第58話 抜け毛クライシス
母様が嵐のようにベルサイユを去り、季節は夏から秋へと移り変わろうとしていた。
ふと窓の外を眺めると、秋の訪れにしては不気味な景色が広がっていた。
空はどんよりとした薄灰色に霞み、昼間でも太陽の光がどこか弱々しい。そして夕暮れ時になると、空が血のように赤黒く染まるのだ。
(……なんだか、今年の秋は変ね。空気も妙に冷え込むし、これじゃ畑のジャガイモたちの成長が鈍ってしまうわ。……まあ、今はそれどころじゃないんだけど!)
窓を閉め切り、鏡の前に座った私は、空の色よりも深刻な「自分自身の崩壊」に直面していた。
「……ひっ!!」
朝の身支度中。手にしたヘアブラシを見て、私は短い悲鳴を上げた。
ブラシの毛の間には、信じられないほどの量の私の金髪が、ごっそりと、それこそ「一束分」くらい絡みついていたのだ。
「お、王妃様!? いかがなさいました! もしや呪いの類では……!」
侍女のランバル夫人が血相を変えて飛んでくる。
「ち、違うのランバル。見て、この抜け毛……。手ぐしを通すだけで、ハラハラと落ちていくのよ! このままじゃ私、ギロチンで首が飛ぶ前に、頭部が更地になってしまうわ!」
(……思い出した! これが現代の育児雑誌で読んだ『産後脱毛』ね! ホルモンバランスの急変で、髪が一気に世代交代を拒否して去っていく恐怖の生理現象……!)
分かってはいても、ブラシに絡みつく毛根の死骸を見ると精神的ダメージは計り知れない。
私が涙目で頭を抱えていると、どこから聞きつけたのか、お抱えデザイナーのローズ・ベルタンが「待ってました!」とばかりに部屋に飛び込んできた。
「王妃様! お悩みは伺っております。ついに、ついに私の出番ですわね!」
ベルタンの背後の従者が、ズンッ! と重々しい音を立てて床に置いたのは――まるで巨大な特大ドーナツか、電子レンジサイズのベルベット製クッションの塊だった。
「髪が薄くなられたのなら、盛ればよろしいのです! さあ、この『高さ一メートルの巨大髪型用・羊毛土台』を復活させましょう! これをご自身の頭に固定し、上から地毛と付け毛を巻きつければ、スカスカの頭皮も完璧に隠れますわ!」
「ストップ!! 冗談じゃないわ!」
私は全力で拒否した。
「ただでさえ産後で肩こりが酷いのに、頭にこんな『米俵』みたいなクッション乗せたら頸椎が粉砕されるわ! 私は誤魔化したいんじゃなくて、自活する毛根を取り戻したいの!」
とはいえ、生理現象はどうしようもない。
せめて栄養でカバーするしかないと考えた私は、即座に厨房へ「海藻と大豆《タンパク質》」の特注メニューを命じた。
そしてその日の午後。
不気味に赤く染まった夕陽が差し込む中、プレイマットの上でお座りをして、木のおもちゃをカチカチと打ち鳴らしていたジョゼフが、ふと私の顔を見上げた。
「あーうー!」
ジョゼフはハイハイで私にすり寄ってくると、私のドレスの裾をギュッと掴んだ。
「あら、どうしたのジョゼフ? 抱っこかしら?」
私が身を屈めて抱き上げようとした、その瞬間だった。
ジョゼフは私のドレスの裾を足がかりに、グッと腰を浮かせた。
そして、バランスを取るために彼が力いっぱい掴んだのは――身を乗り出していた私の、見事に垂れ下がった「前髪」だったのだ。
「――ッ痛ぁぁぁぁぁっ!?」
ブチブチブチッ!!
「あーっ! きゃうっ!」
ジョゼフは、私の髪の毛を「命綱」にして、プルプルと震えながら見事にその場で「直立」の姿勢をとったのだ。
そう、彼の人生初の『つかまり立ち』である!
「た、立った……! ジョゼフが立ったわ! すごい、すごいわ私の息子……ッ、だけど痛い!! 髪が! 私の貴重な地毛たちがむしり取られるぅぅぅ!」
私は歓喜の涙と、物理的な激痛の涙を同時に流しながら、中腰のまま悲鳴を上げた。
ジョゼフは、かつてないほど高い視界を手に入れたことに大興奮し、私の前髪を「最強の取っ手」だと思ったのか、さらにギチギチと握りしめて「ニパッ!」とドヤ顔を決めている。
「痛い痛い痛い! ジョゼフ、お願い離して! ママの毛根寿命が尽きちゃう!」
私の悲鳴に、ベルタンがハッとして部屋の隅に放置されていた「巨大クッション土台」を見やった。
「殿下! こちらの方が掴み心地が良いですよ!」
ベルタンは、その巨大な羊毛の塊をズリズリと引きずってきて、ジョゼフの目の前にドンと置いた。フワフワのベルベット生地で覆われたその巨大な物体に、ジョゼフはピタリと動きを止めた。
「あう?」
ジョゼフは、私の髪の毛からパッと手を離し、目の前の巨大クッションに両手を伸ばした。
「たすかった……!」
私は崩れ落ち、ヒリヒリする頭皮を押さえた。
一方のジョゼフは、クッション土台にガシッと掴みかかった。
羊毛がぎっしり詰まったその土台は、髪に盛るためのものだけあって、かなりの弾力と重さがあり、底が平らで安定している。
「ふんぬっ……!」
ジョゼフは巨大クッションを支えにして、再び力強く立ち上がった。
大人の頭に乗せるにはバカげた重さの装飾品が、赤ん坊の身長にぴったりの、極めて安全で柔らかな「つかまり立ち専用台」として完璧に機能したのだ。
「あうー!!」
ジョゼフがクッションに寄りかかったまま、小さな足を一歩前に踏み出した。
重い土台が、宮殿の大理石の床をズズーッと滑る。
ズズーッ。ズズーッ。
「歩いた……! あの巨大土台を押して、ジョゼフが歩いているわ!」
私は目を見開いた。髪を盛るための『不燃ゴミ』寸前だったアイテムが、赤ん坊の歩行をサポートする絶妙な抵抗を生み出す「安全歩行器」へと昇華したのだ。
「ベルタン! これよ!! あのデカすぎるクッションは、頭に乗せるものじゃないわ! 赤ん坊の『歩行訓練クッション』として量産しなさい!」
「なるほど! 髪を盛るという古い常識を捨て、次世代の脚力を鍛えるクッションにするのですね!」
その後、私は産後のデリケートな頭皮を死守するため、ローズ・ベルタンに「これ、流行らせるから!」と半ば強引に作らせたシルク製のシックなターバンを被り、毎日ブルターニュ産の海藻をこれでもかと煮出した「旨味凝縮ミネラルスープ」を啜った。
磯の香りが鼻を抜け、昆布と出汁の相乗効果が五臓六腑に染み渡る。
(……ああ、美味しい。このスープの一滴一滴が、私の毛根に勇気と希望を与えていくわ。産後脱毛なんかに負けてたまるもんですか!)
ベルサイユ宮殿の夜は、今日も滋味深いスープの湯気と、ジョゼフの健やかな寝息で平和に包まれて更けていく。
……だが、そこへルイが、数冊の分厚い帳簿と一枚の集計表を抱え、眉間に深い溝を刻んだまま入ってきた。
「アントワネット、夜分にすまない。少し……僕の『目』が狂っていないか、確認してくれないだろうか」
いつもなら「新しい錠前の設計がね」と楽しそうに語るはずの夫が、今は油汚れ一つない手で、財務長官ネッケルから提出されたばかりの書類を震わせている。
「ルイ? どうしたの、そんなに難しい顔をして。私のターバン、やっぱり変かしら?」
私は冗談めかして笑い、特製スープを一口勧めたが、ルイの表情は微塵も動かなかった。
ルイは震える指先で、国家の最終残高が記された一行を指差した。
「計算上あるはずの金貨が、金庫を開けてみると……無いんだ。まるで、最初からそこに存在しなかったかのように、あるいは……大きなバケツの底に、僕たちには見えない『底なしの穴』が空いているような。埋めても、埋めても、どこか別の場所に流れ落ちている。そんな、薄気味悪い感覚が拭えないんだよ」
「……穴? 計算ミスじゃなくて?」
私はスープを飲む手を止め、夫の瞳を覗き込んだ。そこには、論理を愛する技術者だからこそ感じる、現実と数字が乖離していくことへの根源的な「恐怖」が宿っていた。
「僕の計算はおそらく正しい。……何かが、僕たちの知らない『巨大な歯車』を回して、この国の命を削り取っている気がしてならないんだ」
ルイはそう言って、重く閉ざされた窓の方へ視線を向けた。
外は秋の夜だというのに、妙に淀んだ霧が立ち込め、月の光さえも不気味に濁っている。冷たい風が、宮殿の重厚な石壁を撫でるように吹き抜けていった。
マリー・アントワネット、23歳。
この時、彼女はまだ気づいていなかった。
自分の髪が抜けることよりも、そしてルイの帳簿の端数が合わないことよりも、もっと根深く、もっと巨大な「歴史の修正力」という名の死神が、すぐ背後まで忍び寄っていることに。




