第46話 ベルサイユの奇跡
その日、ベルサイユ宮殿の最も奥深くに位置する王妃の寝室を包んでいたのは、新しい命の誕生を静かに見守る厳かな空気……などでは断じてなかった。
そこにあったのは、獲物が苦しむ姿を特等席で眺めようと待ち構える、飢えた獣のような「期待」の熱気である。
無菌状態を保ちたかったはずの私の寝室は、色とりどりの重厚なドレスや軍服を纏った何十人もの大貴族たちによって、足の踏み場もないほどに埋め尽くされていた。
彼らは、王妃が陣痛の痛みに顔を歪め、叫び声を上げる姿を、まるで劇場の特等席でオペラでも鑑賞するかのように、ワイングラスを傾けながら見物している。
これこそが、フランス王室が何百年も続けてきた長く残酷な悪習、「公開出産」だった。
「ほら、また陣痛が来たようだぞ」
「それにしても王妃様、随分と汗をおかきになって……」
「立派な男児を産んでいただかねば、王室の未来がありませんからな。いやはや、見ものですな」
押し殺したような囁き声、値踏みするような視線、そして、部屋に充満する貴族たちのむせ返るような香水と体臭が、私の酸素を容赦なく奪っていく。
本来、王妃に拒否権はない。「血統の正当性」を衆人環視の中で証明するという名目のもと、王妃はただの「産むための見世物」へと成り下がるのだ。
「……あ、あぁっ……! う、うぅっ……!!」
私は、朦朧とする意識の中で、砕け散りそうな骨盤の痛みに耐えながら、必死に空を掻いた。
痛い。お腹の底から、鋭い刃物で内臓をえぐり出されるような、これまでの人生で経験したことのない壮絶な激痛が、絶え間なく波のように押し寄せてくる。
現代の無痛分娩などない。頼れるのは、自分の肉体だけだ。
視界が白く明滅する中、空を彷徨っていた私の手を、大きく、温かい両手が、力強く包み込んだ。
「僕はここだ、アントワネット。君のそばにいる」
声の主は、額にべっとりと汗を滲ませ、私と同じように顔を青ざめさせた夫、ルイだった。
彼は、王としての威厳も体面もかなぐり捨て、私の汗まみれの髪を震える手で何度も撫で、祈るように私の手を握りしめている。
その時、最前列で扇子を揺らしていた公爵夫人が、面白半分に声を上げた。
「陛下、そのような農民のように取り乱されては、王としての威光が損なわれますわ。王妃様はただ、王家の義務を果たしておられるだけなのですから……」
クスクスと、残酷な嘲笑が部屋の空気を舐めた。
その瞬間だった。
「……もう、十分だ」
地を這うような、低く、重い声が響いた。
ルイが、私を握っていた手をそっと自分の頬に押し当ててから、静かに立ち上がった。
彼が振り返った瞬間、部屋の空気が、文字通り凍りついた。
そこにいたのは、あの優柔不断で気弱な少年の姿ではなかった。
サロペット姿で共に畑を耕し、強靭な筋肉を鎧のように纏い、愛する妻と、生まれ来る我が子を全身で守ろうとする、一人の巨大な「父親」の姿であった。
「全員、この場を直ちに去れッ!!」
ベルサイユの分厚い石壁を震わせるほどの、魂からの咆哮。
部屋が、物理的に震えた。驚愕に固まる貴族たち。ルイは、まるで獅子のような怒りに満ちた眼光で、最前列の公爵たちを射抜いた。
「で、伝統が……! 陛下、これは国家の重大な儀式で……!」
「伝統だと? 形式だと? ……笑わせるな!!」
ルイは、自らの剣の柄に手をかけ、一歩前に出た。
「今、ここで僕の愛する妻が、一人の女性が、命を懸けて未知の恐怖と戦っているんだ! それを酒の肴にするような冷酷な不届き者に、我が子の神聖な産声を聞く資格など、一ミリたりともない! 出て行け! 一人残らず、今すぐ僕の家族の前から消え失せろ!!」
気弱なオタク王の、生涯で初めての、絶対権力の発動。
それは暴君としての怒りではなく、海よりも深い愛情から出た「防壁」だった。
その圧倒的な覇気と殺気に顔を青ざめさせた貴族たちは、蜘蛛の子を散らすように、悲鳴を上げながら部屋から逃げ出していく。
バタンッ! と、重厚なマホガニーの扉が閉ざされた。
残されたのは、私が徹底的に衛生指導した信頼できる医師と、祈るようにタオルを握るランバル夫人、そして、私の額の汗を震える手で拭うルイだけだった。
「……ありがとう、ルイ。空気が……やっと、美味しくなったわ」
私は、荒い息を吐きながら、微かに笑いかけた。
ルイは私の傍らに跪き、涙ぐんだ目で何度も頷いた。
「喋らなくていい。君の苦しみは、僕が全部受け止めるから……! さあ、君のペースでいいんだ。僕の手を、思い切り握ってくれ!」
再び、これまでで最大の陣痛が襲いかかる。
私は、ルイの大きく硬い手を砕けんばかりに握りしめ、腹の底から全身の力を解き放った。
(負けない……! 私は絶対に、死なない!!)
ただ闇雲にいきむのではない。私はこの日のために、サウナで極限まで血流を良くし、鉄分たっぷりのレバーグラタンで血液を作り、何より「骨盤底筋」を徹底的に鍛え上げてきたのだ。
畑で重いクワを振り下ろした時の、あの体幹の力。大運動会を全力で走り抜けた、大腿と下腹部の筋肉。
あの日流したすべての汗と、積み重ねてきた健康への異常なまでの執念が、今、私という肉体を「生命を産み落とすための最強の要塞」へと変えていた。
「王妃様、素晴らしいです! いきみ方が完璧です! 見えました、あともう一息です!!」
医師の弾んだ声が聞こえる。
私は、現代知識と18世紀の肉体を総動員し、最後の力を振り絞って叫んだ。
それは悲鳴ではない。絶望の歴史を断ち切り、私が繋いだ新しい未来をこの世界へと引きずり出すための、生命の雄叫びだった。
「産まれなさいッ!! 私たちの……希望ッ!!」
次の瞬間──。
スッ、と身体の中から重いものが抜け落ちる感覚。
そして、静寂。
ほんの一秒にも満たないその空白の後。
ベルサイユの厚い壁さえも突き抜けるような、高く、力強く、そしてこの世で最も美しい「産声」が響き渡った。
「オギャアアアアアアアッ!! オギャアアッ!!」
午前11時30分。
フランスの歴史が、決定的に書き換わった瞬間だった。
「……陛下……! 王妃様……! おめでとうございます! 王太子殿下です! 驚くほど元気で、大きな……《《王子様》》でございます!!」
ランバル夫人が泣き崩れながら叫んだ。
史実では、長女「マリー・テレーズ」が生まれるはずだったこの朝。
私の徹底した栄養管理と、ルイの肉体改造、そして何より二人の「どうしても共に生きたい」という愛の強さが、遺伝子の確率さえも捻じ曲げたのだ。
綺麗なお湯で拭われ、最高級の柔らかいオーガニック・コットンの布に包まれた「新しい命」が、そっと私の胸の上に置かれた。
──ズン、と。
胸に乗せられた瞬間、その小さな命が放つ「圧倒的な熱量」と「重み」に、私は息を呑んだ。
温かい。
現代の無機質な病院では決して味わえないであろう、泥臭くて、力強くて、暴力的なまでに尊い、生命の熱。
かつて、私の首筋を撫でようとしていたあのギロチンの冷たい刃の幻影が、この小さな体温によって、完全に溶けて消え去っていくのがわかった。
「……あぁ。生きてる。生きてるわね、あなた。……ようこそ、フランスへ。ようこそ……お母さんのところに……っ!」
視界が涙で完全に塗り潰され、私の口から嗚咽が漏れた。
ルイが、私の傍らに崩れ落ちるように額をすり寄せた。
彼は、赤ん坊の小さな手に自分の太い指をそっと触れさせ、子供のように、顔をくしゃくしゃにして声を上げて泣いた。
感情を殺すことを強いられてきた一国の王としてではなく、ただ妻を愛し、子を愛する一人の等身大の男として。
「アントワネット……ありがとう。ありがとう……っ! 君が、君が……僕の人生に光をくれたんだ。この子が、こんなにも温かいなんて……っ!」
ルイの涙が、私の頬にポタポタと落ちる。
彼は私と赤ん坊を、その逞しい腕で丸ごと、絶対に壊さないように優しく包み込んだ。
その腕の温かさは、どんな高級な毛布よりも、どんな歴史書の1ページよりも、私の心を深く、永遠に満たした。
「……ルイ。私、産んだわ。……私たちの未来を、産んだのよ」
「ああ。僕たちの子供だ。……アントワネット、約束する。この子が飢えることのない、誰もが笑い合ってジャガイモを頬張れる国を……僕は、命に代えても絶対に作ってみせる」
赤ん坊が、ルイの指をぎゅっと力強く握り返した。
その小さな、けれど驚くほど強い握力に、私は確信した。
マリー・アントワネット、22歳。
自ら耕した大地に「希望」という名の最高傑作を咲かせたのである。
(ギロチンの刃なんて、もう届かせない。この子が歩む道は、私が世界一甘いポテトで敷き詰めてあげるんだから……!)
べルサイユの冬空に、祝砲の音が鳴り響く。
それは、悲劇の終わりと、新しい時代の幕開けを告げる福音であった。




