第70話 一升芋と王妃の涙
チュイルリー宮殿の地下スパと、「プレミアム・パトロン制度」による集金システムは、ギリギリのところでフランスの首の皮を繋ぎ止めていた。
毎週のように新聞で発表される「寄付額ランキング」に踊らされた貴族たちは、我先にと金貨を運び込み、空っぽだった国庫の底には確かな重みが戻りつつあった。
とはいえ、ネッケルの残した『二十億リーブル』という天文学的な借金の元本が消えたわけではない。依然として国家の頭上には分厚い暗雲が立ち込めている。
それでも……暴動の危機と飢餓の恐怖が去った今、チュイルリー宮殿には、本当に久しぶりの、心からの穏やかな平和が訪れていた。
(……静かだわ)
朝の光が差し込む私室。
遠くから聞こえる微かな鳥のさえずりと、ベビーベッドから聞こえる規則正しい寝息。
ギロチンの幻影に怯え、民衆の怒号に震え、借金の利子に胃をすり減らす……そんな極限状態の連続だった日々を思えば、この何でもない朝の静寂が、涙が出るほど尊く感じられた。
「アントワネット! 見てくれ、ついに完成したよ!」
静寂を破って、ルイが満面の笑みで飛び込んできた。彼の手には、美しい生成りのキャンバス地で作られた、小さなリュックサックのようなものが握られている。
「ルイ、それは……私がお願いしていた『アレ』ね!」
「ああ! 君が教えてくれた『イッショウ・モチ』という東洋の儀式に使うための、超軽量ベビーリュックサックだ! 赤ん坊の小さな肩に負担をかけないよう、肩紐には厚手の綿を詰め、背中には通気性の良いメッシュ構造を採用したよ!」
そう。今日は、私たちの愛する息子、ジョゼフの『一歳の誕生日』である。
現代日本の育児において、一歳の誕生日といえば一生食べ物に困らないようにと、約1.8キロの餅を背負って歩かせる儀式──「一升餅」と、並べた品物の中から赤ちゃんが何を選ぶかで将来を占う儀式──「選び取り」が定番だ。
だが、ここは18世紀のフランス。当然、お餅なんてない。
「でもルイ、外のジャガイモ畑は、あのラキ火山の冷害と疫病でドロドロに腐って全滅しちゃったじゃない。こんなに重みを持たせるほどの立派なお芋、どこから……?」
私が不思議に思って尋ねると、ルイは眼鏡の奥の目をキラリと光らせてドヤ顔をした。
「ふふん。実はあの疫病を予見していたわけじゃないんだ。前に作った『定温保冷庫』を使って、ジャガイモを凍る寸前の低温で長期保存すれば、デンプンが分解されて極限まで甘くなるんじゃないか……っていう、僕個人の密かな『美味と保存の科学実験』をしていてね」
「えっ、実験?」
「そうさ。一番出来の良かったプロイセン産の芋を、分厚い断熱材とパッキンで厳重に密閉した庫内に入れておいたんだ。そのおかげで、結果的に外の有毒な灰も、疫病菌の侵入も完全にシャットアウトできたってわけさ! ……これは偶然にも極限まで甘みを凝縮させて生き残った、『奇跡の熟成ジャガイモ』だよ!」
「ルイ……! あなたって人は、本当に最高のオタクパパね!」
私は感動して、そのゴツゴツとした黄金色の芋を撫でた。
国が飢えに沈みかけたあの地獄を生き延びた、希望の塊。
「さあ、この『奇跡の一升芋』を詰めるわよ! これでジョゼフは『一生(一升)、どんな危機が来ても食べ物に困らない』はずだわ!」
「素晴らしい語呂合わせだ! さあジョゼフ、お着替えの時間だよ」
ルイに呼ばれ、サークルの中で木馬をカジカジと齧っていたジョゼフが「あーうー!」と元気な声を上げた。
彼はこの一年の間、ただの一度も大病をせず、私の特製離乳食をモリモリと食べ、信じられないほど健やかに育ってくれた。マシュマロのようなほっぺと、むちむちの手足。そして、何かに掴まらなくても自分の足でトコトコと数歩歩けるまでに成長している。
(あんなに未熟な医療の時代で……無事に一歳を迎えられた。それだけでも、奇跡みたいだわ)
私たちはジョゼフに、動きやすいロンパースと、ルイ特製のファースト・スニーカーを履かせ、背中にジャガイモがたっぷり詰まったリュックを背負わせた。
「……んしょっ」
1.8キロの重みは、一歳の赤ん坊にはかなりの負荷だ。ジョゼフは「おや?」という顔をして、重さに負けて床に手をついた。
その様子を、部屋の壁際でランバル夫人や、市民たちが、息を呑んで見守っている。
「がんばれ、ジョゼフ。君なら立てるよ」
ルイが数歩離れた場所で、両手を広げてしゃがみ込んだ。
「……ふんぬっ!」
ジョゼフは小さな眉間にシワを寄せ、太ももにグッと力を入れた。
私のワカメスープと大豆プロテインで作られた強靭な筋肉が、背中の「重荷」をゆっくりと持ち上げる。
「あうー!!」
グラッと一度よろけたものの、ジョゼフは見事に自分の足で立ち上がった。
そして、両手をパタパタと広げてバランスを取りながら、ルイの胸に向かって、トコ、トコ、と不器用な足取りで歩き始めたのだ。
「おおおおおっ!!」
「殿下が、重荷を背負ったまま歩かれた!! なんという生命力!」
貴族たちから、割れんばかりの拍手と歓声が湧き起こる。
「おいでジョゼフ! すごいぞ!」
トコトコトコッ、ぽふっ。
あと一歩のところで足がもつれ、ジョゼフはお尻から床に尻餅をついてしまった。だが、分厚いおむつのクッションのおかげで痛くはない。
「きゃははっ!」
ジョゼフは泣くどころか、転んだことが面白かったのか、両手を叩いてケラケラと笑い声を上げた。
「よく頑張ったわ、私の小さな勇者様!」
私は床に座り込み、ジョゼフを力いっぱい抱きしめた。
「転んでも泣かずに笑えるなんて、本当に強い子だね。……いつか彼が、国家という重いリュックを背負う日が来ても、きっと自分の足で立ち上がって、笑い飛ばしてくれるはずだ」
ルイも目を細め、ジョゼフの頭を優しく撫でた。
一升芋の儀式が無事に終わり、続いては「選び取り」の時間だ。
広間の美しい絨毯の上に、ジョゼフの将来を占うための品物がいくつか並べられた。
一つ目は、王室の富を象徴する『金貨』
二つ目は、権力と軍事力を意味する『宝剣』
三つ目は、知性と法を司る『羽根ペンと本』
そして――。
「アントワネット、これも並べていいかい?」
ルイがこっそりと追加したのは、彼が愛用している『真鍮製の小さなスパナ』
「もう、ルイったら。なら私も!」
私は笑いながら、リュックから取り出したあの『奇跡のジャガイモ』を並べた。
「さあ、ジョゼフ! 好きなものを選んでちょうだい!」
リュックを下ろして身軽になったジョゼフは、「あーうー」とご機嫌な声を上げながら、並べられた品物に向かってハイハイで進んでいった。
貴族たちが固唾を呑んで見守る。
「やはり次期国王たるもの、剣を取られるに違いない」
「いや、今のフランスに必要なのは富だ。金貨に手を伸ばされるはず!」
大人たちの期待と打算が交錯する中、ジョゼフは品物の前でピタリと止まった。
彼は、キラキラ光る金貨をじっと見つめた。
……が、プイッと顔を背けた。
次に、立派な宝剣と本を見た。
……が、それも「ふーん」という顔でスルーした。
「あれ? 王室の象徴には興味がないのかい?」
ルイが不思議そうに首を傾げる。
ジョゼフの目が輝いたのは、その隣に並んでいた、地味で不格好な二つのアイテムだった。
「あ!」
ジョゼフは右手に『小さなスパナ』をガシッと掴んだ。そして左手には、自分のお顔くらいある『奇跡のジャガイモ』をしっかりと抱え込んだのだ。
「おっ! スパナとジャガイモ! ということは、将来は偉大なエンジニア兼、農業革命の指導者だね!!」
ルイがガッツポーズをして喜ぶ。
だが、ジョゼフの行動はそれだけでは終わらなかった。彼はスパナとジャガイモを両手に持ったまま、くるりと振り返り、トコトコと私たちの元へ歩いて戻ってきたのだ。
「あー、んっ!」
そして、右手に持っていたスパナをルイの膝の上に置き、左手に持っていたジャガイモを私の手のひらにコロンと乗せた。
「……ジョゼフ?」
ジョゼフは、空っぽになった両手をパタパタと広げ、私とルイの顔を交互に見上げて、これまでで一番の、花が咲くような「ニパッ!」という笑顔を見せた。
『パパの道具と、ママのお芋。はい、どーぞ!』
言葉こそ発しないが、その仕草はまるでそう言っているようだった。
「…………っ」
私は、息が詰まった。
ギロチンの刃を避けるため、必死に強がって、サロペットを着て泥にまみれ、誰よりも声を張り上げて戦ってきた。
疫病で芋が腐った時も、絶望の借金を突きつけられた時も、弱音を吐けば、立ち止まれば、この国ごと闇に飲み込まれてしまうと、ずっと、ずっと気を張っていた。
でも。
この小さな子は、富でも、権力でも、王冠でもなく、ただ純粋に、「大好きなパパとママの宝物」を選んで、私たちに返してくれたのだ。
「……あ、ああ……」
自分でも驚くほど、唐突に、私の目から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
「アントワネット?」
「……ごめんなさい、変ね。……私、ずっと、ずっと怖かったのよ……」
私は、両手で顔を覆い、しゃくり上げた。
王妃としての威厳も、現代知識チートの自信も全部吹き飛んで、ただの弱くて脆い一人の女の子に戻ってしまっていた。
「いつ死ぬか分からない恐怖と、国の借金と……。でも、この子が……ジョゼフが笑ってくれたから。……私たちを、選んでくれたから……」
私が声を出して泣きじゃくると、ジョゼフは少し驚いた顔をしてから、小さな手で私の膝をポンポンと叩いてくれた。
隣で、ルイも目を真っ赤に腫らして、静かに涙を流していた。
彼は私の肩を抱き寄せ、そしてジョゼフをもう片方の腕で力強く抱きしめた。
「……ありがとう、ジョゼフ。そうね。あなたは金貨や剣なんかなくても、お父様とお母様が大切にしているものを、誰よりも分かってくれているのね」
私は、涙でぐしゃぐしゃになった顔をルイの肩に埋めながら、ジョゼフの小さな体を強く、強く抱きしめた。
張り詰めていた心の糸が、温かい陽だまりの中でゆっくりと解けていく。
こんなにも温かくて、愛おしい時間があったなんて。
広間で見守っていた市民たちの中からも、思わず鼻をすする音が聞こえてきた。
「なんてお優しい殿下だ……」
二十億の借金は、まだある。
歴史の歯車は、完全に止まったわけではない。
明日になれば、また新しい経済の壁や、外交の火種が私たちを悩ませるだろう。
でも、今だけは。
この温かくて柔らかい、小さな命の重みだけを感じて、ただホッと息をつきたかった。
「……泣かないで、アントワネット。君が笑っていないと、僕もジャガイモも元気が出ないよ」
ルイが不器用な手つきで私の涙を拭いながら、優しく微笑んだ。
「……ジョゼフが大きくなるまでに、あの借金、絶対に二人で返し切ろうね」
「ええ……っ。こんなに優しい子に、借金なんて背負わせられないもの。私が持てる現代知識のすべてを振り絞って、フランスを絶対的な黒字国家にしてみせるわ!」
マリー・アントワネット、23歳。
疫病を乗り越えた奇跡のジャガイモが繋いだ一歳の誕生日は、冷たい宮殿の空気を春の陽だまりのように温め、戦い疲れていた彼女の心に、この上なく優しくて力強い「最強のモチベーション」をもたらしたのである。




