第57話 女帝、孫にデレる
ジョゼフがずり這いをマスターし、ベルサイユ宮殿の廊下をお掃除ロボットのように這い回り始めた、生後七ヶ月の頃。
ベルサイユの正門に、双頭の鷲の紋章を掲げた威風堂々たる馬車列が到着した。
オーストリア女帝、マリア・テレジアの再来訪である。
「お母様! ようこそベルサイユへ!」
出迎えた私を見て、馬車から降り立った母様は、以前の重苦しい威圧感とは打って変わった、驚くほど若々しく艶やかな笑みを浮かべた。
あの日、ベルサイユの地下サウナで「ととのい」を知り、私が送った大豆や芋の知識をウィーンに持ち帰って以来、母様はすっかり「健康と発酵の権化」と化していたのだ。
「マリー。あなたの送ってくれたピラティスの図解、ウィーンの宮廷でも大流行しているわよ。おかげで階段を上るのが嘘のように軽いわ」
母様はサロペットこそ着ていないものの、コルセットを緩め、動きやすさを重視した軽やかなドレスを纏っていた。その肌は、年齢を感じさせないほどツヤツヤに輝いている。
「でも、今日私が国務を放り出してまでここへ来た理由は、ただ一つよ。……さあ、見せなさい。ハプスブルクとブルボンの血を引く、フランスの未来を」
母様の声が一段低くなり、女帝としての鋭い眼光が走る。
周囲に控えていたフランスの貴族たちが、「やはり恐ろしいお方だ」と息を呑んで平伏した。
私は、ランバル夫人に抱かれてキョトンとしているジョゼフを受け取り、母様の前に進み出た。
「お母様。こちらが私の息子……あなたの孫の、ルイ・ジョゼフですわ」
母様は、ジョゼフの顔を食い入るように見つめた。
ジョゼフは、見慣れないドレスのおばあちゃんを前にしても全く物怖じせず、むしろ興味津々で手を伸ばした。
「あーうー! きゃうっ!」
そして、自慢のぷくぷくの頬を緩ませ、下の歯が二本だけ生えたお口で、とびきりの「ニパッ!」という笑顔を母様へ向けたのだ。
――ズッキュゥゥゥン!!!
母様の胸を、目に見えない巨大な矢が貫いた音がした。
「…………っ!!」
女帝の顔から、威厳、格式、外交戦略といったすべての「仮面」が音を立てて剥がれ落ちた。
「な、ななな……なんて可愛らしいの!? 天使!? いいえ、ハプスブルクの歴史上最高傑作の妖精さんね!! おばあちゃまですよ〜! あら〜っ、おててがクリームパンみたいでしゅね〜!!」
「「「えええええええっ!?」」」
あの鉄の女帝が、あろうことか裏声で赤ちゃん言葉を使い始めた!
フランスの貴族たちはもちろん、同行してきたウィーンの近衛兵たちすら、顎が床につくほど驚愕している。
「お母様……キャラが崩壊していますわよ」
「黙りなさいマリー! この至高の愛らしさの前で威厳など無用の長物よ! さあ、ジョゼフちゃん、おばあちゃまが抱っこしてあげまちゅからね〜!」
母様は私からジョゼフをひったくるように抱き上げると、そのマシュマロのようなほっぺに自分の頬をすりすりし始めた。
ジョゼフも満更ではないようで、母様の豪華な真珠のネックレスを掴んで「あー!」とよだれを垂らしながら喜んでいる。
「ああっ、ダメよジョゼフちゃん。よだれが……おばあちゃまのドレスに……もっと、もっと垂らしてもいいのよ!! むしろこのドレスはジョゼフちゃんのよだれ専用のハンカチとして歴史に残します!!」
(……ヤバい。母様が、完全に「孫を溺愛するばぁば」に成り下がっている……!)
一般的に、遠方から来るおばあちゃんといえば、孫を甘やかすために「大量のお菓子やおもちゃ」を持ってくるのがお決まりだ。
「さあ、ジョゼフちゃん! おばあちゃまから、とびきりのプレゼントがありまちゅよ!」
母様が合図をすると、従者が巨大な木箱をいくつも運び込んできた。
(……まさか、ザッハトルテの山!? 虫歯になっちゃう!)と私が身構えたその時。
「開けなさい!」
箱の中から現れたのは、黄金でも宝石でも、砂糖菓子でもなかった。
「これは……木?」
「そうよ! アルプスの奥深くで千年以上育った、抗菌作用抜群のアルペン・パイン材を、ウィーン宮廷の彫刻師に削らせた王家特製・オーガニック歯固めよ!!」
「は、歯固め!?」
「さらにこちらは、アルプスの高地で放牧された健康な牛の初乳を、私が直々に温度管理して発酵させた『ハプスブルク式・超絶活性ヨーグルト』! これでジョゼフちゃんの腸内フローラは鋼鉄の要塞となるわ!!」
私は目頭を押さえた。
母様の「孫への貢ぎ物」は、私の健康オタク路線を見事に引き継ぎ、さらに帝国の財力をつぎ込んだ「超・高級オーガニック知育グッズ&健康食品」へと進化していたのだ。
「素晴らしいわ、お母様。これならジョゼフも大喜び……」
「それだけじゃないわ! ジョゼフちゃんが這い回る時のために、オーストリア産の最高級メリノウールを手編みした、膝当て付きの『ロイヤル・ハイハイ用レギンス』も50着用意したわ! 毎日着替えさせなさい!」
完全にタガが外れている。
母様はその後も、ジョゼフを抱っこしたまま宮殿内を練り歩き、「どう? 私の孫よ! 可愛いでしょう? 天才でしょう?」と、すれ違う全員に自慢して回った。
その途中で、母様はふと立ち止まった。
彼女の視線の先には、家具の角という角に貼られた「茶色いゴムの塊(絶対安全コーナーガード)」と、部屋の中央に鎮座する「木組みのベビーサークル」があった。
「……マリー。これは一体、何のふざけた装飾なの? ベルサイユの美しいアンティーク家具に、こんな不格好なものを貼り付けるなんて」
母様の声が、一瞬だけ本来の厳しいトーンに戻った。
そこに、木屑まみれのルイが「あ、あの……」とおずおずと進み出てきた。
「お義母様。それは僕が作った『コーナーガード』です。ジョゼフが転んで頭を打たないように、衝撃を吸収するパラゴムを……」
「……あなたが? 国王自らが、家具の角にゴムを貼って回ったと?」
「は、はい。美観を損ねるのは承知ですが、僕にとっては美術品よりも、ジョゼフの頭の方が一億倍価値があるもので……」
ルイは怒られるのを覚悟して、ギュッと目をつぶった。
だが、母様はしばらく黙り込んだ後、ジョゼフを抱いたまま空いている方の手で、ルイの手をガシッと力強く握りしめた。
「……お義母様?」
「素晴らしいわ!!! ルイ、あなた、最高の父親じゃないの!!」
「ええっ!?」
「子供の安全を第一に考え、伝統や美観を躊躇なく投げ捨てる。その決断力と技術力……私、オーストリアの宮廷もすべてこの『ジョゼフ仕様』に改装することに決めたわ! ルイ、ウィーンの宮廷家具の角にも、至急このゴムを貼り付けに来なさい! 大至急よ!」
なんと、ルイのオーバーテクノロジーと親バカっぷりが、最強の女帝に大絶賛されたのだ。
「あ、ありがとうございます……! もちろんです、サークルの図面も後でお渡ししますよ!」
ルイも嬉しそうに鼻をすする。
その日の午後。
オーストリア女帝マリア・テレジアは、公務の打ち合わせをすべてキャンセルし、サロペットの上から豪華なガウンを羽織るという謎のスタイルで、ルイの作った高反発プレイマットの上にどっかりと座り込んでいた。
「ジョゼフちゃ〜ん! こっちよ〜! ハイハイ上手でちゅね〜!」
ジョゼフが、ズリズリと這い進んで母様の元へ辿り着くと、母様は破顔一笑し、ジョゼフを高く抱き上げ、またよだれまみれになって喜んでいる。
「マリー。私、ウィーンに帰りたくなくなっちゃったわ。このサークルの中に住もうかしら」
「ダメよお母様、帝国が傾くわよ!」
私は呆れながらも、この上なく平和な光景に心を温めていた。
かつては、政治の道具として私を送り出し、冷たい手紙でプレッシャーをかけてきていた母様。でも今は、ただの「孫を溺愛するおばあちゃん」として、心からの笑顔を見せている。
「……でも、ありがとう、マリー」
不意に、母様がジョゼフの小さな背中をトントンと叩きながら、優しい声で呟いた。
「あなたがこの子を、こんなにも元気に、健康に産み育ててくれた。私ね、こんな風に、自分の子供の成長を心から楽しんで見る余裕なんて……女帝として生きる日々の中には、一度もなかったのよ」
母様の瞳に、微かな涙が光った気がした。
十六人の子供を産み、戦争と政治に明け暮れた彼女にとって、ただ無心で赤ん坊と戯れるこの時間は、生涯で初めての「ご褒美」だったのかもしれない。
「お母様……」
「だから、この子は私が全ハプスブルクの威信にかけて甘やかすわ! 明日、この子の肖像画を50枚描かせて、ヨーロッパ中の王室に自慢の手紙を送りつけるわよ! 『我が孫のハイハイの速度を見よ!』ってね!」
「お母様、それは完全に迷惑メール……じゃなくて、迷惑外交よ!」
マリー・アントワネット、23歳。
最強のオーストリア女帝を「超絶オーガニック・デレデレばぁば」に完全クラスチェンジさせ、ヨーロッパの平和は「孫の可愛さ」によって強固に守られることになったのである。




