第71話 ムッシュ・ド・パリ
一歳を過ぎ、よちよち歩きを始めたジョゼフ。
毎日元気にチュイルリー宮殿の廊下を歩き回っていた彼が、その日の朝、急にぐったりとしてベビーベッドから起き上がらなくなってしまった。
「あぅ……、うぅ……」
「ジョゼフ!? どうしたの、顔が真っ赤じゃない!」
私が慌てておでこに触れると、火のように熱かった。呼吸も荒く、いつもなら元気に笑う瞳が、トロンと潤んでいる。
(……発熱! 赤ちゃんにはよくあることとはいえ、抗生物質も解熱剤もないこの18世紀の医療水準じゃ、ただの熱でも命取りになりかねないわ!)
「お、王妃様! すぐに宮廷医師をお連れいたしました! さあ、悪い血を抜くためのヒルと、強力な下剤の準備を……」
ランバル夫人が青ざめた顔で、真っ黒なローブを着た医師たちを引き連れてきた。医師の一人は、うごうごと蠢く太いヒルがびっしり詰まったガラス瓶を掲げている。
「はい!ストップ!! 全員帰って!! ジョゼフにそのキモい吸血鬼を一匹でも近づけたら、あなたたちをまとめてセーヌ川に沈めるわよ!!」
私は般若の形相で、トンデモ医師たちを物理的に部屋から叩き出した。
熱を出して体力を消耗している赤ん坊から血を抜くなど、もはや医療ではなく殺人だ。とはいえ、今の私にできるのは、お湯で絞った布で体を拭いて冷やすことくらいしかない。
「どうしよう……。母乳も飲んでくれない。お水も吐き出しちゃう。このままじゃ脱水症状で……!」
私がジョゼフの小さな手を握りしめ、震えていると、バンッと扉が開いた。
「アントワネット! 君の言う通り、あのヤブ医者どもは追い返した! 代わりに、僕が個人的に信頼している『人体の構造を誰よりも熟知している男』を連れてきたよ!」
ルイの背後から、黒い外套を深く被った、長身で物静かな初老の男が静かに進み出た。
彼は私の顔を見ると、深く、そして極めて洗練された優雅な所作で一礼した。
「お初にお目にかかります、王妃殿下。……私のような日陰者が、王太子殿下の御前に立つ無礼をお許しください。名を、シャルル=アンリ・サンソンと申します」
――ピキッ。
私の思考が、一瞬完全にフリーズした。
(……は? しゃるる、あんり……さんそん……?)
血の気が一気に引いた。
シャルル=アンリ・サンソン。代々パリの死刑執行人を務める別名「ムッシュ・ド・パリ」
史実において、私とルイの首を、あの冷たいギロチンで斬り落とす……『死神』その人ではないか!!
「ひっ……! ど、どうして処刑人がここに! ルイ、あなた狂ったの!?」
私が思わずジョゼフを庇うように後ずさると、ルイが慌てて身を乗り出して説明した。
「落ち着いて、アントワネット! 確かに彼の本業は処刑人だが、彼らサンソン家は代々、罪人の体を解剖し、人間の骨や筋肉、内臓の仕組みを『どの医者よりも正確に』把握しているんだ。おまけに薬草の知識も豊富で、パリの貧民たちを無償で治療している『裏の名医』でもあるんだよ!」
(……あ、そういえば前世の知識で読んだことがある。当時の処刑人は解剖学のプロフェッショナルで、ヤブ医者に見放された怪我を治す施術や薬を施していたって……!)
「……王妃様が私を恐れるのは当然です。私のような血塗られた不浄の者が、殿下に直接触れることはいたしません。ただ、お顔色と呼吸を見せていただくだけで結構です」
サンソンは、悲しげな、けれど極めて理知的な瞳でジョゼフを見下ろした。
そして彼は、私が部屋の隅に用意していた『王妃特製・アルコール消毒液』を自ら手に取り、念入りに自分の手を洗い清め始めたのだ。
「……あなた、消毒の概念がわかるの?」
「はい。人間の傷口がなぜ化膿するのか、メスをどう扱えば肉体が腐るのか……私たちは経験上、嫌というほど知っております。王妃様がこの消毒液を作られたと聞き、私はひそかに深く感銘を受けておりました」
サンソンは清潔になった手で、そっとジョゼフの首筋や関節の熱を確かめ、耳元に顔を寄せて呼吸音を聴いた。
その手つきは、恐ろしい死神とは対極にある、繊細で慈愛に満ちた滑らかなものだった。
「……ご安心ください、王妃様。これは乳児特有の突発的な熱です。肺に濁った音もありません。三日もすれば熱は下がり、お腹や背中に赤い発疹が出て治るでしょう。……決して血を抜いたり、強い下剤を飲ませてはいけません。今はただ、水分と、飲み込みやすい栄養を与えることだけが重要です」
サンソンの診断は、現代医学における「突発性発疹」の所見と完全に一致していた。無駄な治療で体力を奪おうとしていた先ほどのヤブ医者とは、天と地ほどの差だ。
「……ありがとう。あなたを疑ってごめんなさい、サンソン先生」
「先生などと……。私のような忌み嫌われる者に、そのようなもったいないお言葉は……」
サンソンが驚愕に目を丸くする中、私は最大の難題に直面していた。
「でも、困ったわ。喉が腫れているのか、ポテトのピュレも母乳も受け付けないの。何か、冷たくて、ツルンと喉を通るお水のような食べ物があれば……」
(……ゼリー! そうよ、ゼリーがあれば、熱のある赤ん坊でも水分と糖分を補給できる!)
だが、現代のスーパーで売っているようなゼラチンパウダーなどない。動物の骨や皮からゼラチンを抽出するには時間がかかりすぎるし、独特の獣臭さも出てしまう。
「……待って! あるわ、最高の凝固剤が!」
私は厨房へ猛ダッシュし、「抜け毛対策」のためにブルターニュ地方から取り寄せ、干して保存してあった『海藻』を鷲掴みにした。
「これを煮溶かして濾せば、無味無臭の『寒天』が抽出できるはずよ! 料理長! すぐに甘い『すりおろし林檎の果汁』を絞って! それをこの海藻のエキスと混ぜ合わせるの!」
厨房が戦場と化す。
だが、寒天液ができても、固まるまでに時間がかかる。ジョゼフは今すぐ水分を欲しているのだ。
「ルイ!! 冷やして!! 一秒でも早く、この林檎の寒天液を固めたいの!!」
「任せてくれ!!」
ルイが持ち出してきたのは、以前作ったダイヤル式冷蔵庫をさらに小型・強力化した『急速冷却氷水槽』だった。
「地下の氷室の氷に、『塩』を混ぜ合わせたんだ! 氷に塩をかけると、凝固点降下が起きて、周囲の温度を一気に氷点下マイナス二十度近くまで奪い去る! この中に寒天液の入ったガラスの器を沈めれば、通常の数倍の速度で固まるはずだ!」
(……オタクパパの物理・化学知識が、マジで神がかってる!!)
数分後。
ガラスの器の中で、琥珀色に透き通った『極上林檎ゼリー』が、プルプルと美しく固まっていた。
私は急いで寝室へ戻り、木のスプーンで冷たいゼリーをすくって、ジョゼフの小さな唇にそっと当てた。
「ジョゼフ、冷たくて甘いお水よ。お口を開けて……」
コクリ。
ジョゼフは、ツルンと滑り込んできた冷たいゼリーの食感に、ハッと目を開けた。
熱で火照った喉に、林檎の優しい甘さと、海藻の水分が心地よく染み渡っていく。
「あ、あう……」
彼は小さな口をもぐもぐと動かし、ごくりと飲み込んだ。
そして、次の一口を求めて、自分から「あーん」と口を開けたのだ!
「……食べた。食べたわ、ルイ! サンソン先生!」
私が涙をポロポロとこぼしながらゼリーを食べさせると、ジョゼフは器の半分ほどを平らげ、満足そうにふぅっと息をついて、スヤスヤと穏やかな寝息を立て始めた。
「……見事な手際です、王妃様。あの海藻から、これほど喉越しの良い食べ物を作り出されるとは。これなら、殿下は間違いなく回復なされるでしょう」
サンソンが、深く安堵の息を吐きながら深く一礼した。彼は帰ろうと身を翻しかけたが、私はその背中を呼び止めた。
「サンソン先生。……本当にありがとう。あなたが来てくれなかったら、私はあのヤブ医者からこの子を守りきれなかったかもしれない」
私は歩み寄り、彼の手を――世間から『血塗られた不浄の手』と忌み嫌われているその手を――両手でしっかりと握りしめた。
「お、王妃様!? なりません、私のような者の手を……! 汚れてしまいます!」
「汚れてなんかいないわ。とても温かい、立派な手よ。この手は今日、私の大切な息子の命を繋いでくれた。……私は、絶対に忘れないわ」
サンソンは、雷に打たれたように私を見つめ、やがてその目から大粒の涙をぼろぼろとこぼした。
「……誰も、私に触れようとはしない。誰もが、私を死神と呼ぶのに……。王妃様、あなたは……」
史実において、この手は私を断頭台に縛り付け、私の命を絶つはずの手だった。
だが今、私の目の前で声を殺して泣き崩れている彼は、身分差別に苦しみながらも、誰よりも人体の命の重さを知る、ただの心優しい一人の医師だったのだ。
(……絶対に。絶対に、あなたにそんな悲しい仕事をさせない。私とルイの首を斬らせるような歴史には、死んでもしないわ)
ジョゼフの熱いおでこを撫でながら、私は心の中で固く誓った。
マリー・アントワネット、23歳。
最恐の死神を「息子の恩人」として味方に引き入れ、彼女の生存戦略は、ついに自らの処刑人の運命をも根本から書き換え始めたのである。




