、声のした暗がりへと振り返った。


 そこに立っていたのは、サロペット姿の私と、巨大なレンチを構えたルイ、そして懐中時計を手にしたナポレオンだった。


「……どうやって私の侵入に気づいた? 衛兵は完全に無力化したはずだ」


 アーサーが低く唸る。その目には、いつでも私たちを殺して脱出する強烈な殺気が宿っていた。


「衛兵が倒されたから気づいたのよ。うちの工場は『90分おきに必ず休憩と水分補給の報告を入れる』という徹底した労務管理をしているの。報告が5分遅れた時点で、何かが起きていると分かるシステムよ」


 私が答えると、アーサーは舌打ちをした。


「なるほど。だが、遅すぎたな。私がこの爆薬を投げ込めば、この蒸気機関は図面ごと木端微塵だ。……動くな。一歩でも動けば王妃といえど喉笛を切り裂くぞ」


 アーサーは本気だった。彼は任務のためなら自分の命すら惜しまない、冷徹な歯車だ。

 ルイがレンチを握り直すが、距離がある。ナポレオンも、相手のプロとしての隙のなさに眉をひそめた。


 一触即発の緊迫した空気。

 だが、私は彼へ向ける扇子を下ろし、ふっとため息をついた。


「……あなた、手が微かに震えているわよ」


「何?」


「恐怖じゃないわ。……慢性的な睡眠不足と、劣悪な食事による『極度の低血糖』よ。それに目の下の酷い隈。肌はカサカサで、呼吸も浅い。……大英帝国は、あなたのような超一流の技術を持つエリートに、ろくな休息も栄養も与えずに使い潰しているのね」


「……黙れ。私は大英帝国の影だ。個人の感情や健康など、任務の前に等しく無価値だ」


「無価値なわけないでしょう!!」


 私の怒鳴り声に、アーサーはビクッと肩を震わせた。


「人間は使い捨ての部品じゃない! 国のために命を懸ける兵士を、まともな飯も食わせずに酷使するなんて、国として最低の『ブラック企業』よ!……そんな国のために、あなたはここで死ぬ気?」


「それが……私の誇りだ!」

アーサーがナイフを構え直した。


「誇りなんて、胃袋が空っぽじゃただの呪いよ。……これを見なさい」


 私は、背後に控えていたカトリーヌに合図をした。

 彼女が銀のドーム型の蓋を開けると、そこには熱々の『極上マッシュルーム・ポタージュ』と、肉汁滴る『特厚・代替肉ステーキ』が湯気を立てていた。


 強烈な旨味の香りが、地下工場に充満する。


「……っ!?」

 アーサーの喉が、無意識に大きく鳴った。長年の過酷な任務で極限まで飢えていた彼の細胞が、その香りに理性をすっ飛ばして反応したのだ。


「私たちの強さの秘密は、魔術でもなんでもない。……『健康』よ。労働者に十分な休息と、最高の食事を与え、人間として大切に扱う。だから彼らは、誰に命令されずとも最高のパフォーマンスを発揮するの」


 私は彼に一歩歩み寄り、真っ直ぐにその目を見た。


「図面を盗んでイギリスに持ち帰っても、あなたたちの国は絶対に私たちに勝てないわ。労働者を機械の部品としてしか扱わない国に、未来はないもの。……ねえ、あなた。爆弾を下ろして、温かいご飯を食べなさい。そして、私たちの国で『人間として』働いてみない?」


「……ば、馬鹿な。私は敵国のスパイだぞ。そんな甘言に……」


 アーサーの持っていたナイフが、微かに揺れた。彼の脳裏に、ロンドンの冷たく暗い路地裏と、使い潰されていった仲間たちの顔がよぎる。そして目の前には、自分を人間として扱い、温かい食事を差し出す敵国の王妃がいる。


「マリー。これ以上の説得は時間の無駄です。彼が拒否するなら、私が……」

 ナポレオンが冷徹に合図を出そうとした、その時。


 カラン……。


 アーサーの手からナイフがこぼれ落ち、大理石の床に澄んだ音を響かせた。


 彼はその場に膝をつき、両手で顔を覆った。


「……負けた。……こんな……こんな温かい匂いを嗅がされて、国に使い捨てられるだけの冷たい人生に戻れるわけがない……っ!」


 彼は、ポタージュの器を震える手で受け取ると、一口飲み込み、そして……声を上げて号泣した。


「美味い……! なんだこの、内臓の底から温まるような旨味は……! イギリスの冷たい塩漬け肉とは違う……。私は、私はずっと、こういう温かい飯が食いたかったんだ……っ!」


 大英帝国最強の冷徹なスパイは、一切の物理的な暴力ではなく、「圧倒的な福利厚生」と「人間としての尊厳の肯定」によって、完全に心が折れ、陥落したのである。


「……よく決断したわね、アーサー」

私は優しく微笑み、彼の肩を叩いた。


「さあ、お腹がいっぱいになったら、奥にある『100度の労働者専用サウナ』に行きなさい。これまでのブラック労働の疲労と毒素を、すべて汗と一緒に流し切るのよ。……明日から、あなたはうちの工場の『物流管理部長』だからね」


「イエス……イエス、マイ・マム……!!」


 マリー・アントワネット、23歳。

 かくして、イギリスが送り込んだ最大の脅威は、フランスの『超ホワイト企業理念』という最強のイデオロギー兵器によって、いともたやすく――しかし極めてロジカルに――私たちの最強の仲間へと引き抜かれたのであった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ