第61話 太陽が死んだ日
国庫が空になり、パリの経済が凍りついたことで、ベルサイユ宮殿の空気も一変した。
現金が回らなくなった影響は、特権階級である貴族たちにも波及していた。彼らの領地からの収入は激減し、豪奢な生活を支えていた商人たちは掛け売りを拒否し始めたのだ。
「……皆様、どうか聞いてほしい。我が国は今、建国以来最大の危機に瀕している。この窮地を脱するためには、これまで免税特権を持っていた貴族や聖職者からも、平等に『土地税』を徴収する他ないのだ」
ベルサイユの「鏡の間」。
緊急招集された名士会議の席で、ルイは玉座から身を乗り出し、血を吐くような声で訴えた。
私は王妃として彼の隣に座り、祈るような気持ちで貴族たちの顔を見渡した。
彼らは皆、私が考案したサロペットを愛用し、サウナで共に汗を流し、ピラティスで健康を取り戻した「仲間」のはずだった。彼らなら、国の危機を分かってくれる。そう信じていた。
しかし――。
「……お断りいたします、陛下」
静まり返った広間に、氷のように冷たい声が響いた。
立ち上がったのは、誰あろう、共に畑でクワを振るったはずのポリニャック夫人や、大貴族の当主たちだった。
「ポ、ポリニャック……? あなたたち、どうして……」
私が思わず声を上げると、彼女は私を見据え、氷の微笑を浮かべた。
「王妃様。私たちが泥にまみれ、あなた様の『健康ごっこ』にお付き合いしたのは、それが優雅な退屈しのぎであり、何より『私たちの財産が脅かされない前提』があったからですわ」
「退屈しのぎ……? あんなに一緒に笑い合って、共に汗を流したじゃない!」
「ええ、汗は流しました。ですが、私たちの『血』を流すつもりはありません」
別の公爵が冷ややかに言い放つ。
「我々から税を取るなど、王国数百年の伝統への反逆だ。借金を作ったのは無能な財務長官と、それを許した王室の責任。貧民が飢えているなら、彼らが勝手に死ねばいい。我々の特権を切り売りしてまで、なぜ下々の者を救わねばならんのです?」
私は絶句した。
彼らは健康になり、体幹を鍛え、美しくなった。しかし、その「精神の根底」にある特権階級としての傲慢さや、平民を見下す特権意識までは、1ミリも変わっていなかったのだ。
「貴様ら……! 国が滅びれば、その特権ごと崩れ去るのが分からんのか!」
ルイが激怒して立ち上がるが、貴族たちは冷ややかな目で王を見るだけだった。
「陛下。ご自身の無策を我々に押し付けないでいただきたい。……もしこれ以上、我々の財産を脅かすというのなら、我々は『高等法院』を動かし、王権そのものを制限するよう動きますぞ」
それは、明白な脅迫だった。
王室は完全に孤立した。最も頼りにすべき足元の貴族たちから、完全に牙を剥かれたのだ。
だが、絶望はそれだけでは終わらなかった。
「……王妃様、空が。空の様子が変です……!」
会議が物別れに終わり、重苦しい足取りで私室へ戻る途中、窓の外を見ていたランバル夫人が震える声で空を指差した。
外を見て、私は背筋が凍りついた。
まだ秋の初めだというのに、太陽の光が異様に弱々しい。空全体が、不気味な赤紫色を帯びた「分厚い灰色の霧」に覆われ、薄暗く沈んでいた。
「……火山灰……!?」
現代知識を持つ私の脳裏に、恐ろしい歴史的事実がフラッシュバックした。
この時代、アイスランドのラキ火山が大噴火を起こし、北半球全体が有毒な火山ガスと灰のベールに覆われる「異常気象」が発生していたはずだ。
「気温が……急激に下がっている」
ルイが窓枠に触れ、歯の根を合わすように呟いた。
季節外れの異常な冷気。
太陽の光を遮断する、死の霧。
「……待って。日差しがないってことは、気温が下がるってことは……畑は!? 私の、ジャガイモは!?」
私はドレスの裾を握りしめ、パニック状態でベルサイユの庭園へと駆け出した。
国庫が空でも、最悪、秋の収穫があればパリの民衆を数ヶ月は食いつながせることができる。
(大丈夫よ! うちの主力は、あのプロイセンから『種芋外交』で譲り受けた、寒さや病気にめっぽう強い最強のジャガイモなんだから! 少々の冷害なんて跳ね返してくれるはず……!)
そう自分に言い聞かせ、「王妃様、お待ちください! 外は有毒な霧が……!」というランバルの制止を振り切り、広大な「ベルサイユ菜園」へと転がり込む。
しかし。
そこで私が目にしたのは、文字通り「この世の終わり」だった。
「……嘘……でしょ……」
つい数日前まで、青々と茂っていた屈強なプロイセン産ジャガイモの葉。
それが、異常な冷気による「季節外れの霜」……だけではなかった。空から降り注ぐ高濃度の有毒な火山灰と強酸性雨が土壌を急激に破壊し、それに乗じて発生した「未知の凶悪な突然変異型・疫病──晩疫病」が畑全体を飲み込んでいたのだ。
一面、どす黒く変色し、ドロドロに溶けて悪臭を放っていた。
「嫌だ……嘘よ! お願い、根っこは、土の中の芋は生きていて! プロイセンの芋先輩の底力を見せてよ!!」
私は泥だらけになりながら、素手で凍りついた冷たい土を狂ったように掘り返した。
出てきたのは、黄金色の恵みではなかった。
いくら病気や寒さに強い最強の品種であろうと、太陽を完全に奪われ、有毒ガスと強酸性の泥水に沈められればひとたまりもない。
黒く腐り、握り潰せば悪臭とともにドロドロの液体となって崩れ落ちる、黒い汚泥の塊だった。
「ああ……あああ……っ!」
私の手から、黒い泥が滑り落ちる。
最後の命綱だった「食糧」すらも、大自然の暴力の前に完全に消滅した。
「王室は破産している。貴族は裏切った。お金がないから薪も塩も買えない。そして……頼みの綱だった最強の芋すら、もう無い……」
凍てつく泥の真ん中で、私は膝から崩れ落ちた。
空からは、秋だというのに、絶望を象徴するような冷たい「雪」が舞い落ちてきた。
私がこの数年間、現代知識を総動員して必死に積み上げてきたフラグ折りは、歴史の巨大な修正力と、圧倒的な自然の猛威の前に、たった一ヶ月で文字通り「腐り落ちた」のだ。
遠く、パリの方角から、これまでとは違う、獣の咆哮のような鈍い音が聞こえた気がした。
それは、愛する子供に食べさせる物を全て失い、極限の飢えと寒さに狂い始めた「民衆の暴動」が、ついに火を噴いた音だった。
マリー・アントワネット、23歳。
健康も、知識も、知恵も、もはや何一つ通用しない。
彼女の細い首に、今度こそ逃げ場のない「断頭台」の刃が、物理的な冷たさを持って押し当てられたのである。




