第48話 ベルサイユ・ミルク・レボリューション
ジョゼフが生まれて数日後。
ベルサイユ宮殿の王妃の寝室には、赤ん坊の平和な寝息とともに、ある「重大な決断」によるヒリヒリとした緊張感が漂っていた。
「アントワネット、本当に君が……自ら『それ』を行うつもりなのかい?」
ルイが、驚きと不安の混じった表情で私を見つめていた。
当時のフランス王室において、高貴な身分の女性、とりわけ王妃が自ら赤ん坊に乳を与えるなど、前代未聞の「はしたない不作法」とされていたからだ。
王の子は、健康な農婦などの「乳母」に預けられるのが絶対の常識。
だが、現代知識を持つ私は知っている。他人の乳母に預けることによる感染症のリスク、不衛生な環境、そして何より、初乳に含まれる計り知れない「免疫学的価値」が、どれほど赤ん坊の生存率を左右するかを。
「ええ、ルイ。私はこの子の健康を、他人の体質や見知らぬ環境に委ねるつもりは一切ないわ。……それに、見て」
私は、ランバル夫人が持ってきた『特製・温活ポタージュ』を飲み干した。ハプスブルク家秘伝の乳酸菌と、ベルサイユ菜園の根菜をじっくり煮込んだスープだ。
「母様から届いた例の『菌』が、私の体内で最高の栄養素に変換されているのを感じるの。今の私の血液はかつてないほどサラサラで、栄養に満ち溢れているわ。これをジョゼフに与えない手はないでしょう?」
私の気迫に、ルイはゴクリと息を呑んで頷いた。
だが、問題は「もし母乳が足りなくなった時」や「搾乳して保存する時」の備えだ。
私はルイの腕を引き、宮殿の地下にある彼の秘密工房へと連れ出した。
「ルイ、あなたに作ってほしいのはこれよ。……名付けて、世界初の『完全衛生哺乳瓶』!」
私は机に設計図を広げた。
当時の授乳道具といえば、洗いにくい動物の角や、不潔な革袋が主流であり、まさに細菌の温床だった。
私が描いたのは、熱湯消毒が可能な「耐熱ガラスのボトル」に、天然ゴムを精製した「柔らかな吸い口」、そして内部の汚れを徹底的に落とすための「専用洗浄ブラシ」の図面だ。
「……なるほど。構造自体はシンプルだが、この『毎日グツグツと煮沸消毒する』という過酷な熱膨張に耐えうるガラスの配合と、精度が必要なんだね。……面白い」
ルイの目の色が変わった。
彼は図面を食い入るように見つめ、腕まくりをした。
「ジョゼフの口に直接触れるものだ。僕がミクロン単位の誤差も許さず、最高の耐久性と安全性を誇るボトルに仕上げてみせるよ」
ルイは即座に旋盤とガラス炉に向かった。
フランス国王が「育児工学」という新たなジャンルに完全に目醒めた瞬間であった。
そして数日後。
ジョゼフが空腹で、火がついたように泣き出した時のこと。私は、ルイが徹夜で完成させたばかりの「黄金の哺乳瓶」を手にした。
王家の紋章が金彩で施された分厚い透明なガラス瓶の中には、私の母乳を搾乳し、適温に湯煎したものが満たされている。
「さあ、ジョゼフ。これがあなたの『真の戴冠式』よ。大地の恵みと、お父様の技術の結晶をお飲みなさい」
ジョゼフの小さな口が、精巧に作られたゴムの吸い口を力強く捉えた。
――ごくん、ごくん。
迷いのない、生命力に溢れた力強い音が部屋に響く。
「……飲んだ! 飲んでいるわ、ルイ!」
「ああ! 吸い口に仕込んだ『微細・逆流防止弁』が完璧に作動している! これなら余計な空気を飲み込んで吐き戻すこともないぞ。ジョゼフ、素晴らしい飲みっぷりだ!」
赤ん坊に授乳しながら歓喜の涙を流す王妃と、哺乳瓶の弁の動きに顔を近づけて熱弁を振るう国王。
扉の隙間から陰で覗いていた保守派の侍女たちは、「王室の伝統が……」「陛下がゴムの弁を讃えておられる……」と次々に腰を抜かしかけていた。
ベルサイユの古き悪き伝統が、またしても音を立てて崩れ去った瞬間だった。
しかし、その「型破りな育児」の効果は劇的だった。
ジョゼフは一度も腹を壊すことなく、丸々と健やかに育ち、その肌はまさに「高級ポテトのような白さとハリ」を持つに至ったのだ。
この奇跡は、すぐに噂となってパリの街へと広がった。
「王妃様は、赤ん坊を『魔法の透き通った瓶』で育てているらしいぞ」
「不潔な乳母を雇うより、まずは道具を熱湯で煮沸せよ……それが王妃様の教えだ!」
「王妃様に倣って、自分のお乳で育てるのが最先端の流行だそうだ!」
マリー・アントワネット、22歳。
彼女は自らの胸の覚悟と、夫のオタク的技術力を掛け合わせ、フランスの乳幼児死亡率という歴史的な壁に、見事な改善の風穴を開けたのである。




