第215話 最後の夜
情熱的なプロポーズ。
その甘く劇的な夜からパリへ帰還した翌朝。チュイルリー宮殿の作戦会議室は、いつもと違う奇妙な空気に包まれていた。
「……ああっ! いけませんわ、また繰り越しの桁を間違えましたわ!」
財務特別監査局長のジャンヌが、今日三度目となる計算ミスをやらかし、真っ赤な顔で頭を抱えていた。チラチラと、背後に控えるアーサーの姿を盗み見てはビクッとしている。
「ジャンヌ、もう隠さなくていいわよ!」
私はたまらず扇子をパンッと叩き、大笑いした。
「私たち、ちゃんと報告を待ってるんだからね!」
「お、王妃様!? まさかまた監視してたんですのッ!?」
ジャンヌが涙目で抗議する中、アーサーが静かに前へ進み出た。
彼はジャンヌの隣に並び立つと、私とルイに向かって深く、最上級の礼をとった。
「王妃様、国王陛下。……事後報告となりましたこと、お詫び申し上げます」
いつもの冷徹な眼ではない。一人の男としての熱と覚悟を宿した瞳で、アーサーははっきりと告げた。
「私、アーサーは、ジャンヌ・ド・ラ・モット・ヴァロワ殿と、生涯の伴侶としての契約を結びました。……彼女のすべてを、私が一生涯、命に懸けて守り抜きます」
「ア、アーサー……っ」
ジャンヌが顔を両手で覆い、彼の腕にそっと身を寄せた。
その言葉を聞いた瞬間、会議室の空気が一気に弾けた。
「やった……やったじゃないか、アーサー! ジャンヌ!!」
ガシャンッ! と持っていたレンチを取り落としたルイが、満面の笑顔で叫んだ。
「本当におめでとう!! 僕たち家族にとっても、最高に嬉しい知らせだよ!!」
「おめでとうございます!!」
ロベスピエールが涙をボロボロと流しながら立ち上がった。
「身分や過去の壁を越えた真実の愛! これこそ究極の社会契約です! 私、猛烈に感動しております!!」
「奇跡のような確率を引きましたね。お見事です、そして、本当におめでとうございます」
ラプラスも眼鏡を押し上げながら、珍しく心からの笑みをこぼした。
「みんな……っ」
仲間たちからの温かく、真っ直ぐな「おめでとう」の嵐に、ジャンヌはたまらず涙を溢れさせた。
「ありがとう存じますわ……! 私、このおバカで過保護な人と、絶対に……世界一幸せな家庭を築いてみせますわ……っ!!」
「ええ、ジャンヌ! 絶対に幸せになりなさい!」
私は駆け寄り、涙を流す彼女を力いっぱい抱きしめた。
「さあ、こうしちゃいられないわ! 国家の最重要人物二人の門出よ! 最高の結婚式を挙げるわよ! 式はノートルダム大聖堂! ドレスはベルタンの特注品ね!」
私は全員を見渡して、高らかに宣言した。
「……それと、アーサー! そして男性陣!」
「ハッ!」
「結婚式の前夜といえば、男たちだけで祝う『独身最後の夜の宴』が必須よ! ルイ! 思い切りお祝いしてあげて!!」
「任せておけ! とっておきの秘蔵ワインを開けよう!!」
私の号令とともに、仲間たちは最高の笑顔で動き出した。
残されたジャンヌとアーサーが、照れくさそうに、けれど誰よりも幸せそうに見つめ合う。その光景は、どんな政治的勝利よりも私の心を温かく満たしてくれた。
* * *
そして迎えた、結婚式の前夜。
チュイルリー宮殿の深くにひっそりと設けられたプライベート・ラウンジでは、新郎となる男を囲み、ささやかながらも熱を帯びた宴が開かれていた。
「さあアーサー! 今日は僕が個人的にコレクションしていた、極上の年代物ワインを開けちゃうぞ! 君の新たな門出に、乾杯だ!」
「「「乾杯!!」」」
グラスを高く掲げたのは、満面の笑みを浮かべる国王ルイ、軍服の襟元を少し緩めたナポレオン、そして銀縁眼鏡を光らせるラプラス。フランスの頭脳とも呼べる錚々《そうそう》たる顔ぶれである。
だが、本日の主役であるはずのアーサーは、注がれたルビー色の液体を前にしても、いつもの漆黒のコート姿のまま、微動だにせずグラスの縁をじっと見つめ続けていた。
「……どうしたんです、アーサー殿。いつものような冷静さがありませんね」
ラプラスが、ワインを一口含みながら不思議そうに指摘する。
「……俗に言う、マリッジブルーというやつですか」
ナポレオンが知ったような顔で頷くと、アーサーはふぅ、と長く重い息を吐き出し、ぽつりと口を開いた。
「……恐ろしいのです」
「恐ろしい? 君ほどの達人がかい?」
ルイが驚いて目を丸くした。
「ええ。刃も、砲火も、恐れたことは一度もありません。……ですが、私は『日常』というものが分からない」
アーサーの大きな手が、グラスの脚をきつく握りしめる。
「物心ついた時から、人の命を奪うこと、あるいは要人を防衛する術しか学んでこなかった。……私は、普通の夫として、愛する女性を日常の中でどう幸せにすればいいのか、その方法が全くの空白なのです」
無敵の暗殺者が初めて見せた、一人の男としての「弱さ」と「未知への不安」。
それを聞いたナポレオンは、腕を組んで深く頷き、極めて真剣な顔でアドバイスを始めた。
「案ずることはありません、アーサー殿。結婚生活というものを一つの『長期防衛戦』と捉えればいいのです。戦線を維持するためには、何より家庭内の『兵站』が重要です。定期的なプレゼントという名の補給線を確保し、記念日には花束を贈って妻の士気を高揚させる。これを怠れば、陣地は内部から崩壊します」
「確率論の観点からも補足しておきましょう」
ラプラスが眼鏡をクイッと押し上げる。
「記念日や誕生日の忘却は、夫婦間における致命的紛争の発生確率を跳ね上げます。その致死率は戦場よりも高い。……アーサー殿、貴方の脳内に彼女の好みの花、食事、そして記念日を網羅した『カレンダー』を構築しなさい」
「致死レベルのエラー……。承知しました」
真顔でトンチンカンな軍事・数学的アドバイスを送る天才たちと、それを一言一句違わず必死にメモする最強の暗殺者。
そのあまりにもシュールで不器用な男たちの光景に、ルイはたまらず「ぷっ」と吹き出し、やがて腹を抱えて笑い出した。
「アハハハハッ! だめだ、君たち面白すぎるよ! 夫婦関係は軍事作戦でも数式でもないんだから!」
「ル、ルイ陛下……?」
「アーサー。君は真面目すぎるんだ」
ルイは笑い涙を拭うと、アーサーの肩をポンと優しく叩いた。
「最初から完璧な夫なんて、この世のどこにもいないさ。僕だってそうだった。最初は引きこもりで、アントワネットの顔すらまともに見ることもできなかった。自分が夫として彼女を幸せにできるかなんて、全く自信がなかったんだ」
ルイの温かい声に、アーサーは手帳から顔を上げた。
「夫婦っていうのはね、最初から完成されたマニュアルがあるわけじゃない。歯車と同じで、時には噛み合わなくて軋むこともある。……でも、摩擦を減らすために、自分がちょっとバカになって潤滑油になればいい。僕とマリーだって、今でも毎日、手探りで『家族』をやっているんだよ」
ルイは、ワイングラスを、アーサーのグラスにカチンと当てた。
「君がジャンヌを幸せにするんじゃない。君とジャンヌ、二人で一緒に『幸せ』を作っていくんだよ。君が彼女を大切に想う、そのまっすぐな心さえあれば、絶対に大丈夫だ。僕が保証する」
「……二人で一緒に、作る」
アーサーの胸の奥で、ガチガチに張り詰めていた緊張の糸が、春の雪解けのようにスゥッと解けていくのを感じた。
「……ありがとうございます、陛下。皆様のおかげで、私の心の迷いが晴れました」
アーサーの口元に、憑き物が落ちたような、柔らかく清々しい笑みが浮かんだ。
明日の結婚式に向けて、最強の騎士は、一人の「夫」としての覚悟を静かに固めたのである。
* * *
一方、その頃。
私の私室には、言葉を失うほど美しい、一着のウェディングドレスが飾られていた。
フランス最高峰のリヨン産シルクを惜しげもなく使用し、流れるようなAラインのシルエット。胸元から裾にかけては、一流の職人たちが手縫いで仕上げた繊細な銀糸の刺繍と、真珠の装飾が施されている。
「……さあ、ジャンヌ。袖を通してみて」
「は、はい……っ」
数人のお針子の手によって、ジャンヌはその純白のドレスに身を包んだ。
髪を美しく結い上げられ、薄いレースのベールを被せられて、巨大な姿見の前に立つ。
「「「…………わぁっ」」」
部屋にいたすべての人間が、感嘆のため息を漏らした。
銀縁眼鏡を外した彼女の素顔は、凛とした知性と、恋を知った女性特有の柔らかな色気に満ち溢れ、まるで舞い降りた純白の女神のようだった。
「……これが、私……?」
ジャンヌは、鏡に映る自分自身の姿を見つめ、震える指先でドレスのシルクにそっと触れた。
「王妃様……この生地の滑らかさ、それにこの手刺繍……。一体どれほどの予算が……あ、いえ、違いますわ。今はそんなこと……」
いつもの癖で原価を計算しかけた彼女だったが、途中でハッとして口をつぐんだ。
そして、その大きな青い瞳から、ポロポロと大粒の涙が溢れ出したのだ。
「どうしたの、ジャンヌ!? どこかキツいところがあった!?」
私が慌てて駆け寄ると、ジャンヌは首を横に振り、顔を両手で覆って泣き崩れてしまった。
「ち、違いますわ……。違うんですの……」
ジャンヌは、震える声で、ずっと胸の奥に抱え込んでいた恐怖を吐き出した。
「私……ずっと、仕事ばかりして生きてきました。生きるために嘘をついて、人を出し抜いて、数字とだけ向き合って……。そんな薄汚れた私が、こんな……こんなに綺麗な『純白』を着て、本当に、彼のお嫁さんになっていいのでしょうか……っ」
彼女の心の中にずっと燻っていた、深い自己嫌悪。
あんなにも優しくて、まっすぐに自分を愛してくれるアーサーに対して、自分は本当に「ふさわしい妻」になれるのか。普通の女の子が持つような愛らしさも、家庭的な温かさも知らない自分が、彼を失望させてしまうのではないかという、痛切なマリッジブルーだった。
「こんなに真っ白なドレス……私には眩しすぎますわ……っ。王妃様、ごめんなさい、私……怖いんですの……っ」
泣きじゃくるジャンヌ。
私は、お針子たちに目配せして部屋から下がらせると、ジャンヌの前に静かに膝をつき、彼女の両手を優しく包み込んだ。
「……ジャンヌ。こっちを見て」
「王妃様……っ」
「いい? 勘違いしないで。この『純白』はね、過去の汚れを隠すための色じゃないのよ」
私は、涙でぐしゃぐしゃになった彼女の頬を、指で優しく拭ってあげた。
そして、ジャンヌの瞳を真っ直ぐに見つめて、優しく微笑んだ。
「これからあなたとアーサーが、二人で一緒に描いていく……『未来のキャンバスの色』よ」
「……未来の色……っ」
「そうよ。あなたは、世界一強くて美しい、私の親友なんだから。……誰よりも幸せになりなさい。堂々と、彼の隣で笑ってあげなさい」
私の言葉に、ジャンヌの瞳から再び涙が溢れ出た。
だがそれは、劣等感の涙ではなく、心に詰まっていた重い鎖が解け落ちた、温かい安堵の涙だった。
「王妃様……マリー様……っ!!」
ジャンヌは、ドレスがシワになるのも構わず、私に強く抱きついた。
「ありがとうございます……っ。私、私……明日、世界で一番幸せな花嫁になりますわ……っ!!」
* * *
その日の夜更け。
眠りについたチュイルリー宮殿の、月明かりが差し込む静かな回廊。
緊張でどうしても寝付けず、温かいミルクでも飲もうと厨房へ向かっていたジャンヌは、角を曲がったところで、ふいに見慣れた長身の影とすれ違った。
「……アーサー?」
「ジャンヌ……」
彼もまた、明日の式を前に心が落ち着かず、宮殿内を無意味に歩き回っていたのだった。
夜の静寂の中、ふいに出会ってしまった二人。
明日は夫婦となる二人が、今はただの男と女として、少しの距離を置いて見つめ合う。
「あ、あの……こんな夜更けに、どうしましたの?」
「……少し、夜風に当たろうかと。貴女こそ」
「わ、私も……少し喉が渇きまして」
不器用な二人は、気の利いた甘いセリフなど一つも言えなかった。
ただ、互いの顔を見つめているだけで、胸の奥がギュッと締め付けられるように熱くなり、言葉が喉に張り付いてしまうのだ。
数秒の、甘くもどかしい沈黙。
やがて、アーサーがゆっくりと一歩だけ歩み寄り、ジャンヌの小さな手を、自らの大きな手でそっと包み込んだ。
「……ジャンヌ」
「はい……」
「私は、普通の男のように、気の利いた言葉で貴女を喜ばせることはできないかもしれない。……不器用で、至らない夫になるかもしれない」
アーサーの真摯な瞳が、月明かりの下でジャンヌを真っ直ぐに捉えた。
「……それでも。私の命のすべてを懸けて、貴女を世界で一番幸せにしたいと、心から願っています」
その、一切の飾りのない、どこまでもまっすぐな言葉。
ジャンヌの目から、またしてもツンと涙が滲みそうになる。だが、彼女は今度は泣かなかった。
彼女は、包み込まれた彼の手を、力強く、そして愛おしそうに握り返した。
「……私も、同じですわ。お料理も裁縫も苦手で、計算ばかりしている可愛げのない女ですけれど……」
ジャンヌは、最高の笑顔を浮かべて、彼を見上げた。
「あなたと作る温かい家族のためなら、私のすべてを捧げますわ。……明日は、よろしくお願いしますね。アーサー」
「……ええ。こちらこそ、ジャンヌ」
ただそれだけの、短い会話。
けれど、繋がれた手から伝わる互いの熱は、どんな情熱的な愛の言葉よりも深く、二人の未来への揺るぎない信頼と愛情を物語っていた。
窓の外では、夜明けを告げる鳥たちが、微かにさえずり始めている。
不器用な男と女の結婚式前夜が、静かに、そして輝かしい朝へと向かって明けていくのであった。




