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第37話 黄金のメス

 ベルサイユ宮殿の奥深くに、これまでにない異様な緊張感がピリピリと漂っていた。


 私が発案した『プロジェクト・受胎大作戦』が本格始動してから数ヶ月。私の愛する理系オタク夫・ルイは、事前の宣言通り、自らの肉体を極限まで改造するためのストイックな日々を粛々《しゅくしゅく》と過ごしていた。


 毎朝のスクワットで限界まで鍛え上げられた彼の大腿四頭筋だいたいしとうきんは、今やかつてのひ弱な少年の面影など一ミリもなく、屈強な近衛兵でさえもうらやむほどのパンプアップされた筋肉を宿している。


「アントワネット、準備は完全に整ったよ。……正直に言えば、手術のメスを入れられるのはものすごく怖い。けれど、君が隣にいてくれるなら、僕は僕自身の『不具合』を必ず克服できる気がするんだ」


 ルイの声は、かつてないほどに男らしく、力強かった。私は、微かに震える彼の大きくてゴツゴツとした職人の指先を、両手でぎゅっと握り締めた。


「大丈夫よ、ルイ。あなたはフランスが誇る最高の錠前師でしょう? 自分の体を、もっとも信頼できる精密機械のようにオーバーホールするだけよ。……それに、執刀医には私が前もって、徹底的に『消毒』の概念を頭の髄まで叩き込んでおいたわ!」


 そう、ここが最大の難関にして、現代人の私が絶対に譲れないポイントなのだ。


 十八世紀の医療現場において、最大の敵は病気そのものではない。まだ「細菌」や「感染症」という概念が絶望的に薄い医者たちの、不潔な手と道具である。彼らは平気で洗っていない素手で患者の傷口に触れ、血のついた不潔なコートを『ベテランの勲章』として着回すのが常識とされていた。史実でも、些細な傷からの細菌感染(敗血症はいけつしょう)で命を落とす王侯貴族は星の数ほどいる。


(……愛する夫の超デリケートな「鍵」の手術で、バイ菌に感染して使い物にならなくなったら、それこそフランス滅亡の危機よ! ギロチンよりも恐ろしい細菌の脅威を、絶対に阻止しなければ!)


 私はこの日のために、フランス全土から優秀な宮廷外科医たちを極秘に招集し、現代日本の衛生管理を暴力的なまでの圧力で伝授していた。


 お抱えの調香師と錬金術師(化学者)を総動員して、果実や穀物から高純度の蒸留アルコールを精製させ、そこに強力な殺菌効果を持つハーブ(タイムやローズマリー)を配合した「王妃特製・手指消毒用エタノール液」を大量開発させたのだ。


 そして、手術室となる離宮の一室を、熱湯とアルコールでピカピカに磨き上げ、ベルサイユで最もクリーンな「無菌の聖域」へと変貌させていたのである。


「いいこと、先生方。術前には必ずこのアルコール液で、皮膚の脂が飛んでカサカサになるまで手を洗いなさい! メスやハサミなどの道具は、すべて熱湯で三十分以上煮沸消毒すること! 傷口に目に見えない小さな虫が入らないようにするためよ!」


「み、見えない虫、でございますか……?」


「ええ! もし術後に、不潔な道具が原因で陛下が謎の高熱を出したり、患部が少しでも化膿したりしたら……私が直々に、あなたたちのその洗っていない手をジャガイモの肥料として王立菜園の土に埋めるから、そのつもりで覚悟なさい!」


 私の夜叉やしゃのような脅し……もとい、熱心すぎる医療衛生指導に、権威ある老医師たちは真っ青になりながらも、「ひぃぃっ! イ、イエス・マイ・マム!」と悲鳴を上げ、何度も何度もアルコールで手を洗い、黄金に輝く特注の手術道具をグツグツと煮沸消毒していた。


 そして、運命の手術が始まった。


 私は無菌室と化した部屋の分厚い扉の外で、ランバル夫人と共に待機していた。


 ランバル夫人は神に祈りを捧げてオロオロと震えていたが、私はひたすら、壁一枚隔てた向こう側にいるルイの免疫力と、細胞の自然治癒力に全神経を集中させていた。麻酔の技術が未発達なこの時代、強いワインを飲んで痛みを麻痺させるくらいしか方法がない過酷な手術である。


(……頑張って、ルイ。痛みに耐えて! あなたのその鍛え抜かれた大臀筋だいでんきんと気合いで乗り切るのよ! これが終われば、あなたは本当の意味で『フランスの父』になれるんだから!)


 一分が、一時間にも、一年にも感じられるほど長く重苦しい沈黙。


 やがて、部屋の扉がギィィッと静かに開いた。


 出てきた執刀医の老医師は、額に滝のような汗を浮かべ、疲労困憊ひろうこんぱいの様子だったが、その表情は外科医としての仕事を完璧にやり遂げた、晴れやかなものだった。彼は深く、深く一礼した。


「……王妃様。陛下は、見事に痛みに耐え抜かれました。すべては完璧です。物理的・構造的な問題は、今この瞬間をもって完全に消滅いたしました」


 私は、安堵のあまりその場に崩れ落ちそうになるのを必死の腹筋でこらえ、アルコール消毒液の匂いが染み付いた医師の手を両手で固く握りしめた。


「……ありがとう。本当に、本当によくやってくれたわ。あなたたちの新しい衛生観念は、今日フランスの歴史を救ったのよ」


 私はアルコール液で自分の手を急いで消毒すると、すぐさま部屋に飛び込んだ。


 真っ白なシーツが敷かれたベッドの上で、痛みの余韻で少し青ざめた顔をしながらも、ルイは私を見て、力なく、けれど確かに、誇らしげに微笑んだ。


「アントワネット……無事に成功したよ。鍵穴に引っかかっていた余分なパーツを切り落とすような、精密な作業だった。すごく痛かったけれど……でも、これでやっと、僕の『鍵』は、フランスの未来へとスムーズに繋がるはずだ」


 私は彼の枕元に駆け寄り、その少し冷たくなった大きな手を両手で包み込み、自分の頬に寄せた。


 手術の成功。それは単なるコンプレックスの完治ではない。

 この瞬間に、フランス王室が七年間も抱え続けてきた最大の「時限爆弾」が、ついに解除されたのだ。


「ええ、ルイ。あなたは世界一勇敢な錠前師よ。最高だわ。……でも、油断は絶対に禁物。傷口が完全に塞がるまでのこれからの一ヶ月間は、私が亜鉛とビタミンたっぷりの『王立・超回復ポタージュ』で、あなたの身体の細胞一つ一つを完璧にメンテナンスしてあげるからね!」


 ルイは「えっ、また厳しい食事制限とタンパク質のノルマがあるのかい?」と少しだけ引き攣ったような苦笑いを浮かべたが、その瞳の奥は、これまでになく明るく、未来への強い希望に満ち溢れていた。


 マリー・アントワネット、21歳。

 彼女は現代の衛生知識と執念で、ついに歴史という名の巨大で頑固な錠前を、その手でこじ開けたのである。


 残る課題は、もはや「いつ、その最高にハッピーな日が来るか」という、幸福なカウントダウンだけであった。

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