番外編③ ベルサイユ・スニーカー
私がベルサイユの土を耕し、インディゴブルーのサロペットがすっかり宮廷の最先端トレンドとして定着した頃。貴族たちは毎日泥まみれになって健康的な汗を流し、宮殿にはかつてないほどの活気が満ち溢れていた。
だが、私には一つ、どうしても我慢できない、いや、物理的に耐え難い重大な問題があった。
「……痛い。痛すぎる。右足の小指が、そして左足の踵が、完全に悲鳴を上げているわ……!」
私は私室の長椅子に倒れ込み、悲痛な呻き声を上げた。
そう、問題は「足元」である。服はサロペットで劇的に動きやすくなったというのに、当時の靴といえば、硬い仔牛の革や木でできた窮屈な木型に、豪奢なシルクを張り付けただけの代物。おまけに男女問わず、無駄に高いヒールがついているのが当たり前だった。
前世の現代日本で、ヒールを履いてテーマパークを一日中歩き回った時の、あの足の裏が砕け散りそうな絶望的な痛みを想像してほしい。それが毎日、朝から晩まで続いている状態なのだ。
優雅にサロンを歩くだけならまだしも、畑仕事でぬかるんだ土を踏ん張ったり、ましてや宮殿の広い庭園を全力で走ったりするには、この時代の靴は全く、一ミリも向いていない。
(ダメよ! いくらサウナで代謝を上げ、スクワットで体幹を鍛え上げたとしても、靴のせいで足がもつれて転んだら、暴徒から逃げ切れないじゃない! ギロチン回避の最終奥義にして最大の防衛策は『全力ダッシュで安全圏まで逃亡すること』なのに!)
前世みたいに、遅刻ギリギリで駅の階段を一段飛ばしで爆走できる、あの圧倒的な機動力が必須なのだ。
危機感を覚えた私は、即座にベルサイユが誇る二大クリエイターを自室に緊急召集した。お抱えの天才デザイナーであるローズ・ベルタンと、機械と発明をこよなく愛するオタク夫、ルイ十六世である。
「いいこと、二人とも。よく聞いて。今のフランスに必要なのは、足の甲を締め付ける華美な装飾の革靴でも、泥で汚れるシルクのミュールでもないわ。羽のように軽くて、柔らかくて、地面の衝撃を吸収し、泥の上でも大理石の上でも絶対に滑らずに『どこまでも走れる靴』よ!」
(そう、前世で言うところのキャンバス・スニーカー! コン◯ースのオールスターみたいな、あの普遍的で最強のフォルムを持った運動靴よ!)
私が現代日本の「スニーカー」の概念を身振り手振りで熱弁すると、ベルタンは露骨に眉をひそめ、持っていたレースの扇子でパタパタと顔をあおいだ。
「走る靴、ですか? しかし王妃様、布製の靴など、貧しい平民や農婦が履くものです。王侯貴族の足元は、最高品質の革と、宝石をちりばめたバックルで飾られてこそ威厳が保たれるというもの。いくらサロペットが流行ったとはいえ、足元まで布切れにしてしまっては、フランスのモードが死んでしまいます!」
「美しさは機能性の中にこそ宿るのよ、ベルタン! 窮屈な靴で顔をしかめて歩く貴婦人と、布の靴で風のように軽やかに駆け抜ける女性、どちらが真に美しいかしら? 丈夫で通気性の良い『帆布』を使いなさい。足の甲を何本もの紐で縛って、足と靴を完璧に一体化させるのよ。デザインはあなたの天才的なセンスに任せるわ、とびきり可愛く、そしてスポーティにして!」
私の「天才的センス」という言葉に、ベルタンのデザイナーとしてのプライドと情熱がゆっくりと火を吹き始めた。
「……なるほど。単なる平民の布靴ではない、計算し尽くされた機能美。丈夫な生成りのキャンバス地に、王室を象徴する百合の紋章や、王妃様が愛するジャガイモの花の刺繍をワンポイントであしらう……。そして靴紐の先端には、密かに純金の金具を……。これぞ究極の『スポーティ・エレガント』! 見えてきましたわ、新しいモードの足音が!」
一方、ベルタンがデザイン画を猛スピードで描き始めている横で、ウンウンと腕を組んで深く唸っていたのはルイだ。彼はすでに、頭の中で複雑な物理計算を始めている。
「アントワネット、足を包み込む布の靴体はそれでいいとして、最大の技術的課題は『靴底』にある。硬い革や木では、君が走った時の地面からの反発による衝撃を吸収できず、いずれ膝や腰の軟骨を痛めてしまう。君の健康な関節を守るためには、もっと反発力と柔軟性を兼ね備えた、未知の新素材が必要だ」
「何か心当たりがあるの、ルイ? クッション性があって、滑らない素材なんて……」
「ああ。実は最近、南米大陸の探検家から植物学研究所に、奇妙な素材が持ち込まれているんだ。『パラゴムノキ』の樹液を煮詰めて固めた、弾力のある黒黒とした塊さ。本来は鉛筆の文字をこすって消すくらいにしか使われていないらしいんだが……これを熱と硫黄で化学反応させれば、強力な弾力と耐久性を持つ素材に変化するはずだ!」
ルイは、自らの閃きに興奮して早口になっていた。
「そのゴムを靴底に熱圧着し、さらに内側に薄いコルクの層と、羊毛のフェルトを挟み込む。そうすれば、人間の体重移動を優しくサポートし、足のアーチを完璧に支える、疲れを知らない画期的な靴底が完成する! すぐに工房に戻って、熱処理炉の温度調整にとりかかるよ!」
彼は国王としての真摯な眼差しで力強く頷き、靴底開発という新たなオタク的探求へと飛び出していった。
それから数週間後──。
ベルサイユ宮殿の鏡の間に、厳かに、そして恭しく一つの木箱が運び込まれた。
「完成いたしました、王妃様。ルイ陛下と私の技術の結晶……名付けて『ベルサイユ・スニーカー(プロトタイプ第一号)』でございます!」
ベルタンがうやうやしく箱の蓋を開ける。
そこから現れたのは、生成りの美しいキャンバス地に、ネイビーブルーの爽やかなラインが入り、靴底には波状の深い溝(泥や濡れた大理石でも絶対に滑らないようにするための、ルイの異常なまでのこだわり)が刻まれた、現代のキャンバススニーカーそのものであった。
私は震える手でそれを手に取り、足を入れた。
そして、長く丈夫なコットン製の靴紐を、足首に向かってキュッ、キュッとリズミカルに結び上げる。
「……っ!! 軽い! なにこれ、足に羽が生えたみたい!」
立ち上がって軽く足踏みをしてみる。
キュッ、という小気味良い音とともに、パラゴムとコルクの特製ソールが「フワッ」と私の体重を優しく受け止め、次の一歩を押し出すような反発力を返してくる。これまでの、足の骨が砕けそうになる硬い革靴とは、全く次元の違う圧倒的な快適さだ。
「よし……ちょっと、そこの庭園まで走ってくるわ!!」
私は、サロペットの裾を翻し、宮殿の長い廊下から広大な庭園へと向かって猛ダッシュした。
「お、王妃様!? 廊下を全力疾走なさってはいけません! はしたのうございます!」というランバル夫人の悲痛な悲鳴を背に受けて、私は風になった。
(すごい! すごいわ! 土の上を強く蹴っても、波状のゴム底が地面をガッチリと掴んで全く滑らない! 足の裏も痛くないし、何より足首のホールド感が完璧よ! 前世の体育祭の50メートル走の時より、遥かに速く走れてる気がする!)
私が庭園の芝生を砂埃を上げて爆走する姿を見た貴族や近衛兵たちは、そのあまりのスピードと足取りの軽やかさに度肝を抜かれた。
一瞬、王妃が何者かに追われて逃げているのかと勘違いした近衛兵が「王妃様をお守りしろ!」と慌てて追いかけてきたが、彼らの重い革靴では、スニーカーを履いた私の圧倒的な機動力に追いつくことすらできなかった。
「見ろ、あの王妃様の足元を! あんなに速く走れる魔法の靴があるのか!?」
「私も欲しい! あの靴があれば、明日の芋掘り当番の時、ポリニャック夫人の畑より早く移動できる!」
「なんてスポーティで洗練されたデザインなんだ! 私もあの靴で風になりたい!」
翌日から、ローズ・ベルタンの工房には、スニーカーの注文が嵐のように殺到した。
そしてベルサイユ宮殿には、これまでの歴史には存在しなかった新たな「朝の習慣」が根付くこととなる。
「イチ、ニ! イチ、ニ! 呼吸を深く整えて! 腕をしっかり振るのよ!」
「「「イエス、マイ・マム!」」」
朝靄のなか、サロペットと色とりどりの真新しいスニーカーを履いた貴族たちが、私を先頭にして一列になり、庭園を規則正しいペースでジョギングしているのだ。首から真っ白なタオルを下げ、汗を流すその姿は、現代の皇居ランナーも顔負けの健全極まりない光景である。
「アントワネット、素晴らしい発明だった。君の走りを見ていて気づいたんだが、この靴底のゴムの弾力とグリップ力……次はこれを、馬車の車輪の周囲に巻き付ける技術に応用できないかな? そうすれば、パリのガタガタの石畳でも振動が吸収され、国民の移動が劇的に快適で安全になるはずだ!」
私の隣を、特大サイズのスニーカーを履いて一緒に走りながら、ルイがまたしても新たな歴史的インスピレーション(後のゴムタイヤの概念)を得て、オタク特有の早口で熱弁を振るっていた。
マリー・アントワネット、19歳。
ギロチンの刃から「物理的に全力ダッシュで逃げ切る」ためだけに開発させたスニーカーは、瞬く間にヨーロッパの足元を機能性とデザインで制圧し、フランスに空前のジョギングブームと、交通インフラ革命の火種を巻き起こしたのである。




