第72話 起死回生の通信販売
ジョゼフが突発性発疹を乗り越え、チュイルリー宮殿には再び平和な笑い声が戻ってきた。サンソン先生の手によって命を救われたジョゼフは、免疫を獲得してますますやんちゃになり、木製のベビーサークルの中で「あーうー!」と雄叫びを上げている。
だが、私には休んでいる暇などなかった。
夜な夜な執務室で、ろうそくの灯りを頼りに分厚い帳簿と睨み合う日々。
「……ダメだわ。貴族たちの『課金』のおかげで、スイスの銀行への『利子の支払い』はなんとか首の皮一枚繋がった。でも、ネッケルが残した『二十億リーブルの元本』が、ちっとも減っていない……!」
私は頭を抱え、机に突っ伏した。
パトロン制度は一種のカンフル剤だ。貴族たちの見栄も、いつかは底をつく。国家として根本的に「外貨を稼ぎ、元本を減らす巨大な産業」を生み出さなければ、いずれ破綻のタイムリミットがやってくる。
「アントワネット、まだ起きているのかい? 根を詰めすぎると、また髪が抜けちゃうよ」
ルイが、手と顔を油まみれにして工房から顔を出した。
彼の手には、またしても何やら複雑な真鍮製の歯車が握られている。
「ルイ……。あなた、また徹夜で何か作っていたの?」
「ああ! ジョゼフの離乳食作りに使ったフードミルを改良してね、遠心力で果物の果汁だけを極限まで抽出する『コールドプレス・ジューサー』のプロトタイプさ! これなら栄養素を全く破壊しない!」
楽しそうに語る夫の背後、開け放たれた工房の扉の奥を見て、私はふと目を瞬かせた。
そこには、彼がこの数年間で作り上げてきた「発明品の山」があった。
サスペンション付きベビーカー、波型洗濯板、双胴式脱水機、完全防水スタイ、高反発プレイマット、ダイヤル式冷蔵庫、そして大ヒット商品のキャンバス・スニーカー……。
(……ちょっと待って。これって、現代日本なら間違いなく大ヒットする『神育児グッズ&生活家電』の宝の山じゃない!? これを私たち家族だけで独占しているのは、経済的損失の極みだわ!)
私はガタッと立ち上がり、ルイの両肩をガシッと掴んだ。
「ルイ!! なぜ私たちは、こんな簡単なことに気づかなかったの!? あなたのオーバーテクノロジーな発明品を、ヨーロッパ中の富裕層に『売る』のよ!! 誰もが欲しがるカタログを作って、『通信販売』を始めるわ!!」
私が現代の「通信販売」のアイデアを熱弁すると、ルイは目を輝かせたが――。
「……王妃様、それはあまりにも机上の空論というものです」
部屋の隅から、氷点下の声が水を差した。
オーストリアから派遣され、常に現実的な外交と経済を管理している駐仏大使、メルシー伯爵である。
「な、何よメルシー大使。こんなに素晴らしい商品があるのよ!?」
「品物が良いのは認めましょう。しかし、ここはパリです。イギリスやプロイセンの貴族にどうやって無傷で商品を届けるのです? 劣悪な石畳と悪天候の馬車旅で、到着する頃には精密な洗濯機もベビーカーも木っ端微塵のガラクタです」
メルシー大使は、さらに厳しい現実を突きつける。
「それに『決済』はどうするのですか? 遠方の貴族が『金貨』を箱に詰めて国境を越えさせれば、二日と経たずに山賊や悪徳役人に狙われます。重い機械を無傷で運び、莫大な現金を安全に回収する……18世紀の物流において、それは戦争をするよりも困難なミッションですぞ」
(……っ! そうだ、ここはクリック一つでクレジットカード決済できて、翌日に宅配便が届く現代日本じゃない! 現金を動かすことも、荷物を運ぶことも、命がけの超ハードルなんだわ……!)
二十億リーブルを返すための夢のビジネスプランが、18世紀の泥臭い現実の壁に激突し、粉々に砕け散りそうになった。
「……じゃあ、どうすればいいの? このままじゃ、フランスは借金で押し潰されるわ!」
私が唇を噛み締めると、静かな執務室に、ルイの低い笑い声が響いた。
「安全に運べないなら、運べる『箱』を作ればいいじゃないか」
「ルイ……?」
「道が悪くて壊れるなら、絶対に壊れない『完全耐衝撃・規格化輸送コンテナ』を僕が設計する! 内部に藁とパラゴムの緩衝材を隙間なく敷き詰め、外側には僕が作った『五段階ロータリー式・からくり錠』を取り付けるんだ。……もし間違った鍵を差し込んだり、無理やりこじ開けようとしたら、内部に仕込んだ硝酸瓶が割れて、中身の品ごと爆発して炎上する仕組みさ!」
「物騒すぎるわ!! お客様の家ごと吹き飛んじゃうでしょ! 爆発機能は外しなさい!!」
私が全力でツッコミを入れると、ルイは「ちぇっ」と不満そうに図面を修正した。
「……まあいい。とにかく鍵は、購入者にだけ別の手紙で送る。これなら、山賊にも中身は絶対に奪えない!」
オタク王の瞳に、エンジニアとしての執念の火が灯った。それに呼応するように、私はハッと閃いた。
「決済も、金貨の現物を運ぶから危険なのよ!……メルシー大使! ヨーロッパ中の王室と繋がっている『外交特権』と『外交伝嚢』のルートを使うわ!」
「が、外交特権を商売に……!?」
メルシー大使が目を丸くする。
「そうよ! 支払いは重い金貨ではなく、オランダやスイスの信用ある銀行が発行する『為替手形』に限定するの。紙切れなら山賊に襲われても無価値だわ! そして、商品の宣伝カタログは、各国のフランス大使館を通じて『王室からの公式な親書』としてVIPたちに直接手渡しさせる! これなら絶対に紛失しないし、彼らの虚栄心を極限までくすぐれるわ!」
「な、なんという悪魔的……いや、合理的な……。神聖な王族の特権を、まさか金儲けのインフラと物流網に転用するとは……」
メルシー大使は、頭を抱えながらもその完璧なロジックに震えていた。
「完璧よ……! 私たちの特権と技術で、18世紀の壁をブチ開けるのよ!!」
私はすぐさま、お抱えデザイナーのローズ・ベルタンと宮廷画家を招集した。
「ベルタン! カタログの表紙には『ベルサイユ・ライフスタイル・コレクション』と金箔で押しなさい! ただの道具じゃない、『王妃が愛した究極の健康と美のステータス』として、ヨーロッパの貴族たちのマウント欲を限界まで煽るのよ!」
「承知いたしました! では、モデルは私が……」
「ダメよ、私がやるわ! 私が実際にベビーカーを押し、スニーカーを履いて微笑んでいる絵を載せるの! キャッチコピーはこうよ! 『フランス王太子を育てた奇跡のサスペンション』『あなたの足取りを羽のように軽くする、魔法のソール』!」
私は前世で深夜の通販番組を見て鍛えた「購買意欲をそそるキラーフレーズ」を次々と繰り出し、フルカラーの超豪華なカタログを完成させた。
数週間後。
外交官たちのルートを通じて、その分厚いカタログが、ヨーロッパ全土の王室や大貴族の元へ一斉にばら撒かれた。
そこから一ヶ月間。
チュイルリー宮殿の執務室は、息が詰まるような焦燥感に包まれていた。
果たして、異国の貴族たちがカタログだけで大金を払うだろうか? 手形のシステムは機能するのか? 毎晩、胃がキリキリと痛むような日々。
そして、運命の日。
「……あ、アントワネット! 大変だ!!」
ルイが、両手に抱えきれないほどの『為替手形』と注文書の束を持って、執務室に転がり込んできた。その後ろから、メルシー大使が信じられないものを見るような顔で続いている。
「イギリスの貴族院から、ベビーカー100台の団体注文だ! スペイン王室からは洗濯板と脱水機をセットで50組! 手形の発行元はオランダの最高信用ランクの銀行! ……詐欺じゃない、本物の、莫大な外貨の注文書だ!!」
「やった……! やったわ!! 私たちの通信販売が、歴史の壁をぶち破ったのよ!!」
私は積み上がった為替手形の山を見て、歓喜の悲鳴を上げた。
『あのフランス王妃が使っているなら、我が国も買わねば恥をかく』という、国家間の意地と見栄が見事に炸裂したのだ。これでようやく、二十億リーブルという絶望の借金に立ち向かう「確かな武器」を手に入れた!
だが。
「あ、あ、アントワネット……。どうしよう、どうしよう……ッ!!」
隣を見ると、ルイが為替手形の束を抱えたまま、生まれたての小鹿のように膝をガクガクと震わせていた。
「……現在、ヨーロッパ中から殺到しているオーダーは200件超。対して、僕の工房の生産ペースは、僕一人の手作りで週に数個。……このままでは、商品が届かない顧客が激怒し、信用が崩壊して王室は今度こそ終わるよ!」
「えっ……?」
ルイの指摘に、私の顔からもサッと血の気が引いた。
(……しまった! 注文を取るシステムは完璧にしたけど、これだけの量を『誰が、どうやって作るか』という一番の難題が手付かずだったわ! パパのワンオペじゃ絶対に無理!!)
マリー・アントワネット、23歳。
18世紀の物流と金融の壁を、夫婦の知恵と外交特権でついに突破した彼女の前に、間髪入れず『大量生産の壁』という次なる超絶ミッションが立ちはだかったのである。




