第66話 王妃の逆襲
パリの地下深く、かつて石切り場として使われていた暗闇の迷宮で育った白いキノコ――マッシュルームの極上ポタージュは、飢餓と寒さに凍えていた民衆の心と胃袋を暴力的なまでの旨味で温めた。
チュイルリー宮殿の前に設営された大鍋からは、濃厚なキノコの香りが立ち上り、それを求めて並ぶパリ市民たちの顔からは、つい数週間前まで漂っていた死の影が消え去っている。彼らは温かいスープを啜り、地下農場の整備や火山灰の清掃作業で心地よい汗を流し、健全な労働と報酬のサイクルを取り戻しつつあった。
一方で、この事態に完全に目論見を外され、ギリギリと歯ぎしりをしている男がいた。
ヨーロッパ中の小麦を裏で買い占め、意図的に価格を吊り上げることでパリを経済的に支配し、王室から民衆の心を離反させようとしていた最大の政敵――オルレアン公フィリップ・エガリテである。
「……バカな。パンの配給所に誰も並ばないだと? このパレ・ロワイヤルに蓄えた何万トンという小麦を、一体どうするつもりだ!」
豪奢なパレ・ロワイヤルの執務室で、オルレアン公は最高級の赤ワインが入ったグラスを暖炉の壁に叩きつけた。ガシャンという音とともに、赤い液体が血のように壁を伝い落ちる。
彼はこの冬、絶対的な権力を握るはずだった。王室が民を飢えさせ、暴動が起きる寸前で自身が「救世主」として小麦を放出し、王位を簒奪する完璧なシナリオ。そのために莫大な私財を投じ、スイスやイギリスの投機家とも結託して小麦市場をコントロールしたのだ。
しかし、その目論見は「地下から無限に湧いてくるキノコ」という、およそ貴族の政治闘争では予測不可能な事態によって木端微塵に粉砕された。
「倉庫の維持費だけでも莫大な金が飛んでいくのだぞ! おまけにネズミの害や湿気によるカビの対策で、連日人夫を雇わねばならん! このままでは、王室が干上がる前に我が家の財政が傾いてしまうわ!」
オルレアン公が頭を抱えて唸り声を上げた、まさにその時だった。
「ご機嫌よう、オルレアン公。随分とお困りのようね」
バタン、と執務室の重厚な扉が開き、地味なフード付きのコートを目深に被った私が、数人の屈強な国民衛兵を連れて堂々と乗り込んだ。
「マ、マリー・アントワネット……! 貴様、私を愚弄しに来たか!」
オルレアン公は激昂し、マホガニーの机を強く叩いた。彼の血走った目は、憎悪と焦燥感に満ちている。
「愚弄? まさか。私は純粋なビジネスの提案に来たのよ。……あなたがパレ・ロワイヤルと郊外の隠し倉庫に溜め込んでいるその大量の小麦、私が『十分の一』で買い取ってあげるわ」
「十分の一だと!? ふざけるな!」
オルレアン公は怒りで顔を真っ赤に染め上げた。
ヨーロッパ有数の大富豪であり、何よりブルボン本家を激しく憎悪する彼にとって、端金で私に屈するなど、プライドが絶対に許さないことだ。
「誰が貴様ら王室などに売り渡すものか! こんな小麦、セーヌ川に捨てるか、火を放って燃やし尽くしてやる! 貴様らの施しを受けて生き恥を晒すくらいなら、すべてを灰にしてやった方がマシだ!」
「あら、燃やすの? 構わないわよ」
私は、手に持っていた扇子をパチンと閉じ、彼に向かって冷ややかな笑みを向けた。
「……でも、その前に一つだけ、窓の外を見てごらんなさいな」
私が扇子の先で分厚いカーテンの向こうを指し示すと、オルレアン公は怪訝な顔をしながら窓辺に歩み寄り、そっとカーテンの隙間から下を見下ろした。
そして、その顔からサッと血の気が引き、蒼白になった。
「な……なんだ、あの数は……!」
オルレアン公の居城であるパレ・ロワイヤルを、隙間なく、何重にも取り囲んでいたのは――手に手にたいまつや棍棒、そして農業用のクワやシャベルを握りしめた、無数のパリ市民たちの姿だった。
彼らはただの暴徒ではない。
その体つきは、日々の労働と『ベルサイユ・ブートキャンプ』で培われた強靭な筋肉によって引き締まり、足元には私が普及させたグリップ力抜群の『キャンバス・スニーカー』を履いている。一歩一歩の踏み込みが、明らかに普通の平民とは違う、訓練された歩兵のような凄みを持っていた。
「キノコスープで腹を満たし、鍛え上げた『最強の市民たち』よ」
私は、窓枠に手をついて震えるオルレアン公の背中越しに、冷徹な声で告げた。
「彼らは今、あなたが私腹を肥やすためにヨーロッパ中の小麦を買い占め、意図的にパンの価格を吊り上げてパリを飢えさせていた『真実』を知って、怒り狂っているの。……もしこの館から、小麦を燃やす煙が一本でも上がれば。あるいは、私がここで交渉決裂の合図を出せば」
私は、彼の耳元で悪魔のように囁いた。
「彼らはその強靭な肉体と圧倒的な物理的暴力で、あなたのこの美しい宮殿を、レンガの一欠片に至るまで完全に解体するでしょうね。……防衛部隊? 無駄よ。彼らは、そこらの傭兵よりずっと仕上がっているんだから」
「き、貴様……! 暴徒をけしかける気か! 一国の王妃が、テロリズムを主導するなどと……!」
「まさか。私は『暴動を抑えに来た』のよ」
私は彼から離れ、一枚の羊皮紙でできた譲渡契約書を、机の上に滑らせた。
「私がこの小麦を買い取り、『王室の管理下に置いて市民に平等に分配する』と宣言すれば、彼らの怒りの矛先は収まる。……わかるかしら? これは小麦の代金じゃない。あなたの命と財産、そして『民衆の味方』という偽りの名声のメッキを、ギリギリのところで守ってあげるための『保険料』よ。さあ、選ばせてあげるわ」
オルレアン公は、ワナワナと全身を震わせた。
王室への憎悪、自らの野望が潰えた屈辱。だが、それ以上に己の命と全財産を失い、文字通り民衆に八つ裂きにされるという現実的な恐怖が、冷酷な資本家の計算を上回ったのだ。
「……くそっ……! オーストリアの女狐め……!!」
ギリッと奥歯を噛み砕きそうな音を立てながら、彼はインク壺にペンを突っ込み、屈辱に顔を歪めながら譲渡の契約書にサインを書き殴った。
だが、ペンを机に投げ捨てながら、彼は負け惜しみのような冷笑を浮かべた。
「……フッ。脅し取ったのは見事だが、愚かだな王妃よ。小麦だけあっても、それをパンに焼くための『薪』は、物流網の停止と冷害で異常な高値のままだぞ。薪を買う金が王室にあるのか? そのまま生煮えの粉を啜って、民衆と一緒に咽び泣くがいい」
「あら、誰がパンを焼くと言ったかしら?」
私は契約書をひったくり、優雅に踵を返した。
(……ふふふ。パンを焼くための薪が高いなら、焼かなければいいのよ!)
チュイルリー宮殿の厨房に戻った私は、護衛兵たちが次々と運び込んでくる大量の小麦粉の袋を前に、腕をまくり上げた。
王室の料理長やパン職人たちが、「王妃様、小麦はありがたいのですが……石窯を熱するだけの薪がありません。どうやってこれをパンに……」と不安げに尋ねてくる。
「だから、パンは焼かないわ。パン窯を使うから、煙の匂いが移らない『高価で良質な薪』が必要になるのよ。でも、鍋でお湯を沸かし、フライパンを熱するだけならどう?」
私は厨房の片隅に作らせておいた、少量の燃料で爆発的な火力を生むレンガ造りの近代的なカマド――『ロケットストーブ』をバンッと叩いた。
「これなら、地下のキノコ栽培で出た『廃菌床』のカスや、そこらで拾った枯れ枝を燃やすだけで、十分すぎる火力が得られるわ! いいこと、みんな! まずは小麦粉に水を加えて、ひたすら力強く練りなさい! そして、その練り上がった生地を、たっぷりの水の中で『ひたすら揉み洗い』するのよ!」
「あ、洗う!? パンを焼かないばかりか、洗うとは何を仰いますか! それではせっかくのデンプンが水に溶けて、白く濁って下水に流れてしまいます!」
パン職人の親方が、私のあまりに常識外れな指示に悲鳴を上げた。
「それが狙いよ! デンプンを完全に洗い流すの! 最後に残った『粘り気のある、ゴムのような黄色い塊』だけを取り出しなさい!」
そう、私が作ろうとしているのはパンではない。
現代の菜食主義者の間で大流行している「セイタン」、またの名を『代替肉』である。小麦に豊富に含まれるタンパク質の塊だけを抽出する、東洋の「麩」の製法を応用したものだ。
「デ、デンプンが抜けて、まるで溶けたゴムのような奇妙な塊が残りましたが……」
職人たちが汗だくになって洗った生地は、弾力のある奇妙な肉塊のようになっていた。
「完璧よ! それを一口大に切り分けなさい。そして、地下で取れたマッシュルームと、香草、クズ野菜を煮詰めた『超濃厚キノコ出汁』の鍋に投入するの! そのスポンジのような塊に、キノコの旨味成分《グアニル酸》を限界まで吸わせるのよ!」
キノコの出汁をたっぷりと吸い込み、茶色く染まったグルテンの塊。
「仕上げよ! ロケットストーブの高火力を活かして、フライパンに少しの油を熱してニンニクの香りを移し……表面をカリッと焼き上げる!」
ジュワァァァァッ!!
厨房に、まるで極上のビーフステーキを焼いているような、暴力的なまでに香ばしい匂いが充満した。
ニンニクと焦げる油の匂い、そしてキノコの深い旨味が熱によって凝縮され、食欲のタガを外す悪魔的な香りを放つ。
「完成よ! 『王妃特製・旨味爆発フェイク・ステーキ』!!」
出来上がったステーキを、毒見と称して市場の女リーダー・カトリーヌに差し出した。
彼女はフォークでそれを刺し、口に運んだ。
――サクッ、ジュワッ。
「……ッ!!」
カトリーヌは目を見開き、もぐもぐと咀嚼しながら、信じられないという顔で私を見た。
「……肉だ! 噛みちぎる時のこの繊維の力強い歯ごたえも、中から溢れ出す濃厚な旨味の汁も、どこからどう食っても極上の赤身肉じゃないか!! なんで小麦粉とキノコから、こんな肉が生まれるんだい!?」
「これが『小麦タンパク』の本当の力よ! パンのように炭水化物で腹を膨らませるだけじゃない。これは筋肉の材料になる本物のプロテインよ。腹持ちが抜群で、あなたたちのような肉体労働者には最高のエネルギー源になるわ!」
私は胸を張り、次々とフライパンで代替肉ステーキを焼き上げさせた。
かくして、オルレアン公が民衆を飢えさせ、服従させるために買い占めた何万トンという小麦は、薪を大量消費するパンではなく、極上の「代替肉ステーキ」へと魔改造された。
チュイルリー宮殿の前で振る舞われたこのステーキは、パリの市民たちに圧倒的な熱量と筋肉をもたらし、王室への絶対的な支持を不動のものとしたのである。
オルレアン公の野望は、完全に粉砕された。
だが。
パリの飢餓を乗り越え、市民との連帯をかつてないほど深めても……その日の夜、チュイルリー宮殿の執務室の空気は、鉛のように重く、息苦しかった。
「……アントワネット。代替肉の成功は素晴らしい。君の発想力には本当に救われた。……だが、問題の根本は、何一つ解決していないんだ」
ジョゼフを寝かしつけた後。
ルイが目の下に濃い隈を作り、ひどく疲れた顔で一枚の分厚い羊皮紙の書類を机に置いた。
それは、スイス銀行団の紋章が押された、無慈悲な『償還期限通告書』だった。
「飢えは凌げた。暴動も回避できた。しかし……国には依然として『現金』がない。オルレアン公から安く買い叩いたとはいえ、あの大量の小麦の購入で、なけなしの金庫は完全に空になった。……来月には、スイスの銀行団が利子の取り立てにやってくる」
いくら代替肉が美味しくても、借金取りはキノコ出汁では納得してくれない。国家の破産は、すぐそこまで迫っていた。
「ネッケルの奴が残した、借金の残高……二十億リーブル。それにかかる、年利十パーセント……毎年二億リーブルの『利子』だ」
ルイの声が微かに震えている。
「二億リーブル……国家予算の約半分に相当する額だ……」
私は、その数字の桁の大きさに改めて眩暈を覚えた。
「僕たちが昼夜問わず地下でキノコを育て、君がどれだけ素晴らしい料理を発明して市民の心を満たしても……複利で膨らみ続けるこの悪魔のような数字の前では、何の足しにもならないんだ」
私は、テーブルの上に置かれた請求書が、突然、首を刎ねる巨大なギロチンの刃に見えた。
私たちが個人の知恵と努力、そして筋肉で生み出せる利益など、国家規模の金融という「怪物」の前では、バケツで海水を汲み出すようなものだったのだ。
「……そんな。じゃあ、私たちはどうすれば……」
足元が崩れ落ちるような感覚。
厨房の熱気とは違う、冷たい汗が背中を伝う。
「このままでは、冬を越える前に国庫は完全に停止する。軍隊に給与が払えなくなり、治安が崩壊する。外国の銀行家たちは、フランスの土地や港を借金のカタに差し押さえに来るだろう」
ルイは、自ら発明した複雑な歯車の模型を、力なく机に置いた。
「……根本的な制度を変えるしかない。貴族から強制的に税を取るか。それとも……いや、どちらを選んでも、内乱か革命は避けられない」
窓の外から、ヒュオォォと冷たい風が吹き込んでくる。
パリの平民たちは、代替肉ステーキで腹を満たし、王室への信頼を取り戻しつつある。だが、国という「器」そのものが、今まさに内側から音を立てて砕け散ろうとしていた。
マリー・アントワネット、23歳。
政敵を退け、大成功を収めたビジネスとアイデアの果てに彼女が見たものは、個人の努力ではどうにもならない『二十億リーブルの借金』という、マクロ経済の残酷すぎる巨大な絶望の壁であった。




