第49話 ベルサイユ沐浴革命
生後一ヶ月。ジョゼフは順調に体重を増やし、手足をバタバタと元気に動かすようになってきた。
哺乳瓶での授乳も軌道に乗り、平和な育児ライフを満喫していたある日のこと。
私がジョゼフの部屋へ向かうと、年配の侍女と宮廷医師が、何やら怪しげな準備をしていた。
銀のたらいになみなみと注がれた「強い匂いを放つ液体」と、分厚い化粧箱に入った「真っ白な粉」である。
「……ちょっと待って。あなたたち、それでジョゼフに何をするつもり?」
「お見えになりましたか、王妃様。本日は殿下の『お清め』の日にございます。この極上のワインと蒸留酒で殿下のお身体を拭き上げ、悪い空気から守るための白粉をたっぷりと……」
「ストップ!!! 全力でストップよ!!!」
私は顔面蒼白になり、ジョゼフを侍女からひったくるように抱き上げた。
(出たわね、18世紀の狂った衛生観念! 水浴びは病気を引き起こすと信じられていたからって、赤ん坊をアルコールで拭いて、あろうことか『鉛入り』の白粉をはたこうとするなんて!)
「王妃様!? おやめください、水など使えば殿下が病にかかってしまいます! 高貴な方のお肌は、ワインで引き締め、粉で守るのが伝統……」
「生後一ヶ月の赤ん坊の毛穴を引き締めてどうするのよ! アルコールなんて塗ったら、デリケートな肌が乾燥してかぶれちゃうわ! それに、その白粉には毒が入っているの。そんなものを吸い込んだら、脳の発達に悪影響が出るわ!」
私の鬼の形相に、医師たちはポカンと口を開けた。
現代知識を持つ私にとって、赤ちゃんの清潔を保つ基本は「沐浴」、つまり「適温のお湯で優しく洗うこと」一択である。。
「いいこと、今日からワイン拭きは全面禁止! ジョゼフの体は、温かいお湯と、オリーブオイルで作った刺激の少ない石鹸で洗うの! ……ルイ! 出番よ!」
私が声を張り上げると、隣室で待機していたルイが「待ってました」とばかりに、台車を押して登場した。
「アントワネット、ついにこいつの出番だね。君の要望通り、最高の水密性と保温性を兼ね備えた『ベビーバス』を持ってきたよ!」
台車の上に乗っていたのは、美しい木目を持つオーク材で作られた、赤ん坊サイズの楕円形の湯船だった。
「ただの桶じゃないぞ。赤ん坊の背中のカーブに完璧にフィットするよう、内側に『傾斜付きの背もたれ』を削り出しているんだ。これなら、君が片手でジョゼフを支えながらでも、安全に洗ってあげられる。そして底には、僕が設計した真鍮製の『ワンタッチ水抜きバルブ』が付いているから、重い桶をひっくり返す必要もない!」
(……深夜のテレビショッピングか!! でも18世紀にワンタッチ排水バルブ付きのエルゴノミクスお風呂なんて、完全に現代のプラスチック製ベビーバスを超えているわ!)
私たちはすぐさま適温(人肌より少し温かい程度)のお湯を用意し、沐浴バスに注いだ。
最初は「お湯に浸けるなんて……」と震えていた侍女たちだったが、次の瞬間、その目を疑った。
「あうー、きゃうっ!」
お湯に浸かったジョゼフが、怯えるどころか、とろけるような笑顔で手足をパシャパシャと動かし始めたのだ。羊水の中にいた頃を思い出したのか、その表情は至福そのもの。
「ほら、見て。気持ちいいのよ。汚れはお湯で優しく流すのが一番なんだから」
私は手作りの無添加石鹸でジョゼフの首のシワや、むちむちの太ももの間を丁寧に洗い、ルイが用意してくれた極上の柔らかい綿布でそっと拭き上げた。
「仕上げはこれよ。鉛の白粉の代わりに、ベルサイユ菜園でとれたジャガイモのデンプンを精製した『特製・オーガニックベビーパウダー』!」
パフパフと、真っ白なポテトパウダーをはたいてあげると、ジョゼフのお肌はまさに、極上のマシュマロのように吸い付くようなモチモチ肌に仕上がった。
「……なんてことだ。ワインの饐えた匂いも、香水のきつい匂いもしない。……これが、赤ん坊の本来の、ミルクのような甘い香り……」
ルイがジョゼフの首筋に鼻を近づけ、感動のあまり涙ぐんでいる。
侍女たちも、あまりのジョゼフの可愛らしさと肌の美しさに、完全にノックアウトされていた。
数日後。
ベルサイユの貴族たちの間で、「王妃様の言う通り、お湯で洗ってポテトの粉を叩くと、赤ん坊が夜泣きせずによく眠るらしい(※血行が良くなるため)」という噂が爆発的に広まった。
こうして、フランス王室から「赤ん坊のワイン漬け」という恐ろしい悪習が消え去り、夕方になると宮殿のあちこちで、ベビーバスの「ワンタッチ水抜きバルブ」がカシャッと開く心地よい音が響くようになったのである。
マリー・アントワネット、22歳。
香水とアルコールで誤魔化す18世紀の不潔な常識を「温かいお湯」で洗い流し、ベルサイユに「赤ちゃんのいい匂い」を定着させたのだった。




