第65話 地下迷宮の白い奇跡
パリの地下深く、かつて石切り場として使われていた広大な暗闇の迷宮。
そこは今、ルイが設計した「手回し式巨大送風機」が絶えず新鮮な空気を送り込み、むせ返るような馬糞と藁の堆肥の匂い、そしてむわっとした湿気に満ちていた。
「アントワネット! 見てくれ! 菌糸の定着率が僕の計算を上回っている! ベルサイユの噴水技術を応用してギア比を最適化したおかげで、二酸化炭素の滞留を完全に防ぎ、理想的な呼吸循環を作り出したぞ!」
松明の明かりの中、全身を堆肥と泥にまみれさせたルイが、歓喜の声を上げた。
彼の指差す先、暗闇の中に広がる培地の上には――無数の、まるで真珠のように白く輝く丸い頭が、びっしりと顔を出していた。
「……咲いた。真っ白な『マッシュルーム』の海よ!」
私は、感動のあまり泥だらけの手で口元を覆った。
太陽の光が届かなくとも、季節外れの冷害が地上を凍らせていても。地下の安定した温度と湿度、そしてパリ中からかき集めた馬糞の栄養素が、見事にキノコの命を育んだのだ。
「マリー様! こっちの区画もすげぇぞ! ひと晩でボコボコと頭を出しやがった! まるで大地が呼吸してるみたいだ!」
カトリーヌたち市場の女たちが、カゴいっぱいに真っ白なキノコを収穫して駆け寄ってくる。彼女たちの顔は泥だらけだったが、その瞳には数週間ぶりに「明日を生きる希望」の光が宿っていた。
「みんな、よく頑張ってくれたわ! さあ、これを地上へ運ぶのよ! オルレアン公の、あの喉に詰まるパッサパサのパンなんかより、ずっと美味しくて、ずっと熱くて、魂まで満たされる『最高のメシ』にしてやるわ!」
チュイルリー宮殿の厨房に、山のようなマッシュルームが運び込まれた。
ジョゼフは、ランバル夫人に見守られながら「絶対防衛ベビーサークル」の中で平和にお昼寝をしている。よし、調理に全集中できるわ。
(キノコの最大の武器……それは、肉をも凌駕する圧倒的な『旨味成分《グアニル酸》』よ!)
肉が買えなくても、塩が少なくなっていても、キノコから溶け出す強烈な旨味があれば、脳と胃袋を完全に満たすことができる。
「料理長! マッシュルームを薄切りにして、鍋でじっくりと乾煎りするの! 良い? 水分を飛ばして、その一粒一粒に閉じ込められた旨味を極限まで凝縮させるのよ!」
ジュゥゥゥ……ッ!
熱した大鍋の中で、山のようだった白いキノコが熱を帯び、みるみるうちに褐色へと色づいていく。メイラード反応がもたらす暴力的なまでに芳醇で香ばしい匂いが、厨房の窓から溢れ出し、飢えに震えるパリの街路へと流れ出した。道ゆく人々が、まるで魔法にかけられたように鼻をヒクヒクさせ、宮殿へと吸い寄せられていく。
「王妃様、キノコからこんなに濃厚な脂と香りが……! まるで森のバター、いや、大地の肉です!」
「ここへ、少しだけ残しておいた全粒粉を振り入れてとろみをつけ、山羊の乳で一気に伸ばすのよ! じっくり煮込んで、旨味を乳化させるの!」
完成したのは、琥珀色に輝くキノコの出汁と、乳白色のスープが完璧に乳化した『マッシュルーム・ポタージュ』だ。
「さあ、カトリーヌ! ロベスピエール! カミーユ! 毒見は私がするから、みんなも食べて!」
私は木のお椀にスープを注ぎ、自ら一口飲んで安全を証明してから、彼らに手渡した。
ズズッ……。
冷え切った体を震わせながらスープを啜ったカトリーヌの動きが、ピタリと止まった。
「……なんだ、こりゃあ……」
彼女の目から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出した。
「肉なんて、ひとかけらも入ってねぇのに……。舌に乗せた瞬間、全身の力が抜けるような美味さが……喉の奥から胃袋の底まで、熱い鉄槌みたいに染み渡ってくる……! 腹の底から、生きる力が湧いてくるよ……!」
ロベスピエールもまた、眼鏡を曇らせ、スープを両手で包み込みながら咽び泣いていた。
「……これが、光を拒絶された暗闇の中で育った菌の力。オルレアン公が施す、選民意識に満ちた高慢なパンより、この一杯のスープの方が、どれほど我々の魂を対等に温めてくれることか。これぞ、真の『自由・平等・博愛』の味だ……!」
「決まりね。これを今すぐチュイルリーの門前で、パリ中の市民に『無料』で大鍋から振る舞うわ! オルレアン公の卑劣なマネーゲームを、私たちの『旨味の暴力』で粉砕してやるのよ!」
一方その頃。
パレ・ロワイヤルの豪華な一室で、最高級のワインを傾けていたオルレアン公フィリップ・エガリテは、報告に訪れた部下の言葉に耳を疑っていた。
「……なんだと? パリの市民が、私の配給するパンを受け取りに来ないだと?」
「は、はい。パンの価格を釣り上げ、飢餓感を煽って暴動を起こさせる計画でしたが……。チュイルリー宮殿の前で、王妃が『白い石のような茸』のスープを配り始めまして……」
「茸だと? そんな雑草同然のものを食って、暴動が収まるわけがなかろう!」
「それが、その……『オルレアン公のパンは高くて硬いが、王妃のキノコはタダで、しかも肉より美味い』と、市民がこぞって王室の炊き出しに並んでおりまして。我が陣営で雇った暴徒たちすら、『スープのお代わりをもらいに行く』と武器を放り出してしまう始末で……」
「な、馬鹿な……ッ!!」
オルレアン公がワイングラスを床に叩きつけた。
「買い占めた小麦はどうなる! このままでは、維持費と倉庫代でこちらが破産してしまうぞ! オーストリアの女狐め、私の計画を潰す気か!」
どんなに政治的に巧妙な罠を張り巡らせても。
圧倒的な旨味と、心まで温める熱々のスープ、そして王室自らが泥にまみれてキノコを育てるという共感の前には、冷たいマネーゲームなど無力だったのだ。
チュイルリー宮殿の広場は、キノコスープをすする数万のパリ市民の笑顔と、立ち上る温かい湯気に包まれていた。
「美味しい! マリー様、地下のキノコ最高だぜ!」
「もうオルレアンの金持ちパンなんか要らねぇ! 俺たちも明日から、地下のキノコ栽培を手伝うぞ!」
市民の歓声を聞きながら、私はすすだらけのルイとハイタッチを交わした。
「やったわね、ルイ! あなたの送風機が、パリを飢餓から救ったのよ!」
「いや、君の諦めない心が、地下の迷宮に光を灯したんだ。……さあ、ジョゼフも起きたようだ。彼にも、特製の裏ごしキノコピュレを食べさせてあげよう。未来の王太子には、この再生の味を知っておいてもらわなきゃいけないからね」
マリー・アントワネット、23歳。
絶望の太陽消失と経済封鎖を、パリの地下迷宮で育てた白い奇跡と圧倒的な旨味の暴力で打ち破り、革命の火種を極上のポタージュへと煮込んでしまったのである。




