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第45話 強がり王妃の震える手のひら

「ランバル、そこの窓枠! まだほこりが残っているわ! 特製アルコール液で三度拭きよ! 床の隅々まで、一匹の虫、一つの菌も許してはダメ! シーツや器具の煮沸しゃふつ消毒も、絶対に手を抜かないで!」


 臨月を迎えたベルサイユ宮殿、王妃の私室。

 普段のきらびやかな装飾は影を潜め、そこは今、異常なまでの狂気をはらんだ「無菌室」へと変貌を遂げていた。私は、出産の間となるこの部屋の完全なる無菌化を、鬼気迫る表情で指揮していたのである。


 侍女たちは、王妃のあまりの剣幕に悲鳴に近い復唱を上げながら、かれたように消毒布を動かし続けている。


「アントワネット、少し休んだ方がいい。君自身が倒れてしまったら、元も子もないよ」


 見かねたルイが、私の手から消毒布をそっと取り上げた。

 彼の顔もまた、寝不足と不安で青ざめている。私はふぅっと浅い息を吐き、大きなお腹を支えるように腰に手を当てて、強がりの笑みを浮かべてみせた。


「平気よ、ルイ。私は毎日欠かさずスクワットをして、母様の特製発酵スムージーも飲んできた『最強の妊婦』だもの。これくらいの埃、私が睨みつければ、菌だって逃げ出していくわ……っ!」


 言いかけたその時、お腹の奥底が、ズシンと鉛を流し込まれたように重く、軋んだ。


「……っ」


 これまでの「張り」とは違う、内臓を下から強烈に引き絞られるような鈍い衝撃。

 私は咄嗟に近くのテーブルに手をつき、上体を折った。ルイが慌てて私の肩を支える。


「アントワネット! 大丈夫かい? すぐに医師を……!」


「待って、大丈夫。ただの前駆陣痛よ。……平気、私は、絶対に死なないから。ジャガイモで歴史を変えた私が、こんなところで、負けるわけには……」


 自分に言い聞かせるように呟いた私の手は、テーブルの端を白くなるほど握りしめ、ガタガタと情けないほどに震えていた。


(……怖い。本当は、気が狂いそうなほど、怖いのよ)


 私はこれまで、持ち前の現代知識とジャガイモの力で、歴史の荒波を乗り越えてきた。ギロチンの恐怖だって、サロペットを着て土を掘ることで笑い飛ばしてきたつもりだ。


 けれど、「出産」だけは違う。これだけは、知識があっても、筋肉があっても、回避不可能な物理的な「死線」なのだ。


 どんなに栄養状態を良くしても、どんなに部屋を消毒しても、ここは18世紀なのだ。


 現代日本の病院のような、胎児の心音を刻むモニターも、緊急時の帝王切開を行う無菌の手術室も、輸血パックも、抗生物質も、痛みを和らげる麻酔もない。


 何か一つでも歯車が狂えば、母子ともに産褥熱さんじょくねつや失血で命を落とす、文字通りの地獄絵図が待っている。


 現代知識があるからこそ、この時代の医療の蒙昧もうまいさと限界が、痛いほどわかってしまう。それが、恐怖を何倍にも増幅させていた。


 心臓が早鐘のように打つ。冷たい汗が背筋を伝い、呼吸が浅くなる。


「……ルイ。私、怖い……」


 ぽつりと、声がこぼれた。

 民衆や貴族の前で張っていた「自信満々な王妃」の仮面ががれ落ち、そこにはただ一人の、死におびえる少女がいた。


「もし、私が……この子を産む時に、何かあったら。もし、私が助からなかったら……。ジャガイモの続きは、あなたが……民衆を、飢えさせないで……」


「馬鹿なことを言うな!」


 ルイの、かつてないほど強い声が部屋に響いた。

 彼は私の両手を、その大きくて温かい、職人のマメができた無骨な手で、砕けんばかりにしっかりと包み込んだ。


「君は死なない。絶対にだ。君がこの3年間、どれだけ自分の身体と向き合い、未来を変えるために戦ってきたか、僕が一番よく知っている」


 ルイの真っ直ぐな瞳が、恐怖に怯える私の瞳を射抜く。

 かつての気弱で頼りなかった「錠前オタク」の少年は、いつの間にか、私を全身で守ろうとする、頼もしい「父親」の顔つきになっていた。


「怖いのは僕も同じだ。でもね、アントワネット。君は一人で戦うわけじゃない」


 彼は私の震える指先に、祈るように唇を寄せた。


「伝統だとか、貴族の目だとか、公開出産だとか、そんな蒙昧な形式は、僕がすべて叩き潰してシャットアウトする。君が安心して、ただ新しい命を迎えることだけに集中できるように……僕が、君たちの『絶対の盾』になる」


「ルイ……」


「だから、君は僕の手を握って、思い切り息を吸えばいい。痛い時は、僕の手を握り潰したって構わない。……君と、僕たちの子供は、僕が命に代えても守り抜く。約束だ」


 その不器用で、けれどこれ以上ないほど誠実な誓いに、私の目からポロポロと涙がこぼれ落ちた。

 

 張り詰めていた恐怖が、彼の手の温もりによって、少しずつ溶かされていく。彼がいてくれる。それだけで、絶望的な暗闇の中に、一条の光が見えた気がした。


「……ふふっ。本当に、手を握り潰しちゃうかもしれないわよ? 私の握力、サロペット生活で最近すごく強くなってるんだから」


「望むところだよ。僕の作った合金よりも硬いか、試してみよう」


 ルイが優しく微笑み返してくれた、その直後だった。


 ──ズキィィィンッ!!


 これまでの前駆陣痛とは比較にならない、雷が落ちたような衝撃。内臓を根こそぎ引き絞られ、骨盤が砕けるような、強烈で決定的な痛みが腰から背中を駆け抜けた。


「……っ!! ルイ、来た……! 今度こそ、本物……!!」


「わかった! 誰か、至急医師を呼べ! お湯だ、お湯を沸かすんだ!! 煮沸消毒した器具を揃えろ!!」


 ベルサイユの長い夜が、ついに明けようとしていた。

 震える手を夫に預け、私は「最強の母親」になるための、人生最大の死線おさんへと足を踏み入れるのであった。

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