第62話 死神たち
ドロドロに腐り落ちたジャガイモ畑の泥の中で、私はただ虚空を見つめていた。
「アントワネット、立つんだ。こんな所にいたら凍え死んでしまう……!」
ルイが私を泥の中から引きずり起こし、自分の外套で包み込んでくれた。だが、彼の体もまた、小刻みに震えている。
空を覆うラキ火山の火山灰は、太陽の光だけでなく、私たちの生きる気力すらも完全に遮断していた。
私たちが宮殿の執務室に戻ると、そこには血の気を失った軍務大臣と、パリから命からがら逃げ帰ってきた密偵が待ち受けていた。
「……報告を」
ルイが玉座に倒れ込むように座り、嗄れた声で促した。
「へ、陛下……。パリは、完全に我々の手を離れました。王権は……死に体です」
密偵の言葉に、私は息を止めた。
「暴動が起きたの? なぜ近衛隊は鎮圧しないの!?」
「鎮圧など不可能です。なぜなら、暴徒たちを扇動し、武装させ、そして『食糧』を与えているのが……オルレアン公フィリップ・エガリテ殿下だからです!」
オルレアン公。
王位継承権を持ち、史実でも王室を憎み、私財を投げ打って革命を裏から操った最大の政敵。
「あの男は、国の借金が明るみに出る数ヶ月前から、投機家と結託してヨーロッパ中の小麦を密かに買い占めていたのです! そして今、飢えと寒さに狂うパリの民衆に対し、自らの庭園『パレ・ロワイヤル』を開放し、無償でパンと薪を配給しています!」
私は眩暈を覚えた。
私がちまちまと干し芋を配り、健康体操を教えていた裏で、彼は「王をすげ替えるための絶対的な準備」を整えていたのだ。資本の暴力という、18世紀の最も冷酷な現実を見せつけるように。
「それだけではありません。オルレアン公は、市場の女たちにこう演説しました。『王妃が広めたジャガイモは、民衆を殺すための毒だ。見ろ、畑の芋が黒く腐り落ちたのがその証拠だ。オーストリアの魔女は、健康を装ってフランスの土壌に呪いをかけたのだ!』……と」
「……っ!」
吐き気がした。
私が民を救うために必死で育てたジャガイモ。それが天災による疫病で腐ったことを逆手に取り、「魔女の呪い」という最も原始的で、最も大衆の憎悪を煽りやすい言葉にすり替えられたのだ。
「愚かな……! アントワネットがどれだけ民を思って泥にまみれたか、パリの市民が一番よく知っているはずだ!」
ルイが怒鳴った。
だが、密偵は絶望的な首の振り方をした。
「陛下。腹が減り、子供が凍えている時、民衆は『過去の恩』など一瞬で忘れます。目の前で温かいパンを配るオルレアン公こそが彼らの神であり、黒く腐った芋を寄越した王妃様は、全ての不幸の元凶たる『悪魔』なのです」
ガチャンッ!
その時、宮殿の窓ガラスが、遠くから飛んできた石によって粉々に砕け散った。
「ひぃっ!」
侍女たちが悲鳴を上げて逃げ惑う。
私は震える足で、割れた窓のそばへと近づき、眼下の広場を見下ろした。
そこにあったのは――かつて私が干し芋を配り、笑顔でビスコッティをかじっていた民衆たちの姿ではなかった。
槍を、包丁を、松明を掲げた、数万の怒り狂う群衆の波。
『べルサイユ行進』だ。
史実では、飢えた市場の女たちが雨の中を半日かけて歩き、疲労困憊の末にたどり着いたはずの出来事。
だが、眼下に広がるその光景は、私の知る歴史とは決定的に、そして絶望的に違っていた。
「……嘘……どうして、こんなに早く……」
パリからベルサイユまでの約二十キロの道のり。普通なら、飢えてやせ細った女たちが歩けば、到着する頃にはボロボロになっているはずだ。
しかし、先頭を歩く彼女たちの足取りは、恐ろしいほどに力強く、怒号は地響きのように腹の底から轟いていた。
『オーストリア女を引きずり出せ!!』
『私たちのパンを奪った魔女の首を寄越せ!!』
彼女たちの足元を見て、私は絶望のあまりその場にへたり込んだ。
彼女たちが履いているのは、私が「いざという時に全力ダッシュで逃げ切れるように」と考案し、パリ中に流行させた『キャンバス・スニーカー』だった。
彼女たちの体幹は、私が「健康のために」と推奨し、日々の労働で培われた『強靭なインナーマッスル』によって支えられていた。
彼女たちの血流は、私が普及させた『高タンパク・低糖質』の食事とサウナによって、極限まで最適化されていた。
なんという、残酷な皮肉だろう。
私がギロチンから逃げるために、必死で民衆を健康にし、体力をつけさせた結果。
私は、自分自身の首を狩りに来る『歴史上最も屈強で、最も機動力のある最強の革命軍』を、自分自身の手で育て上げてしまったのだ。
「王妃様、こちらへ! 早く奥の部屋へ!」
ランバル夫人に引きずられるようにして、私はジョゼフが眠る寝室へと後ずさった。
ドゴォォォォン!!!
ベルサイユ宮殿の強固な城門が、信じられない力で打ち破られる音が響いた。
最強に仕上がった市場の女たちと、オルレアン公の資金で雇われた武装兵が、怒涛のように大理石の階段を駆け上がってくる。
「アントワネット! ジョゼフを抱いて、奥の隠し通路へ!」
ルイが剣を抜き、私を庇うように扉の前に立った。
だが、彼がこの数年間で発明してきたオーバーテクノロジーの数々は、国を豊かにし、育児を楽にすることはできても、数万の殺意を持った暴徒を殺傷する武器ではないのだ。
扉の向こうから、ドンドンと激しく打ち叩く音が響く。
「開けろ!! 魔女マリー・アントワネット!! お前のその白首を、俺たちの鉈でかち割ってやる!!」
私がジョゼフの安全のために宮殿中に貼らせた「茶色いゴムのコーナーガード」が、暴徒の斧によって無惨に削り取られ、宙に舞う。
ルイが釘を使わずに組み上げた「絶対安全なベビーサークル」が、軍靴で無惨に蹴り砕かれる音が聞こえた。
「……あぁ……ああぁ……」
私は、泣き叫ぶジョゼフを胸に強く抱きしめ、壁の隅でガタガタと震えることしかできなかった。
どんなに未来の知識があっても。
どんなに栄養学を駆使しても。
圧倒的な「飢餓」と、悪意ある「政治的扇動」の前では、女子大生の浅知恵など、藁の家のように吹き飛ぶだけだったのだ。
メキィッ……!
ルイが設計した強固な鍵が、凄まじい物理的な暴力によって、ついにひしゃげる悲鳴を上げた。
死神の刃が、今度こそ完全に、私と家族の喉元に突き立てられた。
マリー・アントワネット、23歳。
彼女の生存戦略は、自らが鍛え上げた「最強の民衆」という絶対的な暴力によって、ここに完全なる終焉を迎えようとしていた。




