第40話 最強の妊婦、ベルサイユに立つ
私が懐妊したというニュースは、文字通り熱狂の渦となって、またたく間にフランス全土を駆け巡った。
かつては「世継ぎも作れない石女」「浪費ばかりのオーストリア女」と、パリの裏通りで陰口を叩かれていたのが嘘のようだ。今や街角の居酒屋では、私とルイの健康的な仲睦まじさを称える陽気な歌が声高にうたわれ、ノートルダム大聖堂をはじめとする国中の教会では、王妃の安産と新しい命を祝福するミサが連日のように捧げられているという。
これまでの三年間、泥にまみれ、ジャガイモを配り、民衆の胃袋を満たし続けてきた地道な『健康外交』の成果が、この圧倒的な祝福の空気となって実を結んだのだ。
だが、当の私はといえば、温かい祝福の余韻に浸っている暇など全くなかった。
「……ううっ、気持ち悪い。これが、噂に聞く『悪阻』というやつなのね……」
ある朝、目覚めとともに胃の底からせり上がってきた強烈な吐き気に、私は豪奢な天蓋付きベッドの中で顔をしかめ、腹部を抱え込んだ。
現代知識によれば、妊娠初期の悪阻はホルモンバランスの急激な変化によるものであり、ビタミンB6の摂取や、血糖値を極端に下げないための『こまめな間食』で多少は和らぐはずだ。
しかし、この時代のベルサイユ宮殿特有の匂い──廊下に染み付いた古びたワックスの匂いや、貴族たちが体臭をごまかすために振りまく濃厚すぎる香水の匂いが、今の私にとっては致死量の毒ガスのように鼻孔を刺激してくる。
私は、枕元に常備させておいた銀の小箱に手を伸ばした。
中に入っているのは、ルイが私のためだけに徹夜で発明した『熱風循環式・定温乾燥機』を使って仕上げた「自家製ドライポテト」だ。油を一切使わず、ジャガイモの素朴な甘みとビタミンをギュッと凝縮した、究極のギルトフリー・マタニティおやつである。
私はそれを一枚、前歯でカリッと一口かじり、ゆっくりと時間をかけて咀嚼した。デンプンの優しい甘みがじんわりと胃のむかつきを抑え込み、血糖値が緩やかに上昇していくのを感じて、ようやく上体を起こす。
「王妃様! お目覚めですか! いけません、無理をして起き上がっては! 今日からはこのベッドの上で、絶対安静になさってください!」
部屋に駆け込んできたのは、血相を変えた腹心のランバル夫人だった。彼女の背後には、分厚い遮光カーテンを閉め切るために動く侍女たちの姿がある。
「窓をすべて閉め切り、隙間風を完全に防ぐのです! 悪しき空気が王妃様のお体に触れぬよう、お産の日までこの部屋を暗闇に保たねば……!」
ランバル夫人の悲痛な叫びに、私は頭痛を覚えた。
(……出たわね、18世紀の蒙昧な妊婦への拷問療法!)
当時のフランス貴族社会では、妊婦は「重病者」と同じ扱いを受ける。新鮮な空気を絶ち、日光を遮り、身動き一つさせずに分厚い布団の山に閉じ込めるのが『正しき安静』だと本気で信じられていたのだ。史実の王妃たちも、この鬱屈した密室育児のせいで精神を病み、体力を著しく低下させていた。
「安静? 冗談じゃないわ。暗闇の中でじっとしていたら、気が滅入って余計に吐き気が増すだけよ!」
私は侍女たちが閉めようとしていたカーテンを自らバァン! と勢いよく開け放ち、眩い朝の光を部屋いっぱいに取り込んだ。
「いいこと、ランバル。重すぎる悪阻で動けない時は別として、今の私に必要なのは、出産という名の『人生最大のフルマラソン』を走り抜くための筋肉を落とさず、骨盤周りの血流を維持することなの。……さあ、マタニティ・ブートキャンプの時間よ!」
私は、お抱えデザイナーのローズ・ベルタンに命じて作らせた『特注マタニティ・サロペット』に着替えた。腹部の圧迫を極限まで減らすため、両脇に伸縮性のある編み上げのリボンを施し、最高級の柔らかいオーガニックリネンで仕立てた、機能美の結晶とも言える一着だ。
私が颯爽と向かった先は、朝霧が心地よいベルサイユの第一ジャガイモ菜園である。
そこにはすでに、私が妊娠したことで「私たちも健康な母体を作らねば!」と謎の使命感に触発された貴族の女性たちが、少し膨み始めたお腹をさすりながら集合していた。
「いい、みんな。無理な筋トレは厳禁よ。今日は股関節の柔軟性を高め、腰痛を予防するストレッチを中心にいくわ。背筋をスッと伸ばして、胸いっぱいに朝の空気を吸い込んで。お腹の中の赤ちゃんに、新鮮な酸素とポテトの栄養をダイレクトに届けるイメージよ!」
私が真新しいクワを杖代わりに支えにし、ゆっくりと腰を落として骨盤を回すマタニティ・ヨガのようなポーズを決めると、貴族夫人たちから「イエス、マイ・マム!」という気合の入った声が響き渡る。
優雅な日傘と扇子が飛び交っていたかつての宮殿の面影は微塵もなく、もはやここは巨大な産前産後ケアセンターと化していた。
そんな私の暴走とも言える健康管理を、この国で物理的に止められる者は一人しかいない。
「アントワネット、さすがにやりすぎじゃないかな。君の体の中には、フランスの未来という最も尊い宝が宿っているんだ。せめて、そのクワを振るのは僕の仕事にさせてくれないか」
背後からひどく心配そうな声をかけ、私の手からクワをそっと取り上げたのは、夫であるルイ16世だった。
最近の彼は、私の妊活指導と毎日のスクワットの成果でさらに大胸筋と大腿四頭筋が発達し、泥にまみれた作業着姿は「一国の王」というより、完全に「頼れる若き農夫王」としての風格を漂わせている。
さらに彼は、私が妊娠したと知るや否や、王室図書館にある医学書や解剖学の書物を徹夜で読み漁り、極度の『過保護オタク』へと変貌を遂げていた。
「そのクワの重量はざっと三キロ。今の君の重心バランスの変化を計算すると、腰椎に通常時の約一・五倍の負荷がかかるリスクがある。ここは僕に任せて、君はあそこの特注の揺り椅子で休んでいてほしいんだ」
早口で力学的な懸念を述べるルイに、私は思わず吹き出してしまった。
「陛下、心配しすぎよ。私はね、この子が生まれてきた時に、真っ先にベルサイユの豊かな土の匂いを嗅がせてあげたいの。……それに、見て。私の肌を」
私はルイのゴツゴツとした大きな手を取り、自分の頬に触れさせた。
悪阻で少しだけ体調は崩していても、ポテトのビタミンとハーブティーの力、そして適度な運動を続けている私の肌は、過剰な白粉など一切不要なほど、内側から発光するような血色の良さと美しさを保っていた。
「……確かに。君の言う通りだね。君は、世界で一番強くて、美しいお母さんになろうとしているんだ」
ルイの心配そうな顔が、次第に深く、優しい安堵の微笑みへと変わっていく。彼は泥のついた手を自分のエプロンで丁寧に拭うと、私のお腹にそっと、本当に壊れ物に触れるように両手を当てた。
そこにはまだ、胎動を感じるには早すぎる、小さな小さな命。けれど、彼の手のひら越しに、確かな未来の鼓動が伝わってくるような気がした。
「アントワネット。君と、この子のことは、僕が必ず守る。この国で一番安全で、温かい場所を作ってみせるから」
私はルイの広い肩に頭を預け、ベルサイユの朝風に吹かれながら心の中で静かに誓った。
この子が成人して自分の足で歩き出す頃には、フランスから飢えも、特権階級の腐敗も、そしてあの忌まわしい処刑台の記憶も、すべてきれいさっぱり消し去ってみせると。
マリー・アントワネット、22歳。
彼女のギロチン回避サバイバルは今、「一人の王妃」としての自己防衛から、「一人の母」としての国を守る戦いへと、新たなステージへ力強く昇華したのである。




