第214話 夜霧の温もり
今日も花の都パリは滑らかな石畳と真新しいガス灯が夜の街を照らし、市民たちの穏やかな笑い声が溢れている。
だが、その光が届ききっていない場所もある。
パリ東部のサン・タントワーヌ地区の最果て。華やかな中心部から遠く離れ、ひっそりと佇む薄暗い路地裏の入り口で、一人の女性が足を止めた。
「……随分と、息のしやすい綺麗な街になりましたわね」
夜風に揺れる、シルクで仕立てられた薄手のショール。それをそっと手繰り寄せながら、ジャンヌは路地の奥をじっと見つめた。
彼女は今日、日中の執務を終えた後、護衛を巧妙に撒き、一人お忍びでこの場所を訪れていた。目的は、路地の奥にある崩れかけたレンガ造りの建物――身寄りのない子供たちを預かる、小さな『孤児院』への訪問だ。
彼女は毎月、給料日になると、個人的な資産の中から内緒で、この孤児院へ匿名の寄付を続けていた。
ここはかつて、ジャンヌ自身が人生の『どん底』を過ごした場所だった。名門ヴァロワ家の末裔でありながら親に捨てられ、飢えと寒さに震えていた少女時代。道端のゴミを漁り、泥水をすすり、生き延びるためなら息をするように嘘をつき、他人のパンすら盗もうとした。
ぎゅっと両手を握りしめると、夜風は冷たくないはずなのに、かつての剥き出しの絶望が心臓の奥底から這い上がってくる。
(私は今でこそ『財務長官』とふんぞり返っていますけれど……中身は薄汚い『泥棒猫』のまま。強欲な私が、真っ直ぐで不器用なあの人の隣に立つ資格なんて、あるはずありませんのよ)
脳裏に浮かぶのは、アーサーの顔だった。
自分を『最高の国家資産』と呼び、どんな危険からも守り抜くと誓ってくれた彼。春の雨の日から、二人の関係は確実に「特別」なものへと変わっていた。だが、彼からの不器用な愛情を向けられるたび、ジャンヌの心には強烈な自己嫌悪と恐怖が肥大化していく。
(優しくされるたびに、怖くなりますわ。いつかメッキが剥がれ、本性の醜さを見限られたら……私はもう、二度と立ち直れませんもの)
「……こんなところで、昔を思い出して立ち止まっている暇などありませんのに」
強がって言葉を紡いでも、視界が涙で滲んでいくのを止められなかった。
孤児院の古びた郵便受けに、金貨の入った麻袋をそっと入れる。
「……せめて、あなたたちだけでも。私のような、汚い大人にはならないでね」
誰にともなくそう呟き、足早に路地を立ち去ろうとした、その時だった。
「——おや? やっぱりあんた、あの泥棒猫のジャンヌじゃねえか」
不意に、背後の暗がりから下品で聞き覚えのある声が響いた。
ビクッ、とジャンヌの体が硬直する。
振り返ると、濃さを増した夜霧の中から、三人の男が姿を現した。その中心に立つ、顔に醜い刃物の傷跡がある男を見て、ジャンヌはヒッと息を呑んだ。
「……バルトロ……」
かつて、このスラムで孤児だったジャンヌを騙し、裏社会に売り飛ばそうとした悪徳高利貸しだった。
「ひひっ、随分と出世したじゃねえか、『悪魔の金庫番』様。こんな夜更けに護衛もなしとは、無防備だな」
バルトロが、ねっとりとした視線でジャンヌのドレスを舐め回すように見た。
「……私に何の用ですの。憲兵を呼びますわよ」
ジャンヌは震える声を必死に押し殺し、毅然とした態度を装って一歩後退った。
「ツれないこと言うなよ。俺たちも最近シノギが厳しくてね。あんた、国庫の金庫番なんだろ? 毎月一千リーブルばかり融通してくれ。断るなら……」
バルトロは薄汚れた紙切れ――かつてジャンヌが生きるために書かされた昔の借用書を取り出した。
「財務長官殿がスラムの元詐欺師だって新聞にすっぱ抜かれたらどうなるかな? 暴動が起きて、王妃様もただじゃ済まねえだろうなぁ!」
「なっ……!」
ジャンヌの顔から血の気が引いた。
自分自身の破滅ならいい。だが、自分を信じ、泥沼から救い上げてくれたマリー・アントワネット王妃や仲間たちを、自分の過去の罪で巻き込むことなど絶対にできない。
絶望が、冷たい夜霧とともに彼女の全身を絡め取る。
私はここで、一人で消えるしかないのだ。せっかく手に入れた温かい居場所も、アーサーの隣に立つという夢も、すべて諦めるしかない。
「さあ、どうする? 賢いあんたなら、どうすればいいか分かるよな?」
バルトロがニタニタと笑いながら腕を掴もうと手を伸ばした。
ジャンヌは拳を固く握りしめ、すべてを諦めて目を閉じた。
「——汚い手で、彼女に触れるな」
男が言葉を言い終えるより早く。
夜霧を切り裂き、氷のように冷たく、静かな声が響き渡った。
「な、なんだ!?」
バルトロが振り返った瞬間。
——ヒュンッ!!
漆黒の影が音もなく空から舞い降り、バルトロの顔面に回し蹴りを叩き込んだ。巨体が宙を舞い、石壁に激突して崩れ落ちる。影は流れるような動きで残る二人の男の関節を極め、地面に組み伏せた。
「ア、アーサー……!?」
目の前に降り立ったのは、ミッドナイトブルーのフロックコートを翻す王室警護長アーサーであった。
彼の瞳は殺気を放ちながら、地を這う男たちを見下ろしていた。
「お怪我はありませんか」
アーサーは倒れた男たちを一瞥もせず、静かにジャンヌを振り返った。
「な、なぜあなたがここに……!」
「貴女が宮殿を出た瞬間から、影に潜んでいました。貴女の防衛も、私の任務ですから」
「アーサー! だ、ダメですわ! 彼らは私の過去を知っているんです! もし私が彼らを……」
「おい、そこの騎士! こいつはただの薄汚い泥棒だ! 過去をバラされたくなかったら……」
倒れていたバルトロが血を吐きながら叫んだ。
「……黙れ」
アーサーの声が空気を凍りつかせた。
彼は瞬き一つせずバルトロの首ぐらを片手で掴み上げ、空中に吊るし上げた。
「彼女が過去にどれほどの業を背負っていようが関係ない。現在の彼女が、どれほど多くの国民の命を救い、この国に光をもたらしたか。……貴様らのようなゴミ屑に、彼女の過去を貶める権利など存在しない」
アーサーはそのままバルトロの体を地面に叩きつけ、冷ややかに見下ろした。
「二度と彼女の前に姿を現すな。次は、息の根を止める」
「ひ、ひぃぃぃぃぃっ!!」
圧倒的な死の恐怖に耐えきれず、男たちは這いつくばるようにして夜の闇へと逃げ去っていった。
静寂が戻った路地裏。
アーサーは短剣を収めると、静かに振り返り、ジャンヌを見つめた。
「……終わりました。もう大丈夫です」
「……どうして」
ジャンヌはガタガタと震える体を抱きしめながら、その場にへたり込んだ。助かったという安堵よりも、自分の最も醜い部分を彼に聞かれてしまったという絶望が、胸をナイフで抉るように痛めつけていた。
「宮殿を出た時から、貴女の歩調はひどく重かった。だから……」
「……見ないでくださいませ……!」
ジャンヌは両手で顔を覆って激しく肩を震わせた。
「私を見ないで! 私は……あなたが思っているような、立派な人間じゃありませんわ! ドブネズミのように地を這い、人を騙して生きてきた! 生きるためなら他人のパンすら盗もうとした、汚くて、最低な女なんですのよ!!」
溜め込んでいた劣等感と恐怖がついに限界を超えて決壊し、涙がボロボロと零れ落ちる。
「だから……私なんかに、これ以上優しくしないで! 」
嗚咽が響き渡る。ジャンヌは、アーサーが軽蔑の目を向けて去っていくのを覚悟していた。
しかし。
――ギュッ。
アーサーは、拒絶するジャンヌの体を力強く、それでいて壊れ物を扱うように優しく引き寄せ、その厚い胸の中にすっぽりと抱きすくめたのだ。
「ア、アーサー……?」
「汚い……ですか。最低の女……ですか」
アーサーはジャンヌを強く抱きしめたまま、自らの大きな右手を、彼女の涙で濡れた視線の前にかざした。
幾多の死線を潜り抜けた証である傷跡が刻まれた、分厚く無骨なその手。
「ならば、私のこの手はどうなるのでしょうね」
「え……?」
「私は物心ついた時から、人の温もりも愛も知らず、ただ命を奪うためだけの『刃』として生きてきた。洗っても洗っても決して落ちない、死の匂いが染み付いている」
アーサーの声音は、かつてないほどに弱く切実だった。
「私こそ、貴女のような美しく聡明な女性の隣に立つ資格など、永遠にないと思っていた。私のような血塗られた化け物は、貴女の光を汚してしまうと」
「そ、そんなことありませんわ!!」
ジャンヌは考えるよりも先に、アーサーの背中に腕を回し、力いっぱい彼を抱きしめ返していた。
「あなたは化け物なんかじゃありません! 私を命懸けで守ってくれる、誰よりも優しくて気高い人ですわ! あなたがどんな過去を背負っていようと、今のあなたは……私の、かけがえのない……っ!」
「……ええ。貴女がそう言ってくれたから、私はこうして光の射す場所を歩けるようになったのです」
アーサーはゆっくりと顔を上げ、ジャンヌの涙を指先で丁寧に拭い去った。その真っ直ぐな瞳が、彼女の視線を射抜く。
「闇の中で足掻いたからこそ、貴女は誰よりも人の命の温かさを知っている。貴女の過去は汚れではない。フランスを救い、私に『愛』を教えてくれた」
「アーサー……っ」
「ジャンヌ」
アーサーは、いつもの『照れ隠しの鎧』をすべて脱ぎ捨てて、一人の男として彼女の名前を呼んだ。
「もう、回りくどい言い訳をするのは終わりにしましょう」
アーサーはジャンヌからそっと体を離すと、霧に濡れる石畳の上に静かに片膝をついた。
「あ、アーサー……!? なにを……膝が汚れてしまいますわ!」
慌てるジャンヌを見上げながら、アーサーは懐から小さなビロードの箱を取り出した。
開かれた箱の中には、初夏の星空を切り取ったかのように澄み切った、一粒の美しいサファイアが輝く指輪が収められていた。
「王妃様から支払われる給与。誰の血も吸っていない、貴女たちを守ることで得た清廉な報酬だけを貯めて買いました。貴女のその、サファイアのように美しい瞳に、いつでも見惚れていたから」
「あ…………っ」
ジャンヌは両手で口元を覆い、言葉を失った。
暗闇しか知らなかった不器用な刃が、彼女のすべてを肯定し、永遠の愛を誓っている。
「私のすべてを懸けて、貴女を幸せにしたい。……どうか、私と結婚してください」
一切の飾りのない、不器用で、まっすぐなプロポーズ。
夜風が、二人の髪を優しく揺らす。かつて絶望と飢えに泣いた暗い路地裏で、ジャンヌの瞳からは、圧倒的な幸福の涙が溢れ出していた。
「……あなたは、本当に大馬鹿者ですわ……っ。人を見る目が節穴ですの……大赤字確定の、最悪の取引ですわ……っ」
照れ隠しの言葉を紡ごうとしても、声が震えて上手く言えない。
「……でも。……私、あなたのお嫁さんに、なりたいですわ……っ!!アーサーが大好きですわ!!」
最後は、ひとりの女性としての純粋な本音だった。アーサーの顔に、満開の陽だまりのような優しい笑顔が咲いた。
彼は静かにジャンヌの左手の薬指に指輪を嵌めると、彼女の華奢な体を愛おしそうに抱き上げ、夜空の下で深く誓いの口づけを交わした。
「愛しています、ジャンヌ。生涯をかけて、貴女を幸せにする」
「私も……愛していますわ、アーサー。私のすべてを、あなたに捧げます……!」
暗闇しか知らなかった刃と、愛を知らずに生きてきた悪魔の金庫番。
傷だらけだった二つの魂は、過去のすべての呪縛を夜霧の中に溶かし去り、永遠の温もりを手に入れた。二人の間に残ったのは、偽りなき、まっすぐな純愛だけだった。




