第52話 ベルサイユ・快眠ララバイ
ジョゼフが健やかに成長するにつれ、私たち夫婦に「全人類共通の試練」が訪れた。
それは――魔の「夜泣き」である。
(前世のSNSで『ネントレ(ねんねトレーニング)失敗』『深夜の絶望』と頻繁にトレンド入りする、あの恐ろしいイベントがついにベルサイユにも……!)
「……う、うぎゃあぁぁぁん!!」
午前二時。ベルサイユの静寂を切り裂くジョゼフの凄まじい咆哮に、私はガバッとベッドから跳ね起きた。
隣では、連日の公務と「知育玩具」の製作で疲れ切っていたルイが、眼鏡を斜めに引っかけたまま虚空を見つめ、「……侵入者か? 王室の最高機密シリンダー錠がピッキングされたのか……?」と完全に寝ぼけたうわ言を漏らしている。
「ルイ、起きて! 侵入者じゃないわ、私たちの天使が『深夜の独唱会』を始めたのよ!」
私はジョゼフを抱き上げ、慣れた手つきで背中をさすりながら部屋を歩き回った。おむつは替えたばかり、お腹も満たされている。となれば、これは完全に精神的なスイッチが入ってしまった状態だ。
(……現代なら『ホワイトノイズを流す』とか『深夜のドライブに連れ出して車の振動で寝かせる』っていう最強の裏技があるのに。十八世紀のベルサイユで、毎晩馬車を走らせるわけにはいかないし……!)
翌朝。目の下に立派なクマを作った私を見て、ランバル夫人が悲鳴を上げた。
「王妃様! 何というお痛ましいお顔……! 殿下の夜泣きへの対応など、乳母たちに任せておけばよろしいのです。王妃様はどうかゆっくりお休みになって……」
「いいえ、ランバル。睡眠不足は美肌の最大の敵であり、ギロチンを回避する思考力を鈍らせる『サバイバルの大敵』よ! 私は絶対に諦めないわ。……ルイ! 昨夜のジョゼフの泣き声の周波数、分析できたかしら?」
目の下に私と同じくらい濃いクマを作ったフランス国王は、徹夜で書き上げた複雑な数式と設計図を机にドンッと広げた。
「ああ。ジョゼフの声は、特定の不規則なリズムで高揚している。……アントワネット、君が言っていた『胎内音』と『馬車の心地よい揺れ』の理論。これを僕の時計技師としての誇りに懸けて、人工的に完全再現してみせる」
そこから三日間、ルイは地下工房に引きこもり、ハンマーの音と歯車の軋む音を響かせ続けた。
そして完成したのが、もはや「揺りかご」の概念を超えた巨大な精密機械――『超精密ぜんまい式快眠スウィング三号機(ホワイトノイズ機能付き)』であった。
「……ルイ、これは一体……?」
「動力は、この巨大な振り子と重りだ。複雑な歯車と脱進機の組み合わせによって、君の脈拍を測って弾き出した『一分間にちょうど六十回』のテンポで、正確かつ滑らかに上下左右へ微振動する。……そしてここからが僕の自信作なんだが、歯車が擦れ合う微かな雑音を意図的に調律し、まるで森の木々を揺らす風のような『心地よく不規則な擦れ音』を発生させているんだ! 」
(……それってつまり、BPM60のテンポに『1/fゆらぎのホワイトノイズ』機能まで完全搭載してるってこと!? 18世紀の技師のスキル、完全に時代をバグらせてるわ!!)
「さあ、ジョゼフ。お父様のエンジニアリングの真髄を味わいなさい」
その夜。再び火がついたように泣き出したジョゼフを三号機に乗せ、重りのロックを解除した。
――シュコォォン……カチ、カチ……。
ポロロ〜ン……。
規則正しい重低音と、絶妙な微振動。そして優しすぎる旋律。
泣き叫んでいたジョゼフは、一瞬「えっ?」と驚いたように目を見開いたが、次の瞬間にはトロンとまぶたを落とし、「……すぴー」と、嘘のように深い眠りの底へと落ちていった。
「成功だ……! どんな複雑な錠前の噛み合わせよりも正確な、『眠りの黄金比』をついに見つけ出したぞ!」
ルイと私は、寝室の片隅で声を出さずに、固くハイタッチとガッツポーズを決めた。
この「快眠マシン」の圧倒的な効果は、瞬く間に宮廷中に広まった。
「王妃様は、赤ん坊を一瞬で眠らせる『魔法の揺りかご』を発明されたらしいわ!」
「あの揺りかごの音とリズム……そばで聞いているだけで、大人まで強烈にととのってしまうとか……」
噂は本当だった。
ジョゼフを寝かしつけた後、三号機の奏でるホワイトノイズとポテトの子守唄を聞きながら、ルイと私も泥のように眠りに落ちたのだ。
翌朝、私たちはこれまでにないほどの深い睡眠を貪り、まさに極上の新じゃがの如き、瑞々しい活力を持って目覚めることができたのである。
マリー・アントワネット、22歳。
彼女は、育児における最大の難問を「夫の異常な技術力」と「現代の胎内音理論」で見事に解決し、ベルサイユに史上最も静かで、最も健康的な夜をもたらしたのであった。




