第60話 消えた笑顔
ネッケルが投げ出した「二十億リーブルの負債」という絶望的な数字は、すぐには暴動を引き起こさなかった。
本当に恐ろしい国家の崩壊とは、昨日まで笑っていた人々が突然刃を持って立ち上がるのではなく、真綿で首を絞められるように、日々の生活から「明日への希望」が静かに削り取られていくことなのだと、私はこの時初めて知った。
ネッケルの辞任から数週間後。
パリの街を、目に見えない「恐怖」が覆い始めていた。
「……王妃様。本日の『カフェ・ド・ポム』の客数は、ついに昨年の三分の一を割りました」
お忍びの地味なドレスでパリの直営カフェを訪れた私に、元貴族の店長が青ざめた顔で報告書の束を差し出した。
「どうして……。おからパンケーキも、ポテトスープも、価格は据え置きにしているはずよ?」
「価格の問題ではないのです。……パリの街から、『現金』が消えました」
店長は、力なく首を振った。
ネッケルという「錬金術師」が去り、フランスの本当の財政状況――王室が莫大な借金を抱え、首が回らなくなっているという事実――が投資家や銀行家たちの間に知れ渡った。
すると何が起きるか。
国の支払能力への「信用」が崩壊したのだ。
「銀行は、商人への新たな貸し付けを完全にストップしました。国から仕事を請け負っていた業者への支払いも滞り、連鎖的に事業が止まっています。……街の誰もが、明日現金が手に入るか分からない恐怖から、1スーたりとも金を使おうとしなくなったのです」
経済の血流が、完全に止まった。
私はカフェの窓から、パリの通りを見下ろした。
かつて、私が配った干し芋をかじり、サロペット姿で活気にあふれて歩いていた人々の姿はそこにはない。
通りを行き交う市民たちの顔は一様に暗く、足取りは重い。すれ違う者同士で挨拶を交わす余裕すら消え失せ、誰もがうつむき加減で足早に歩き去っていく。
「……カトリーヌ」
窓越しに、見知った顔を見つけた。
かつて、私の「焼き豆腐ドーナツ」を食べて涙を流してくれた、市場の屈強な女リーダー、カトリーヌだ。
私は店を飛び出し、足早に歩く彼女を路地裏で呼び止めた。
「カトリーヌ! 私よ」
フードを深く被った私を見て、彼女は一瞬驚いた顔をしたが、すぐにその表情を曇らせた。かつての健康的な肌のツヤは失われ、頬がこけ、目の下には濃い隈ができている。
「……王妃様。こんな所に長居しては危険です。今のパリは、空気がひどく淀んでいる」
「カトリーヌ、顔色が悪いわ。市場の野菜の売れ行きがよくないの?」
「野菜の前に、塩と薪が買えないんですよ」
カトリーヌは、ひび割れた手で顔を覆い、吐き捨てるように言った。
「王妃様が教えてくれたジャガイモ。あれは確かに腹が膨れるし、育てるのも簡単だ。でもね、ジャガイモを茹でるための『薪』の値段が、この一ヶ月で三倍に跳ね上がったんです」
「三倍!? どうして……」
「運送業者が馬の飼葉を買えないから、物流が止まっているんです。おまけに、国が金を取り立てるために、塩税の徴収人を町中に放った。……ジャガイモがあっても、火も通せず、味もつけられず、保存すらできない。結局、生のまま腐らせるしかないんです」
私は、頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
栄養学的に完璧な作物を普及させても、それを「調理し、食べる」ための経済というインフラが崩壊すれば、何の意味も持たないのだ。
「夫は、下水道の建設現場を解雇されました。国庫からの資金が下りず、工事が凍結されたからです。……王妃様。私たちは、あなたと一緒に汗を流すのは好きでした。でも、今の私たちには……ピラティスで腹を引っ込める体力も、サウナで汗を流す水も、明日のパンを買う銅貨一枚すら、残っていないんです」
カトリーヌの目には、かつてのような親愛の情はなかった。かといって、憎悪の炎が燃え盛っているわけでもない。
そこにあったのは、ただ圧倒的な「疲労」と「絶望」、そして、自分たちをこんな目に遭わせた国家システムへの深く静かな『諦め』だった。
「……ごめんなさい。私、すぐにルイと相談して……」
「王妃様。もう、芋やドーナツでは誤魔化せませんよ。……このまま冬が来れば、パリの街には本当に、死人が溢れ返る」
カトリーヌはそれだけ言い残し、重い足取りで裏路地へと消えていった。
ベルサイユへ戻った私は、私室の暖炉の前で、死人のように冷え切った両手を擦り合わせていた。
扉が開き、重い足取りでルイが入ってくる。彼もまた、連日の御前会議でやつれ果て、かつての「筋肉の王」の覇気は見る影もなかった。
「……ダメだ、アントワネット。どの銀行家を呼んでも、首を縦に振らない。これ以上の国債の発行は不可能だ。国家が完全に『不渡り』を出す寸前まで来ている」
ルイがソファーに沈み込み、両手で頭を抱えた。
「僕が計画していた、パリ中の公衆衛生改善プロジェクトも、すべて業者が撤退した。職人たちに給料が払えないんだ。……君がどれだけ民衆の胃袋を健康にしても、僕という王が、国の財布を健康に保てなかった」
私は、何も言葉を返すことができなかった。
自分のダイエット。
貴族の更生。
育児環境の改善。
私がこの数年間、必死に積み上げてきたミクロな「健康革命」は、国家経済というマクロな「血流」が止まった瞬間、いともたやすく砂上の楼閣のように崩れ去ってしまった。
いくら贅沢を控えても、二十億リーブルの重圧は跳ね返せない。
いくらベビーサークルで囲っても、国家の破綻という凶器からはジョゼフを守れない。
「……ねえ、ルイ。革命って、思想家が本を書くから起きるんじゃないのね」
私は、燃え尽きそうな暖炉の火を見つめながら、乾いた声で呟いた。
「明日の生活への不安。火を焚けない寒さ。子供に食べさせるものがない恐怖。……そういう、当たり前の日常がジワジワと壊されていくことへの『限界』が、最後の一線を越えた時に……人は、ギロチンを組み立てるのよ」
遠くパリの方角の空が、鉛色に沈んでいる。
怒号や暴動はまだない。ただ、不気味なほどの静けさと、飢餓の足音が、確実にベルサイユの城門へと近づいていた。
マリー・アントワネット、23歳。
個人の努力という名のメッキが剥がれ落ち、彼女はついに、逃げ場のない「国家規模の絶対的困窮」という、真のフランス革命のトリガーと対峙することとなった。




