第56話 弾け飛んだサロペット
ジョゼフが離乳食をモリモリと食べ始め、生後半年を過ぎたある朝のこと。
ベルサイユ宮殿の王妃の寝室に、パァンッ! という乾いた破裂音が響き渡った。
「きゃあっ!? 何事ですか、銃撃!?」
侍女のランバル夫人が悲鳴を上げてしゃがみ込む。
だが、暗殺者が窓から押し入ったわけではない。弾け飛んだのは銃弾ではなく……私が穿こうとしていた、愛用のサロペットの真鍮製ボタンだった。
飛んでいったボタンは、壁に飾られた美しい風景画の額縁にカツンと当たり、虚しい音を立てて大理石の床を転がっていった。
「……嘘でしょ」
私は、お腹のあたりで無惨に口を開けたサロペットを見下ろし、鏡の前に立ち尽くした。
そこには、かつての引き締まったウエストラインは消え失せ、全体的に「ふっくら、もっちり」とした、見事なマシュマロ・ボディの王妃が映っていた。
(……やってしまった! これが噂に聞く『産後太り』!)
思い当たる節は山ほどある。
授乳期特有の猛烈な空腹感に任せて、私は最近、ジョゼフの離乳食の残りをアレンジした「絶品ポテト・アリゴ」や「バターたっぷりのマッシュポテト」を、夜な夜なバゲットに乗せてドカ食いしていたのだ。
「王妃様、お怪我はありませんか? ……まあ、サロペットが縮んでしまったのですね」
ランバル夫人が気遣わしげにフォローしてくれるが、キャンバス地が縮むわけがない。私のお肉が膨張したのだ。
「お気になさることはありませんわ。ふくよかなお体は、母親としての豊穣の証。さあ、久しぶりに『コルセット』をお持ちしましょう。あれでギュッと締め上げれば、また美しいくびれが……」
「ストップ!!! 冗談じゃないわ!!」
私は全力でコルセットを拒絶した。
「いい、ランバル。コルセットで外側から無理やり臓器を押し潰しても、根本的な解決にはならないの! それに、あんな拘束具をつけたら、いざという有事の時に全力ダッシュで逃げ切れないじゃないの!」
(ギロチン回避のための絶対条件は、強靭な肉体と機動力! ここで自堕落なボディを受け入れたら、私の生存戦略が崩壊するわ!)
私は即座に、ベルサイユの出産経験者女性たちをサロンに緊急招集した。
「お母様方! 出産という大仕事を終えた私たちの体は今、骨盤が緩み、腹筋が引き伸ばされた状態にあるわ。ここに重力とポテトのカロリーが加われば、お腹は際限なくたるんでいく!」
私の悲痛な叫びに、ふくよかな夫人たちがハッとして自分のお腹を見下ろした。
「では、どうすれば……? やはり、食事を抜くしか……」
「絶食はダメ! 授乳の質が落ちるし、筋肉が減ってさらに太りやすい体になるわ。私たちに必要なのは、外側からの締め付けじゃない。自分自身の筋肉で作るインナーマッスルよ!」
現代でいうところの「産後ピラティス」や「体幹トレーニング」の概念である。
だが、産後のダメージが残る関節に、いきなり激しいスクワットや腹筋運動は危険すぎる。寝転がったまま、安全かつ効果的にインナーマッスルに負荷をかける「特別な器具」が必要だ。
「……というわけなの。ルイ、お願い! 私のくびれと命を救って!」
私が地下工房に駆け込み、涙ながらに『滑車とバネを使った抵抗運動マシン』の概念図を説明すると、作業着姿のルイは目を輝かせた。
「……なるほど。体重の負荷をスプリングで調整しながら、木製の台座を滑らせて筋肉をコントロールするんだね。関節への負担を減らしつつ、深層筋を鍛える。……実に合理的で美しい機械力学だ!」
オタク王の創作意欲に、またしても火がついた。
わずか三日後。
ベルサイユ宮殿の一角に、ルイが徹夜で組み上げた巨大な木製のマシンが鎮座していた。
「完成したよ、アントワネット! 名付けて『スプリング式インナーマッスル・リフォーマー』だ!」
それはまさに、現代のピラティススタジオにある「リフォーマー」そのものだった。
滑らかなオーク材のレールの上を、革張りのキャリッジがスライドする。先端には、ルイが馬車のサスペンション技術を応用して作った、強度の異なる複数の鋼鉄製スプリングが取り付けられていた。手足を引っ掛けるための革製ループと滑車も完璧だ。
「すごすぎるわ、ルイ……! 18世紀にピラティスマシンを自作する国王なんて、絶対にあなただけよ!」
「ふふん。スプリングの張力計算には自信があるからね。さあ、試してみてくれ!」
私は早速、動きやすい特製ウェアに着替え、マシンの上に仰向けに寝転がった。
「ループに足をかけて……息を深く吸って、お腹を薄く引き込みながら……吐く息で、足を遠くへ押し出す!」
ギイィィ……。
滑車が滑らかに回り、スプリングの抵抗が私の下腹部と内腿にダイレクトに突き刺さる。
「……ッ! き、キツい……! でも、関節は全然痛くない! 筋肉の奥の奥だけが、確実に燃えているのがわかるわ……!」
私がプルプルと震えながら、美しく優雅な動きでマシンを操り始めると、見学していた貴族夫人たちから感嘆のどよめきが上がった。
「まあ……! まるで白鳥が湖面を滑るような、優雅なトレーニング!」
かくして、ベルサイユ宮殿に「ピラティス・スタジオ」が爆誕した。
ルイは急ピッチでリフォーマーを量産し、サロンには毎日、美しいフォームでスプリングと格闘する貴族女性たちの姿が溢れるようになった。
「息を吐いてー! 肋骨を閉める! ポテト・アリゴのカロリーを燃やし尽くすのよ!」
「イエス、マイ・マム! 腹横筋に効いておりますわーっ!」
産後太りという人類共通の悩みを前に、女性たちの連帯感はかつてないほど高まっていた。
重く苦しいコルセットを窓から投げ捨て、自らの筋肉で内臓を引き上げる。その健康的な美しさは、ベルサイユの新しい流行として、またしてもパリの街へと波及していくことになる。
数日後。
私のお腹のボタンが弾け飛んだあのサロペットは、見事にボタンが閉まるようになったどころか、以前よりもさらに引き締まった、美しいシックスパックの片鱗すら見せるようになっていた。
「アントワネット、君の体幹は今や、僕が作ったどんな強固な錠前よりもブレないね」
ルイが、私の引き締まったウエストを撫でながら、眩しいものでも見るように笑う。
「ええ。これでいつ革命の暴徒が押し寄せてきても、ジョゼフを抱き抱えたまま全力で走り切れるわ!」
(もちろん、そんな事態にならないように国政も頑張るけどね!)
マリー・アントワネット、23歳。
全母親の敵である「産後太り」を、夫のオーバーテクノロジーとピラティスで優雅に粉砕し、ベルサイユに「インナーマッスル至上主義」を打ち立てたのであった。




