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第35話 ベルサイユの静かな夜

 深夜、大掃除を終えて静まり返ったベルサイユ宮殿。

 かつて、この果てしなく続く豪奢ごうしゃな廊下の静寂は、死神の足音に怯える私の心を容赦なくさいなむだけのものだった。けれど今、開け放たれた窓から流れ込む空気は、微かなラベンダーの香りと、冬の夜の凛とした清らかさに満ちている。


 私は一人、私室の大きな姿見の前に立った。

 そこに映るのは、歴史書に描かれた「赤字夫人」と呼ばれたうつろで傲慢な少女ではない。


 毎日サロペットを穿き込み、泥にまみれ、自らの手で重いクワを振るったことで得た、適度に引き締まった体幹。


 欠かさず続けた「ほどほど」の食事制限と、サウナでの徹底的なデトックスがもたらした、内側から発光するような透明な肌。


 そして何より、首筋に落ちる冷たい刃の幻影に震えていたあの頃とは違う、自らの足で大地を踏みしめ、運命に抗う意志を宿した力強い瞳。


(……18歳。前世の記憶を思い出し、死の運命から逃げ回って、転んで、泥をすすって……ようやく、ここまで来たんだわ)


「王妃様、まだ起きていらしたのですか?」


 扉が静かに開き、腹心の侍女であるランバル夫人が夜食を運んできた。

 銀のトレイに乗っているのは、かつて私が呼吸をするようにむさぼっていた山盛りのマカロンやエクレアではない。私が自らレシピを考案した『ジャガイモと胡桃くるみの全粒粉パン』、そして冷えた胃を優しく休めるための、温かいカモミールのハーブティーだ。


 私はティーカップを受け取りながら、彼女の穏やかな顔を見つめた。

 史実のままなら、彼女は数年後、革命の狂気の中で最もむごたらしい最期を遂げる運命にあった。優しすぎるがゆえに、私に最後まで付き従って。

 だからこそ、私は絶対に彼女を死なせたくなかったのだ。


「ランバル。……あなたを、あんな悲惨な末路に巻き込みたくなくて、私は無我夢中で走ってきたけれど。……すっかり泥臭くなってしまった今のベルサイユ、あなたは少しは好きになれたかしら?」


 私の唐突で不器用な問いに、ランバル夫人は一瞬だけ目を丸くし、それから泣き笑いのような、深くいつくしむような微笑みを浮かべた。


「ええ。今の宮殿は、どんなに高価なダイヤモンドよりもずっとまばゆい『生きる活気』に満ちておりますわ。王妃様が教えてくださった、自らの手で働き、汗を流す喜び。そして、大地の恵みを分かち合い、サウナで心身をととのえる幸せ……。私、息の詰まるような派閥争はばつあらそいをしていた昔より、今の自分が一番、血の通った人間として生きていると感じられます」


 彼女の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

 その涙を見て、私の胸の奥がギュッと締め付けられるように熱くなる。

 私が必死に救いたかったのは、自分自身の細い首だけじゃなかったのだ。私を信じ、愚かな王妃を見捨てずに共に歩んでくれた、この国の人々の命と笑顔。彼らの運命の歯車を、私はジャガイモとサロペットの力で、確かに書き換えたのだ。


 ランバル夫人を優しく下がらせた後、私は隣室の執務室へと足を向けた。

 そこでは、一人の不器用な男がまだランプの明かりを灯し、黙々と作業を続けていた。ルイ16世。私の夫であり、この「健康革命」を技術面で支え抜いてくれた、最強の戦友。


「ルイ、こんな時間まで起きていたら、明日の農作業に響くわよ?」


 彼はハッとして顔を上げ、少し照れくさそうに笑った。その油まみれの大きな手には、最近彼が夜を徹して取り組んでいる、精巧を極めた「小さな鍵」が握られている。


 史実では、彼と私の間に本当の夫婦としての絆が生まれるまで、あまりに長い年月と、取り返しのつかないすれ違いが横たわっていた。けれど、この世界線のルイは、私のポテトを愛し、私のために巨大な下水道を設計し、サウナで共に白樺しらかばの枝で背中を叩き合った。


「アントワネット。君がフランスの民衆の『胃袋』を救い、王室との絆を繋ぎ直してくれたのなら……僕は、君という『心の扉』を完璧に開けるための、たった一つの鍵を作りたいんだ。……あともう少しなんだ。この歯車の噛み合わせが直れば、僕たちは名実ともに、誰にも負けない本当の夫婦になれる気がして」


 彼が言う「鍵」とは、彼自身が抱える身体的な悩みであり、同時に「将来の王位継承」という、彼をずっと苦しめてきた重圧を乗り越えるための、男としての決意の象徴でもあった。


 彼はもう、錠前作りの趣味に逃げ込んでいる孤独な王ではない。真正面から、自分自身と、そして私と向き合おうとしてくれている。


「……ええ、ルイ。焦らなくていい、ゆっくりでいいわ。その扉が開く時、私は今よりもっと強くて、もっと健康で、あなたの隣に立つにふさわしい女性になっているから」


 私は彼の無骨ぶこつで大きな手に、自分の手をそっと重ねた。

 かつては、ただの政略結婚の道具であり、頼りない男だと思っていた彼。今では、彼のこの不器用な優しさと温もりが、どんな極上のスイーツよりも私の心を深くいやしてくれる。


 部屋に戻り、静かに窓を開ける。

 眼下には、月光に照らされて銀色に波打つ「王立第一ジャガイモ菜園」が、どこまでも広がっている。


 かつて、見栄と虚飾きょしょくのためだけに維持されていた無駄な芝生は今、飢えた民を救い、国を豊かにする大地の胎動へと姿を変えた。


(でも、まだこれは序章に過ぎないわ)


 数年後には、史実のうねりがもたらす更なる荒波や、そして「母」としての過酷な運命が私を待ち受けているかもしれない。


 けれど、今の私にはもう、あの断頭台ギロチンの禍々《まがまが》しい幻影は見えない。


 代わりに聞こえるのは、明日を力強く生きようとする民衆の穏やかな寝息と、新しい命が力強く芽吹めぶこうとする、大地の静かな鼓動だ。


(……待ってなさい、未来の私。その時が来ても、私は絶対に負けない。この国を、歴史上最も幸福で、最も腹持ちの良い、健康な国にしてみせるわ!)


 私は温かいカモミールのティーを飲み干し、ふかふかのベッドに深く潜り込んだ。

 明日からは、もう「死から逃げるための必死なダイエット」じゃない。


 「新しいフランスを、この腕でしっかりと抱きしめるための、最強の自分作り」が始まるのだ。


「……おやすみなさい、18歳の私。……頑張ったわね。本当によく、頑張り抜いたわ」


 静かな夜の闇に意識が心地よく遠のいていく中、私はとても美しい夢を見た。

 それは、血塗られた革命の広場などではない。


 黄金色に輝く豊かなジャガイモ畑の真ん中で、少し白髪の混じったルイと、元気に走り回る子供たち、そして心から笑い合う民衆たちと共に、サクサクの特大ポテトパイを頬張ほおばる……どこまでも甘美で、愛おしい「ほどほど」な未来の姿だった。


 マリー・アントワネット、18歳。

 彼女の「疾風怒濤のサバイバル」は、静かに、そして力強く、次なる「ステージ」へと引き継がれる。


      第一章 18歳編 完

第一章を最後まで読んでいただきまして、誠にありがとうございます。


本作は「カクヨム」でも連載しており、あちらの方が少し先行して最新話を公開しています。

もし「続きが早く読みたい!」という方がいらっしゃいましたら、そちらもチェックしていただけると嬉しいです。


▼作品ページはこちらから

https://kakuyomu.jp/works/2912051596417568135

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