第59話 蘇る断頭台の影
ベルサイユの秋は、いつになく穏やかだった。
ジョゼフは健康に育ち、サロペットとスニーカーを身につけた貴族たちは農作業とピラティスに汗を流している。私が徹底した予算削減と健康志向によって、国庫の無駄遣いは極限まで削られ、フランスの財政は黒字に転換した……はずだった。
だが、歴史という怪物は、私が見ていない死角で、静かに、そして確実に牙を研いでいたのだ。
その日の夜。
ジョゼフを寝かしつけ、執務室でカフェ・ド・ポムの売上表を確認していた私の元へ、ルイが青ざめた顔で駆け込んできた。
「アントワネット……! 人払いをしてくれ。今すぐにだ」
いつもは穏やかで、オタク特有の早口で笑う彼の声が、ひどく掠れ、震えていた。
ただ事ではない。私はすぐさまランバル夫人たちを下がらせ、重い樫の扉を閉めた。
「どうしたの、ルイ。そんなに顔色を悪くして」
ルイは何も言わず、小脇に抱えていた分厚い革張りの帳簿を、ドンッと机の上に放り出した。
その表紙には、王室の紋章ではなく、スイス銀行の刻印が押されている。
「……これは?」
「財務長官、ジャック・ネッケルの『裏の帳簿』だ。……彼が厳重な金庫に隠していたものを、僕の『鍵開けの技術』で、先ほどこじ開けて確認してきた」
ルイの言葉に、私の心臓がドクンと嫌な音を立てた。
ネッケル。平民出身でありながらその卓越した手腕を買われ、フランスの財政再建を託された天才銀行家。彼はつい先日、『国王への会計報告書』を公刊し、「フランスの財政は健全である」と世間にアピールして民衆から絶大な人気を得たばかりだった。
「ルイ、どういうこと? ネッケル長官の報告では、国庫は健全化して……」
「嘘だ」
ルイは血の気の引いた唇を噛み締め、帳簿のページを乱暴にめくった。
「公表された報告書は、都合のいい経常収支だけを切り取った『大衆向けの幻』に過ぎなかったんだ。……アントワネット、この数字を見てくれ。ここ数年、スイスやオランダの銀行から、年利十パーセントという法外な利子で、莫大な借金が繰り返されている」
そこに記されていた数字を見て、私は息を呑んだ。
数百万、数千万ではない。
「……に、二十億リーブル……!?」
それは、フランス国家の税収の何年分にも相当する、天文学的な数字だった。
私がお菓子を我慢し、ドレスを使い回し、カフェで地道に稼いだ金など、広大な砂漠に垂らした一滴の水にも満たないほどの、圧倒的な負債。
「どうして……こんな巨額のお金が消えているの!? 私はアメリカ独立戦争にも資金を出さず、ポテトパウダーとサロペットを送って済ませたはずよ!」
「……それが、答えです、王妃様」
背後から、氷のように冷たく、落ち着き払った声が響いた。
振り返ると、いつの間にか執務室の入り口に、財務長官ジャック・ネッケルが立っていた。彼は自身の秘密の帳簿を暴かれてなお、一切の動揺を見せず、冷徹な銀行家の目をして私たちを見据えていた。
「ネッケル……! 貴様、国王である僕を、そして国民を欺いたのか!」
ルイが激昂して机を叩く。だがネッケルは、恭しく、しかし冷ややかに一礼した。
「欺いたのではありません。『信用を維持した』のです。……王妃様。あなたがアメリカに送った芋や作業着は、確かに兵士の腹を満たしました。しかし、イギリス帝国の最新鋭の戦列艦を沈めることはできません。大砲を鋳造し、火薬を買い、艦隊を動かすには、『莫大な現金』が必要なのです」
私は絶句した。
「大国フランスが、ライバルであるイギリスを叩き潰す絶好の機会。ここで資金援助を渋れば、我が国の国際的威信は地に墜ちる。……王妃様の『おままごとのような節約』では、覇権国家の戦争は維持できないのですよ」
ネッケルの言葉が、鋭い刃となって私を切り裂いた。
「だからといって……借金で国を回すなんて! 利子だけで国庫が破綻するわ!」
「ええ。ですから、私は『見せかけの黒字報告書』を世間に公表し、民衆と銀行家を安心させることで、さらなる借金を可能にしたのです。これが政治であり、経済というものです」
彼は悪びれる様子もなく言い放った。
私たちがベルサイユの庭園で健康的に汗を流し、「これで国は救われた」と笑い合っていたその裏で。
ネッケルは、フランスという国の未来を担保に、底なしの借金地獄へと突き進んでいたのだ。
「……返済の目処は、あるの?」
私が絞り出すように問うと、ネッケルは残酷なまでに静かに首を振った。
「ありません。アメリカが勝利したとて、彼らに返済能力はない。……早晩、利子の支払いは行き詰まります。それを防ぐ道はただ一つ。特権階級である貴族から税を徴収するか、さもなくば……平民への税を、限界まで引き上げるかです」
「そんなことをすれば、暴動が起きるわ!」
「でしょうな。ですから、私は職を辞す準備をしております。泥を被るのは、絶対君主たる王室の役目ですから」
ネッケルが静かに一礼し、部屋を去っていく。
彼を引き留めることはできなかった。彼を罰したところで、二十億リーブルの借金が消えるわけではないのだ。
静まり返った執務室。
暖炉の火がパチパチと爆ぜる音だけが響く中、私はガタガタと震え出した。
「……アントワネット」
ルイが私を支えようと手を伸ばしたが、私はその場にへたり込み、自分の首を両手で強く、強く押さえた。
――ヒヤリ。
何年も忘れていた、あの冷たく、鋭利な鉄の感触。
私が必死に遠ざけたはずの『断頭台』の幻影が、かつてないほどの巨大な影となって、再び私の細い首筋にピタリと刃を当てていた。
(……バカだ、私はバカだ……!)
自分の手の届く範囲の「健康」と「節約」だけで、歴史を変えられたと錯覚していた。
だが、国家という巨大な船は、私の知らない暗い海域で、すでに修復不可能なほどの致命的な浸水を起こしていたのだ。
増税をすれば、これまで干し芋とベビーカーで心を通わせたパリの民衆が、再び怒りに狂い、パンを求めて暴徒と化す。
かといって貴族に課税しようとすれば、彼らは猛反発し、王室を孤立させるだろう。
どちらへ進んでも、行き着く先は「革命」と「処刑」の二文字だ。
「アントワネット、しっかりするんだ! 息をしろ!」
ルイが、私の肩を強く揺さぶった。彼の目にも絶望の色が濃く滲んでいる。だが、彼は逃げなかった。
「……借金が二十億あろうと、国が傾こうと、僕は君とジョゼフを守る。絶対にだ。僕たちで、この狂った数字と戦うんだ」
ルイの悲痛な、しかし力強い声に、私はハッとして顔を上げた。
そうだ。私には守るべき命がある。愛する夫と、ジョゼフと、そしてこの三年で共に笑い合った、フランスの人々がいる。
個人の努力の時代は終わった。
ここから先は、国家経済と歴史の奔流を相手にした、本当の死闘だ。
「……ええ、ルイ。泣いている暇なんてないわね」
私は震える足を叱咤し、机の角に手をついて立ち上がった。
その瞳から、怯えの色は消えていた。
「ネッケルが投げ出したこの最悪のババ、私たちが引いて、そして絶対に勝ち上がってみせるわ。……歴史の首根っこを、もう一度掴み直すのよ!」
マリー・アントワネット、23歳。
平和な育児ライフは突如として終わりを告げ、彼女はついに、国家存亡の危機という絶対的な絶望の淵へと立たされたのである。




