第53話 大地を押し返す小さき勇気
マリーアントワネット23歳。
ジョゼフが生まれてから、三ヶ月が経とうとしていた。
そんなある日の午後。
ベビーベッドの中から、可愛らしい声が聞こえてきた。
「あー。……うー、きゃうっ!」
機嫌よく手足をバタバタさせながら、ジョゼフが宙に向かって何かをおしゃべりしているのだ。いわゆる「クーイング(喃語の始まり)」である。
「アントワネット!! 聞いたかい!? 今、ジョゼフが僕を見て『パパ』と言った!! 間違いない、歴史的瞬間だ!」
書類仕事の手を止め、猛ダッシュで駆け寄ってきたルイが、ベビーベッドの柵を握りしめて号泣している。
「落ち着きなさい、ルイ。生後三ヶ月で言葉を話すわけないでしょう。それに、今の口の形と発音のテンポ……どう聞いても『ポ、テ、ト』だったわ。彼にはすでに大地の恵みへのリスペクトが芽生えているのよ」
「いや、パパだ! ほら、もう一度言ってごらんジョゼフ! パ・パ!」
親バカ全開で顔を近づける国王の鼻を、ジョゼフは小さな手でガシッと掴み、「あうー!」と満面の笑みを見せた。
言葉の真偽はともかく、この「あーうー」という声はベルサイユの空気をこの上なく和ませた。……だが、同時に「ある深刻な問題」を引き起こすことになった。
「……王妃様。大変申し上げにくいのですが、殿下のお口から、謎の泉が湧き出しておりまして……」
ジョゼフを抱っこしていたポリニャック夫人が、困惑した顔で私を見た。
見れば、彼女が身に纏っていた最高級のシルクのドレスの胸元が、ぐっしょりと濡れて変色しているではないか。
そう、クーイングの始まりとともにやってくる、赤ちゃんの風物詩――「よだれの大洪水」である。
ジョゼフは自分のふっくらとした拳を口に突っ込み、「チュパチュパ」と音を立てて吸いながら、とめどなくよだれを製造していた。抱っこするたびに、私のサロペットの肩口も、ルイのシャツも、ことごとくベチャベチャになるのだ。
「ひっ! もしや殿下は、ご病気では!? 水が止まらないなど、呪いに違いありませんわ!」
青ざめる侍女たちを、私は鼻で笑い飛ばした。
「呪いなわけないでしょう! これは消化器官が順調に発達して、母乳以外の食べ物を受け入れる準備を始めている証拠よ! ジョゼフの胃腸が最強だという証明なんだから、喜ばしいことだわ!」
とはいえ、いくら健康の証でも、一日に何度も服を着替えるのは非効率すぎる。
私はすぐさま、お抱えデザイナーのローズ・ベルタンを自室に召喚した。
「いい、ベルタン。今日から赤ん坊の首元に、よだれを受け止めるための『小さなエプロン』をつけるわ。現代……じゃなくて、私が考えた最先端のアイテム、名付けて『スタイ』よ!」
「スタイ……ですか。首回りを覆う丸い布。なるほど、そこに最高級のレースや、ジャガイモの花の刺繍をあしらえば、立派なファッションの一部になりますわね!」
ベルタンがデザイン画をさらさらと描き始めたその時、横から「待った!」と声がかかった。
「アントワネット、普通の布やレースだけでは、大量のよだれが下の服まで染み通ってしまう。赤ん坊の胸元が冷えれば、風邪の原因になるぞ」
現れたのは、最近すっかり「育児工学の権威」と化した夫、ルイだ。
「間に、極薄に削った天然のパラゴムと、蜜蝋を染み込ませた層を挟み込むんだ。そうすれば、表面はよだれをしっかり吸収しつつ、裏側へは絶対に水分を通さない『完全防水構造』になる!」
(……出たわね、オーバーテクノロジー! 18世紀に防水スタイ爆誕よ!)
数日後。
ジョゼフの首元には、ルイとベルタンの合作による『完全防水フリフリスタイ』が燦然と輝いていた。どんなに拳をしゃぶろうが、「あーうー」と叫んでよだれを飛ばそうが、下の服はサラサラのままだ。
「素晴らしいわ……! これでよだれ問題は完全解決ね!」
ベルサイユの貴族女性たちの間で、この「スタイ」は瞬く間に大流行した。赤ん坊への実用性はもちろん、「うちの愛犬のよだれ対策にも!」と、謎の広がりを見せ始めたのだ。
そして、よだれ問題をクリアしたジョゼフには、次なる「大きな成長の壁」が待っていた。
「アントワネット、見てくれ。ジョゼフを縦に抱っこしても、首が全くグラグラしなくなったよ!」
ルイがジョゼフの脇を支えて立たせると、ジョゼフはキョロキョロと周囲を見回し、自らの意思でしっかりと頭を支えていた。
「ついに『首すわり』が完了したのね! さすが私の息子、日々の母乳で筋肉の基礎が完璧に出来上がっているわ!」
私はガッツポーズをした。
首がすわったということは、アレができる。現代の育児において推奨される、赤ちゃんの運動発達を促すための超重要メソッドだ。
「さあ、ジョゼフ! いよいよあなたの人生初の『筋トレ』……『うつぶせ練習』の始まりよ!」
私が宣言すると、ルイはハッとして、すぐに宮殿の地下工房へと走った。
「待ってくれアントワネット! うつぶせにするなら、床が硬すぎては危険だし、羽毛布団のように沈み込みすぎては窒息の恐れがある! 僕に考えがあるんだ!」
数時間後、ルイが息を切らして持ってきたのは、縦横一メートルほどの四角いマットだった。
「南米のゴムを何層にも重ね、その上に極上の綿を敷き詰めた『特製高反発プレイマット』だ! これならジョゼフが顔を押し付けても適度に反発し、筋肉にかかる負荷を最適化してくれるはずだ!」
(本当にこのパパ、子供のこととなると仕事が早すぎるわ!)
私たちは、その完璧な弾力を持つマットの上に、ジョゼフをゆっくりとうつぶせに寝かせた。
「んー……っ?」
突然視界が変わったジョゼフは、最初は不思議そうに手足をバタつかせていた。だが、目の前にお気に入りのおもちゃ(ルイ特製の木彫りのジャガイモ)を置くと、それを真剣な目で見つめ始めた。
「さあ、ジョゼフ。重力に逆らうのよ! そのまま僧帽筋と、脊柱起立筋を意識して!」
私がサロペット姿で床に這いつくばり、熱血指導を始める。
「がんばれジョゼフ! 君の体幹の強さを証明するんだ! ほら、パパはここだよ!」
ルイも反対側から、ガラガラを鳴らしながら必死に名前を呼ぶ。
「うー……っ、あーっ!」
ジョゼフは小さな眉間にシワを寄せ、プルプルと震えながら、小さな両腕で高反発マットをグッと押し返した。
そして――。
重たい頭が、ゆっくりと、しかし力強く持ち上がった。
ジョゼフは首を限界までそらせ、私たちの顔を真正面から見据えると、自慢げな、これ以上ないほどの「ドヤ顔」をキメたのだ。
「「きゃあぁぁぁぁぁっ!!(うおおおおおっ!!)」」
私とルイの歓声が、ベルサイユ宮殿の天井を突き破らんばかりに響き渡った。
「立った! ジョゼフの首が立ったわ、ルイ!! 見てあの完璧な背中のアーチ! なんて美しいフォームなの!!」
「ああ、素晴らしい筋力だ! 歴史上、これほど力強く頭を持ち上げた生後三ヶ月の赤ん坊はいない! フランスの未来は安泰だーっ!」
ジョゼフはドヤ顔のまま「あうー!」と叫び、その反動で口から滝のようなよだれをマットにこぼした。だが、高反発マットの表面には抜かりなく防水スタイと同じ蜜蝋コーティングが施されており、サッと拭き取るだけで無傷である。
私たちは床に座り込み、うつぶせで笑うジョゼフを挟んで、熱く抱き合い、そして泣いた。
ギロチン回避のために始めたサバイバル。
それがいつしか、愛する家族の小さな成長に本気で一喜一憂し、全力で命を育むための喜びに変わっている。
マリー・アントワネット、23歳。
よだれの海と筋トレの汗にまみれたベルサイユの日常は、どんな豪華な舞踏会よりも、眩しく輝いていたのである。




