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第38話 情熱のベルサイユ・リハビリテーション

 あの大掛かりな手術の成功から数週間。夫であるルイ十六世の回復ぶりは、宮廷の医師たちが目を丸くして驚くほど、まさに驚異的であった。


 やはり、三年前から私が血の滲むような思いで推進してきた「ポテトと大豆の健康食生活」と、毎朝のベルサイユ・ブートキャンプ(スクワット地獄)による基礎体力の底上げが、細胞レベルで功を奏したに違いない。


 かつては青白く、猫背で、どこか頼りなげなオーラを漂わせていた夫は、今や完全に別の生き物へと変貌を遂げていた。


 背筋はピンと伸び、シャツの上からでもわかるほど分厚くなった胸板。そして何より、日々の農作業で鍛え上げられたその肌には、野性味すら感じさせる健康的な赤みが差しているのである。


「アントワネット、もう歩いても大丈夫だよ。いや、むしろ身体の奥底からエネルギーが湧き上がってきて、じっとしているのが苦痛なくらいなんだ。……君がずっと言っていた『血流』というものの凄さを、今まさに骨の髄から実感しているよ」


 寝室の豪華な長椅子に腰掛けるルイは、どこか落ち着かない様子で、自分の腕の筋肉を確かめるようにさすっている。


 そんな彼に対し、私は特注のクリスタルグラスになみなみと注いだ「精力増強・究極の回復スムージー」を差し出しながら、いたずらっぽく微笑んだ。


「いいえ、陛下。いくら無事に完治したからといって、すぐに実戦というわけにはいかないわ。機械だって、大掛かりな修理の後は、各部品が馴染むまで慎重な試運転が必要でしょう?」


「試運転……なるほど。確かに、いきなりフル稼働させてギアが焼き付いては元も子もないね」


「その通りよ。さあ、まずはこれを飲んで。大地の栄養を凝縮した黒胡麻と胡桃のペーストに、マカパウダーと滋養強壮に効く極上の蜂蜜。そして良質なタンパク質の塊である豆乳を合わせた『完全復活特濃プロテインドリンク』よ! オイルには血流を爆発的に促進する特別なエゴマ油を数滴垂らしてあるわ。亜鉛もたっぷりだから、細胞の修復にはうってつけなの」


 ルイはグラスを受け取ると、興味深そうにそのとろりとした液体を観察した。


「なるほど、タンパク質と脂質、そしてミネラルをこれほど論理的に組み合わせるとは。君の栄養学の知識は、僕の機械工学と同じくらい精密で隙がないね」


 ゴクリ、ゴクリと喉を鳴らして力強い音を立ててそれを飲み干すルイ。


「……美味い! 濃厚な胡麻の香ばしさと蜂蜜の優しい甘さが五臓六腑ごぞうろっぷに染み渡るようだ。なんだか、飲んだそばから身体の芯がカッと熱くなって、指先の毛細血管の隅々にまでエネルギーが行き渡るのがわかるよ。これなら、すぐにでも鉄を打ちに行けそうだ」


「駄目よ、鉄なんて打ってる場合じゃないわ。あなたのそのエネルギーは、今は温存しておかなくちゃいけないんだから」


 グラスを置いたルイが、熱を帯びた瞳で私を見つめ返してくる。


 その真っ直ぐな視線には、三年前の弱々しい少年の面影は微塵もない。一人の成熟した「男」としての、確かな情熱と自信が宿っていた。私はその眼光の強さに、思わずドキリとして視線を逸らしてしまった。


 ルイの本格的なリハビリ期間中、私はベルサイユの離宮の奥深くに、さらに進化した「王妃の秘密菜園」を極秘裏に解放していた。


 そこはただ野菜を育てるだけの場所ではない。王室のしがらみも、貴族たちの詮索の目も一切届かない、完全なるプライベートな聖域だ。私たち夫婦が二人きりで適度な運動を楽しみ、誰の目も気にせずに心と身体のコンディションを限界まで高め合うための、特別なリハビリ施設でもあった。


 私たちは、お揃いのサロペットに身を包み、初夏の太陽の下で二人並んで土を耕した。


「見てくれアントワネット。このクワの柄の角度、僕が人間工学に基づいてミリ単位で調整したんだ。これなら腰に負担をかけず、広背筋と大臀筋だいでんきんにピンポイントで効くはずだよ。さらに刃先には、土の抵抗を極限まで減らす流線型のフォルムを採用したんだ。ほら、重心を少し前に落として……そう、その角度だ!」


「まあ、ルイ! さすがは私の専属エンジニアね。土いじりが極上のフィットネスに早変わりだわ! これなら下半身の血流もバッチリ促進されて、お互いのコンディションを最高潮に持っていけるわね!」


 私たちは泥まみれになりながら笑い合い、何時間も無心で畑仕事に没頭した。土の匂いと青空の下で体を動かす喜びが、宮廷の窮屈な空気を完全に忘れさせてくれる。


 心地よい汗を流した後、私たちはルイがその持てる建築技術とオタク知識のすべてを注ぎ込んで完成させた「薬石蒸気サウナ」へと足を運んだ。


 白樺の木材で囲まれた薄暗いサウナ室内は、身も心もとろけるような熱気と、カモミールやローズマリーといった鎮静効果のあるハーブの香りに満ちていた。


 ジュワァァァァッ! と、熱々に焼けたサウナストーンにアロマ水をかけると、心地よい熱波が私たちの身体を包み込む。


 じわりと汗が滲み出し、開いた毛穴から体内の毒素がすべて洗い流されていくような爽快感に、私は深いため息をついた。


 玉のように滴る汗をタオルで拭いながら、私たちはこれまでの三年間の怒涛の歩みを静かに語り合った。


 最初はただ、私が処刑台の露と消える絶望の未来から逃げ出すために始めたサバイバルだった。ジャガイモを「豚の餌」と馬鹿にする貴族たちを黙らせ、コルセットを脱ぎ捨ててサロペットを流行らせ、民衆の胃袋をポタージュとコロッケで掴んできた日々。さらには、美容と称して泥パックを流行らせたり、運動会を開催して貴族たちを走らせたりと、無茶苦茶なことばかりやってきた。


 数え切れないほどの歴史のフラグをへし折り、ギロチンの幻影から逃げ回りながら、気がつけば、隣にはいつも泥だらけになって笑う彼がいた。私がどんな突拍子もないアイデアを出しても、彼は決して否定せず、むしろ持ち前のオタク気質でそれを何倍にも素晴らしい形にして実現してくれた。私たちはいつだって、お互いの背中を預け合ってきたのだ。


「……君がオーストリアから嫁いで来てくれてから、ベルサイユは……いや、僕の人生は根底からすべてが変わった」


 ルイが、熱波の中でそっと私の手を取った。


 その掌は、毎日の農作業と錠前作りで固いマメができている。政略結婚で結ばれた当初の、あのおどおどとしていて他人に触れることすら恐れていたような王族特有の滑らかさは失われていた。だが、私にとっては、世界中のどんな宝石よりも頼もしく、温かい手だった。


「もし君が、あのままの僕を見捨てていたら……僕はきっと今頃も、誰にも心を開けず、暗い工房の隅で独り、開かない錠前と格闘して絶望していただろう。君が光を、生きる意味をくれたんだ」


 彼の不器用で真っ直ぐな言葉が、サウナの熱気以上に私の胸を熱くする。


 現代日本のただの女子大生だった私が、歴史の荒波の中で生き残るためだけに始めた利己的なダイエットサバイバル。けれど、いつの間にか私は、この不器用で心優しい夫のことを、心から愛おしいと思うようになっていたのだ。


 私は彼の手を両手で包み込み、その温もりを確かめるように静かに頷いた。


「私もよ、ルイ。あなたが私の無茶苦茶な提案を笑わずに信じてくれたから、私は今、こうしてあなたの隣で笑っていられる。……私たちは、誰にも負けない最高の相棒よ」


「相棒、か。……でも、今日からはもう一歩、先に進みたいと願うのは、僕のわがままだろうか」


 ルイは私の目を見つめたまま、そっと私の頬に手を伸ばした。


 その指先は少し震えていたが、迷いはなかった。彼の瞳の中に燃える静かで力強い熱に、私の心臓が早鐘はやがねのように鳴り始める。トクン、トクンと、サウナの熱気とは全く違う種類のリズムが全身を駆け巡った。


 王室に跡継ぎがいないと、廊下の隅でヒソヒソと囁き続けていた貴族たちの冷たい視線。そして、他国からの心無い重圧。


 それらをすべて跳ね除け、誰に強いられるでもなく、私たち自身の意志で、新しい未来を掴み取る時が来たのだ。


「……わがままなんかじゃないわ。私も、あなたと同じ気持ちよ」


 私はゆっくりと立ち上がり、彼に向かって真っ直ぐに微笑んだ。


「さあ、心身の準備は完全に整ったわ。……リハビリ期間は、今夜で終了よ、陛下」


 私は確信していた。


 今の私たちなら、歴史の残酷な荒波をただ乗り越えるだけでなく、新しい命という名の「最高の未来」を、この手で力強く紡ぎ出せるはずだと。


 その夜、ベルサイユ宮殿を包み込む月明かりは、いつもよりずっと優しく、そしてどこまでも艶やかに二人を照らしていた。


 マリー・アントワネット、21歳。


 死の運命を回避するために始まった彼女のドタバタなサバイバル劇は、今、愛する夫と共に「新しい生命」を育むという、フランス王妃としての真の戴冠式たいかんしきへと、静かに、そして熱烈に向かおうとしていたのである。

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