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マリーアントワネットに転生したけど処刑されたくないので、お菓子はほどほどに  作者: てっぺい
第三章

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第59話 蘇る断頭台の影

 ベルサイユの秋は、いつになく穏やかだった。

 ジョゼフは健康に育ち、サロペットとスニーカーを身につけた貴族たちは農作業とピラティスに汗を流している。私が徹底した予算削減と健康志向によって、国庫の無駄遣いは極限まで削られ、フランスの財政は黒字に転換した……はずだった。


 だが、歴史という怪物は、私が見ていない死角で、静かに、そして確実に牙を研いでいたのだ。


 その日の夜。

 ジョゼフを寝かしつけ、執務室でカフェ・ド・ポムの売上表を確認していた私の元へ、ルイが青ざめた顔で駆け込んできた。


「アントワネット……! 人払いをしてくれ。今すぐにだ」


 いつもは穏やかで、オタク特有の早口で笑う彼の声が、ひどくかすれ、震えていた。

 ただ事ではない。私はすぐさまランバル夫人たちを下がらせ、重いかしの扉を閉めた。


「どうしたの、ルイ。そんなに顔色を悪くして」


 ルイは何も言わず、小脇に抱えていた分厚い革張りの帳簿を、ドンッと机の上に放り出した。

 その表紙には、王室の紋章ではなく、スイス銀行の刻印が押されている。


「……これは?」


「財務長官、ジャック・ネッケルの『裏の帳簿』だ。……彼が厳重な金庫に隠していたものを、僕の『鍵開けの技術』で、先ほどこじ開けて確認してきた」


 ルイの言葉に、私の心臓がドクンと嫌な音を立てた。

 ネッケル。平民出身でありながらその卓越した手腕を買われ、フランスの財政再建を託された天才銀行家。彼はつい先日、『国王への会計報告書』を公刊し、「フランスの財政は健全である」と世間にアピールして民衆から絶大な人気を得たばかりだった。


「ルイ、どういうこと? ネッケル長官の報告では、国庫は健全化して……」


「嘘だ」


 ルイは血の気の引いた唇を噛み締め、帳簿のページを乱暴にめくった。


「公表された報告書は、都合のいい経常収支だけを切り取った『大衆向けの幻』に過ぎなかったんだ。……アントワネット、この数字を見てくれ。ここ数年、スイスやオランダの銀行から、年利十パーセントという法外な利子で、莫大な借金が繰り返されている」


 そこに記されていた数字を見て、私は息を呑んだ。

 数百万、数千万ではない。


「……に、二十億リーブル……!?」


 それは、フランス国家の税収の何年分にも相当する、天文学的な数字だった。

 私がお菓子を我慢し、ドレスを使い回し、カフェで地道に稼いだ金など、広大な砂漠に垂らした一滴の水にも満たないほどの、圧倒的な負債。


「どうして……こんな巨額のお金が消えているの!? 私はアメリカ独立戦争にも資金を出さず、ポテトパウダーとサロペットを送って済ませたはずよ!」


「……それが、答えです、王妃様」


 背後から、氷のように冷たく、落ち着き払った声が響いた。

 振り返ると、いつの間にか執務室の入り口に、財務長官ジャック・ネッケルが立っていた。彼は自身の秘密の帳簿を暴かれてなお、一切の動揺を見せず、冷徹な銀行家の目をして私たちを見据えていた。


「ネッケル……! 貴様、国王である僕を、そして国民を欺いたのか!」


 ルイが激昂げきこうして机を叩く。だがネッケルは、うやうやしく、しかし冷ややかに一礼した。


「欺いたのではありません。『信用を維持した』のです。……王妃様。あなたがアメリカに送った芋や作業着は、確かに兵士の腹を満たしました。しかし、イギリス帝国の最新鋭の戦列艦を沈めることはできません。大砲を鋳造ちゅうぞうし、火薬を買い、艦隊を動かすには、『莫大な現金』が必要なのです」


 私は絶句した。


「大国フランスが、ライバルであるイギリスを叩き潰す絶好の機会。ここで資金援助を渋れば、我が国の国際的威信は地にちる。……王妃様の『おままごとのような節約』では、覇権国家の戦争は維持できないのですよ」


 ネッケルの言葉が、鋭い刃となって私を切り裂いた。


「だからといって……借金で国を回すなんて! 利子だけで国庫が破綻するわ!」


「ええ。ですから、私は『見せかけの黒字報告書』を世間に公表し、民衆と銀行家を安心させることで、さらなる借金を可能にしたのです。これが政治であり、経済というものです」


 彼は悪びれる様子もなく言い放った。

 私たちがベルサイユの庭園で健康的に汗を流し、「これで国は救われた」と笑い合っていたその裏で。


 ネッケルは、フランスという国の未来を担保に、底なしの借金地獄へと突き進んでいたのだ。


「……返済の目処は、あるの?」


 私が絞り出すように問うと、ネッケルは残酷なまでに静かに首を振った。


「ありません。アメリカが勝利したとて、彼らに返済能力はない。……早晩そうばん、利子の支払いは行き詰まります。それを防ぐ道はただ一つ。特権階級である貴族から税を徴収するか、さもなくば……平民への税を、限界まで引き上げるかです」


「そんなことをすれば、暴動が起きるわ!」


「でしょうな。ですから、私は職を辞す準備をしております。泥を被るのは、絶対君主たる王室の役目ですから」


 ネッケルが静かに一礼し、部屋を去っていく。

 彼を引き留めることはできなかった。彼を罰したところで、二十億リーブルの借金が消えるわけではないのだ。


 静まり返った執務室。

 暖炉の火がパチパチとぜる音だけが響く中、私はガタガタと震え出した。


「……アントワネット」


 ルイが私を支えようと手を伸ばしたが、私はその場にへたり込み、自分の首を両手で強く、強く押さえた。


 ――ヒヤリ。


 何年も忘れていた、あの冷たく、鋭利な鉄の感触。

 私が必死に遠ざけたはずの『断頭台ギロチン』の幻影が、かつてないほどの巨大な影となって、再び私の細い首筋にピタリと刃を当てていた。


(……バカだ、私はバカだ……!)


 自分の手の届く範囲の「健康」と「節約」だけで、歴史を変えられたと錯覚していた。

 だが、国家という巨大な船は、私の知らない暗い海域で、すでに修復不可能なほどの致命的な浸水を起こしていたのだ。


 増税をすれば、これまで干し芋とベビーカーで心を通わせたパリの民衆が、再び怒りに狂い、パンを求めて暴徒と化す。

 かといって貴族に課税しようとすれば、彼らは猛反発し、王室を孤立させるだろう。


 どちらへ進んでも、行き着く先は「革命」と「処刑」の二文字だ。


「アントワネット、しっかりするんだ! 息をしろ!」


 ルイが、私の肩を強く揺さぶった。彼の目にも絶望の色が濃くにじんでいる。だが、彼は逃げなかった。


「……借金が二十億あろうと、国が傾こうと、僕は君とジョゼフを守る。絶対にだ。僕たちで、この狂った数字と戦うんだ」


 ルイの悲痛な、しかし力強い声に、私はハッとして顔を上げた。

 そうだ。私には守るべき命がある。愛する夫と、ジョゼフと、そしてこの三年で共に笑い合った、フランスの人々がいる。


 個人の努力の時代は終わった。

 ここから先は、国家経済と歴史の奔流ほんりゅうを相手にした、本当の死闘サバイバルだ。


「……ええ、ルイ。泣いている暇なんてないわね」


 私は震える足を叱咤しったし、机の角に手をついて立ち上がった。

 その瞳から、おびえの色は消えていた。


「ネッケルが投げ出したこの最悪のババ、私たちが引いて、そして絶対に勝ち上がってみせるわ。……歴史の首根っこを、もう一度掴み直すのよ!」


 マリー・アントワネット、23歳。

 平和な育児ライフは突如として終わりを告げ、彼女はついに、国家存亡の危機という絶対的な絶望のふちへと立たされたのである。

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