第41話 吸血鬼退散
私がマタニティ・ブートキャンプで適度な運動を提唱し、ベルサイユの妊婦たちに革命的な健康ブームを巻き起こし始めた矢先のことだった。
この宮殿の奥深くに巣食う、分厚く黒い「古い常識」が、ついにその禍々しい牙を剥いてきたのである。
「王妃様! 妊婦が太陽の下で畑のクワを振るうなど、言語道断の極み! 今すぐ窓を閉め切り、光を完全に遮断した部屋で絶対安静になさってください。そして、体内に滞った汚れた血を抜くために、至急『瀉血』をいたしましょう!」
ずらりと一列に並んで私の私室に押し寄せてきたのは、漆黒のローブを纏った宮廷医師団だった。
彼らの手には、鋭く光る銀のメスと、分厚いガラス瓶の中でウネウネとおぞましく蠢く「医療用の巨大なヒル」が掲げられている。
(……出たわね! 18世紀の狂気、恐怖のトンデモ医療!! 瀉血とか中世ダークファンタジーの知識で止まってるんじゃないわよ! しかもヒルって……ホラー映画の罰ゲーム!?)
当時のフランス医学において、病気や妊娠期の不調はすべて「体液の不均衡」や「汚れた血の滞留」が原因とされていた。そのため、妊婦だろうが重病人だろうが、問答無用で平気で血を抜き取るのが最先端にして絶対の「常識」だったのだ。
史実のマリー・アントワネットも、実際の出産時に密室で大量に血を抜かれ、危うく酸欠と失血で命を落としかけている。現代日本の医療知識を持つ私からすれば、治療どころかただの合法的な暗殺にしか見えない。
「冗談じゃないわ! ギロチンより先に、極度の貧血で私を殺す気!? その気色の悪い吸血鬼を、今すぐセーヌ川の底に放り投げてきなさい!」
私は全力でヒル入りの瓶を拒絶し、医師たちを親の仇のように睨みつけた。
「いいこと、先生方。今の私に必要なのは、血を抜くことなんかじゃない。圧倒的な『造血』よ! お腹の赤ちゃんを五体満足に育てるためには、膨大な『鉄分』と『葉酸』が不可欠なの! 悪い血なんて一滴も流れていないし、私の血は一滴たりとも譲らないわ!」
あまりの剣幕にたじろぐ医師たちを尻目に、私はあらかじめ厨房のシェフに命じて作らせておいた特別メニューを、銀のワゴンに乗せて部屋へと運び込ませた。
「さあ、これを見なさい!」
私が銀のドーム型の蓋を勢いよく開けると、部屋中に暴力的なまでの香ばしい匂いが充満した。
それは、特有の血生臭さを完全に抜くために新鮮な牛乳に一晩じっくりと浸した鶏のレバーと、鉄分の王様であるほうれん草、そして我が王立菜園が誇るホクホクのジャガイモを何層にも重ね、たっぷりのチーズを乗せてこんがりと焼き上げた『鉄分増強・極上レバーポテトグラタン』である。
「無意味に血を抜いて体力を奪うより、この鉄分と良質なタンパク質の塊を胃袋に入れる方が、よっぽど生命力が湧いてくると思わない? レバーの臭みは牛乳とニンニクで完全に消し去り、ジャガイモのデンプンが旨味を余すところなく閉じ込めているわ」
グツグツと音を立てて焦げる濃厚なグリュイエールチーズと、芳醇なバターの匂いに、医師たちは思わずゴクリと喉を鳴らした。
彼らは「しかし、古代ギリシャからの伝統医学の教えが……」と顳顬に汗を浮かべて反論しようとしたが、グラタンから立ち昇る圧倒的なシズル感に胃袋が完全降伏してしまったらしい。しぶしぶ瀉血の道具を引っ込めると、グラタンのレシピだけをちゃっかり書き留めて退散していった。
吸血鬼たちの蒙昧な脅威を美味しいグラタンで退けた私は、さらに貴族夫人たちをサロンに集め、次なる「現代の安産メソッド」の伝授に取り掛かった。
「お母様方、鉄分を補給した次に大切なのは『筋肉』よ。それも、ただの腹筋や背筋じゃないわ。重くなるお腹を下からハンモックのように支え、産後の尿漏れや臓器脱を防ぐ究極のインナーマッスル……『骨盤底筋』を鍛え上げるのよ!」
夫人たちは「こつばん……ていきん……?」と、聞いたこともない単語にきょとんと首を傾げた。
無理もない。幼い頃からガチガチのコルセットで内臓を無理やり締め付けるのが当たり前のこの時代、自分の意志で身体の内側の筋肉をコントロールするという概念すら存在しないのだ。下半身のデリケートな話題に、扇子で顔を隠して頬を赤らめるご婦人もいる。
「恥ずかしがっている場合じゃないわ。想像してちょうだい。骨盤の底にある、大切な臓器を支えるトランポリンのような筋肉よ。……大きく息を吸って。そして、お尻の穴と膣を、自分の力で内側へ向かってキュッと引き上げる! そしてゆっくり息を吐きながら緩める! これを、お茶会や読書の暇な時に、一日五十回やるのよ!」
私はゆったりとしたサロペット姿で仁王立ちになり、スゥーッ、ハァーッと真剣な顔で呼吸法を実演した。
「この『ケーゲル体操』をマスターすれば、産後にくしゃみをした時のあの絶望的な惨劇から永久に解放されるわ!」
(……まあ、前世の私はただの女子大生だったから、実際の『産後の尿漏れ』なんて経験したことないんだけどね! でも、SNSの育児アカウントで先輩ママたちが『くしゃみした瞬間、すべてが終わる』『妊娠中から骨盤底筋だけは死んでも鍛えとけ』って血の涙を流しながらタイムラインで警告していたのよ! ネットの集合知を舐めないでよね!)
「フランスの輝かしい未来を底辺から支えるのは、他でもない、私たちの強靭な骨盤底筋よ!」
「「「イエス、マイ・マム! 引き上げますわ!!」」」
私の熱弁に、最初は戸惑っていた貴族の夫人たちも、産後のリアルな恐怖を想像して一斉に顔つきを変えた。彼女たちは姿勢を正し、見えない筋肉を限界まで引き締める。
煌びやかなベルサイユのサロンは今、会話一つないにもかかわらず、かつてないほどストイックで、極めて静かな熱気に包まれていた。
そこへ、木屑と機械油にまみれた夫、ルイ16世が、奇妙なカーブを描く木製の椅子を抱えてやってきた。
「アントワネット、君の言う『骨盤の負担』を減らすために、座面の傾斜角度と背もたれのS字カーブを人間工学的に計算し尽くした『特製マタニティ・チェア』を作ってみたよ。腰当てのクッションには、反発力の高い厳選された馬の毛を詰めてあるんだ」
「まあ、ルイ! 最高よ。これなら骨盤底筋を休めながら、書類仕事や手紙の執筆ができるわ!」
私は完成したばかりの椅子に深く腰掛けた。
背筋がスッと自然に伸び、大きくなってきたお腹の重みが嘘のように軽く感じる。ただ座っているだけで、身体の重心が完璧な位置に補正されるのだ。夫のオタク気質な職人技が、ここでも完璧に私のマタニティ・ライフを物理的にサポートしてくれたのである。
血を抜かれる危機を極上グラタンで脱し、鉄分を蓄え、見えない骨盤底筋まで鍛え上げた私。
心身ともにこれ以上ないほど完璧なコンディションに仕上がったことで、私の胃袋は、いよいよ妊娠中期の「爆発的な食欲」という、制御不能な未知の領域へと突入していくのであった。
マリー・アントワネット、22歳。
18世紀の狂ったトンデモ医療をレバーグラタンの香りで粉砕し、フランスの未来を自らの「骨盤底筋」で支え抜く覚悟を決めたのである。




