第63話 母の咆哮
ドガァァァンッ!!
凄まじい轟音とともに、私とジョゼフを守っていた分厚い樫の木の扉が、ついに木っ端微塵に砕け散った。
雪と火山灰に塗れた軍靴が、大理石の床を踏み荒らして雪崩れ込んでくる。
先頭に立つのは、血走った目をしたオルレアン公の雇兵たち。そしてその後ろには、飢えと寒さ、そして扇動された憎悪によって完全に理性を失ったパリの民衆がひしめいていた。
「魔女はどこだ!! その腹を裂いて、腐った芋を詰め込んでやる!!」
一人の男が、血濡れた鉈を振り上げて寝室へと踏み込んできた。
「……させないッ!!」
その凶刃の前に立ち塞がったのは、私の夫、ルイだった。
彼は王の象徴である豪奢な剣ではなく、自らの工房で鍛え上げた、無骨で分厚い『鋼鉄製の大型レンチ』を両手で握りしめていた。
ガキィィィンッ!!
振り下ろされた鉈をレンチで受け止め、ルイは凄まじい大腿四頭筋の力で踏み込み、男を力任せに弾き飛ばした。
「ぐああっ!?」
「何をしている! 相手はただのオタク王だ、数で押し潰せ!」
雇兵たちが一斉に群がる。だが、毎朝のスクワットと過酷な農作業、そしてピラティスで鍛え抜かれたルイの体幹は、もはや「ひ弱な王」のそれではなかった。
「僕の妻と子に、指一本触れさせるものかぁぁぁっ!!」
父親としての凄絶な咆哮とともに、ルイは巨大なレンチを振り回し、次々と暴徒をなぎ倒していく。その姿はまさに、家族を守るために血塗れで戦う一頭の獅子だった。
だが、多勢に無勢。
ルイが数人を抑え込んでいる隙を突き、一人の小柄で身軽な暗殺者が、ルイの死角をすり抜けて私の方へと跳躍した。
「もらったぞ、オーストリア女!!」
冷たい短剣の切っ先が、私と、私の腕の中で泣き叫ぶジョゼフに向かって真っ直ぐに突き出される。
(……ジョゼフだけはッ!)
私は咄嗟に背中を向け、自分の体を盾にしてジョゼフを完全に覆い隠した。
肉を裂かれる痛みを覚悟し、奥歯を噛み締めた、その瞬間。
ガァァンッ!!
鈍い金属音とともに、暗殺者の体が真横に吹き飛び、壁に激突して崩れ落ちた。
「……え?」
恐る恐る振り返った私の目に映ったのは、血振るいをした巨大な肉切り包丁を持つ、大柄な女性の背中だった。
「……カトリーヌ……?」
私を凶刃から救ったのは、パリの市場の女たちのリーダー、カトリーヌだった。彼女は肩で荒い息を吐きながら、雇兵たちを鋭く睨みつけた。
「おい、話が違うじゃないか。アタイらは、王様に『パンをくれ』と直訴しに来たんだ。……赤ん坊ごと母親を串刺しにするような外道に成り下がるために、二十キロも歩いてきたんじゃないよ!」
彼女の怒鳴り声に、暴徒と化していた市場の女たちがハッと我に返り、雇兵たちとの間に一線を引いた。
「何を狂ったことを! その女は我々に毒の芋を食わせた魔女だぞ!」
雇兵が叫ぶが、カトリーヌは肉切り包丁を突きつけた。
「黙りな! 魔女だなんだと騒いでるのは、オルレアン公に金をもらったお前らだけだ! アタイのこの筋肉は、そしてこの足に履いている破れない靴は、誰が一緒に作ってくれたと思ってるんだ!」
カトリーヌの背中越しに、私は血だらけのルイと目が合った。
彼が頷く。
私は、震える膝に力を込め、ジョゼフをしっかりと抱き抱えたまま、ゆっくりと立ち上がった。
そして、暴徒たちの前に進み出た。
「……毒の芋。呪い。……馬鹿を言わないで!!」
私の腹の底からの叫びに、部屋中の空気がビリッと震えた。
「寒さで脳みそまで縮んだの!? 空が暗いのは私の呪いじゃない、はるか北の国で火山が爆発して、太陽の光を遮っているからよ! 芋が腐ったのは『晩疫病』というカビのせい! 自然の猛威よ!」
私は、雇兵の胸ぐらを掴まんばかりの勢いで睨みつけた。
「あなたたちに配ったパン、オルレアン公がタダでくれたと思っているの!? 違うわ! 彼は今年の初めから、この不作を見越してヨーロッパ中の小麦を裏で買い占めていたのよ! 市場から小麦が消え、価格が高騰したのは彼の『投機』のせい! あなたたちは、自分たちを計画的に飢えさせた真の悪魔からパンを貰って、尻尾を振っているのよ!!」
現代の経済知識――『意図的な買い占めと価格操作』のカラクリを、私は一切のオブラートに包まずに暴露した。
その言葉に、群衆がざわめき始める。
「買い占め……? オルレアン公が……?」
「そういえば、あの人の倉庫だけ、やけに警備が厳重だった……」
そこに、群衆の後方から、二人の青年が声を張り上げて進み出てきた。
若き弁護士ロベスピエールと、新聞記者のカミーユである。
「市民諸君、王妃の言葉は論理的に極めて正しい! 我々も独自に調査を行っていたが、パレ・ロワイヤルに運び込まれた小麦の量は、異常なほど莫大だった!」
「ルソーの絶筆を思い出せ! 暴力を扇動する者の裏には、必ず醜い利権がある。我々は、利用されているだけだ!」
ポテトサラダで論破されたロベスピエールと、ルソーの最期に救われたカミーユが、今度は群衆の「理性」を呼び覚ますための防波堤となってくれたのだ。
「ち、チィッ……! 騙されるな、王妃を殺せ!!」
焦った雇兵の一人が、発砲しようと銃を構えた。
だがその瞬間、窓の外から轟くような一斉射撃の音が響き、雇兵の手から銃が弾き飛ばされた。
「……そこまでだ! 王妃殿下と国王陛下は、我々国民軍が保護する!!」
割れた窓から身を乗り出してきたのは、アメリカ独立戦争の英雄であり、私がかつて干し芋とサロペットで命を救った男――ラファイエット侯爵だった。
彼が率いる国民衛兵のマスケット銃が、暴動を扇動していた雇兵たちにピタリと狙いを定めている。
圧倒的な暴力の制圧。
そして、真実を知った民衆たちの困惑。
部屋の中に、奇妙な静寂が訪れた。
私は、ラファイエットに目配せで礼を言い、それからカトリーヌたちに向かって、深く、深く頭を下げた。
「……王妃様……?」
「ごめんなさい。……あなたたちを、飢えさせてしまった。私がいくら健康の知識を持っていても、国家の借金という大きな壁の前では、あなたたちに温かいスープ一杯すら配れなかった。私の、完全な敗北よ」
私は顔を上げ、涙でぐしゃぐしゃになった顔を隠そうともせずに、彼女たちを見据えた。
「でも、私はまだ死なない! ここで死んだら、あなたたちは本当に、オルレアン公のような血も涙もない資本家の奴隷になってしまう!……パリへ行くわ」
私の言葉に、ルイがハッとして私を見た。
「ベルサイユを捨てて、あなたたちと同じパリの街へ行く。チュイルリー宮殿へ移り住むわ。そして、この二十億の借金と、オルレアン公の卑劣な買い占めに……真正面から経済で戦争を仕掛けてやる!!」
それは、史実における「パリ連行」という屈辱の敗北ではない。
王室自らが、安全なベルサイユという温室を捨て、民衆のど真ん中であるパリへ「前線基地」を移すという、壮絶な決意表明だった。
「……フッ。言ってくれるじゃないか、王妃様」
カトリーヌが、呆れたように、けれどどこか頼もしげに笑って、血塗れの包丁を下ろした。
「いいだろう。アタイらも、オルレアンの野郎にコケにされたままじゃ腹の虫が治まらない。パリへ来い。あんたが本気で金持ちどもからパンを奪い返すって言うなら……アタイらがそのスニーカーで、どこまでもあんたを護衛してやるよ」
かくして、血の雨が降るはずだったベルサイユ行進は、マリー・アントワネットの「経済宣戦布告」により、オルレアン公に対する『王室&パリ市民の合同レジスタンス結成』という、とんでもない方向へと舵を切った。
傷ついたルイが私の肩を抱き、ジョゼフが私の胸の中で「あーうー」と小さな声を上げる。
(見てなさい、歴史の強制力。ここからが本当の、死に物狂いのサバイバルよ!)
マリー・アントワネット、23歳。
すべての財産と食糧を失った彼女は、極限に鍛え上げたインナーマッスルと民衆の絆だけを武器に、反撃の狼煙を上げるべく、決戦の地「パリ」へと進軍を開始するのであった。




