第213話 人生二週目同盟
1786年、春。
チュイルリー宮殿の庭園には、色鮮やかなチューリップが咲き乱れ、穏やかな陽気が満ちていた。
マリー・テレーズは、一歳と数ヶ月を迎えていた。ジョゼフにもらった手押し車での特訓の甲斐もあり、今では自分の足でしっかりと宮殿の廊下を歩き回れるようになっている。
そして、身体が成長するにつれ、彼女の中にある『元・王妃』としてのフラストレーションが、いよいよ限界に達しようとしていた。
「ねえ、ママン。そろそろ、普通に喋ってもいい頃じゃないかしら?」
午後の日差しが差し込むプライベート・サロン。
誰もいないのを確認したテレーズは、ミルクの入った銀のマグカップをテーブルにコトンと置き、極めて流暢な大人のフランス語で切り出した。
「ぶふっ!?」
私は、飲んでいた紅茶を噴き出しそうになった。
「な、なに言ってるのよテレーズ! まだ一歳ちょっとよ!? さすがにペラペラ喋り出すには早すぎるわ!」
「だって、めんどくさいんだもの。いくらなんでも『あーうー』だけで意思疎通を図るのには限界があるわ。昨日だって、ジャンヌ局長が持ってきた新年度の予算案にツッコミを入れたかったのに、赤ちゃん語のせいでただの『ご機嫌斜めな赤ん坊』として処理されたのよ! 私の高度な財政的見地を無視するなんて!」
テレーズは、小さな両手を腰に当ててフンスと鼻息を荒くした。
「それに、もう歩けるのよ? 歩けるなら喋れてもおかしくないじゃない。……いい? 今日から私は『天才児』として、公の場でも言葉を発していくわ」
「ダメよ! 絶対にダメ!」
私は顔を青ざめさせ、テレーズの小さな両肩を掴んだ。
「いい、テレーズ? 確かにあなたは天才かもしれないけど、一歳児が『財政的見地』とか『プロイセンの動向』とかを語り出したら、絶対に『悪魔憑き』だと思われて火あぶりにされるわよ! この時代の迷信深さを甘く見ちゃダメ!」
「むぅ……」
「せめて、まずは『パパ』とか『ママ』とか『まんま』とか、そういう可愛らしい単語からスタートしなさい。段階を踏むのよ、段階を!」
「……わかったわよ。パパ、ママ、ね。全く、世を忍ぶ仮の姿というのも疲れるわね」
テレーズが盛大なため息をつきながら、マグカップのミルクをグイッと煽った、まさにその時である。
ガチャリ。
「マリー、先日の軍事パレードの報告書をお持ちし……」
ノックと共にサロンの扉を開けて入ってきたのは、軍服に身を包んだナポレオンであった。
ピタッ。
サロンの空気が凍りついた。
ナポレオンは、開いた扉の前に立ったまま、目を丸くして私たちを見つめている。
無理もない。つい数秒前まで、テレーズは小さな腕を組みながら『世を忍ぶ仮の姿というのも疲れるわね』と、歴戦の政治家のような口調でボヤいていたのだから。
「「…………」」
私とテレーズは、まるで石像のように固まった。
(……や、やばい。聞かれた。完全に聞かれたわママン!)
(だから言ったじゃないのテレーズ! あなたの声、無駄によく通るんだから!)
私たちは、音のないアイコンタクトで激しい議論を交わした。
「……あ、あう?」
テレーズは、とりあえず一縷の望みをかけて、右手に持ったマグカップを傾け、首をコトンと曲げて『無邪気な赤ちゃんスマイル』を作ってみせた。
しかし。
「……王女殿下。今、極めて流暢な言葉で、予算案や財政的見地について語っておられませんでしたか?」
ナポレオンの鋭い鷲のような眼差しは、一切のごまかしを許さなかった。
彼はゆっくりと扉を閉め、軍靴の音を響かせながら私たちに歩み寄ってきた。
(……終わったわ。悪魔憑きとして、修道院の地下牢に幽閉されるのね……)
私が絶望で目を閉じかけた、その時。
「……ええ。聞いた通りよ、ボナパルト将軍」
テレーズは、パチッと目を開き、マグカップをテーブルに叩きつけるように置いた。
私が「えっ!? テレーズ!?」とパニックになっているのを無視し、彼女は小さな背筋をピンと伸ばして、ナポレオンを真っ直ぐに見据えた。
「見られたからには仕方ないわね。……そうよ。私はただの赤ん坊ではないわ。生まれながらにしてフランスの未来を見通す知恵を授かった、神童よ。これ以上の追及は不敬罪に問うわよ」
開き直りである。
どうせ誤魔化しきれないのなら、圧倒的な『王者の風格』でハッタリをかまし、相手を飲み込んでしまうしかない。数々の修羅場をくぐり抜けてきた彼女ならではの度胸だ。
だが、ナポレオンはそれを聞いて、なぜかフッと小さく笑った。
「神童、ですか。……いいえ、王女殿下。その『世を忍ぶ仮の姿というのも疲れる』という独特の言い回しと、人生に疲れ切ったような深いため息。……さてはあなたも、『二周目』ですね?」
「「……えっ?」」
私とテレーズは、素っ頓狂な声をハモらせた。
「に、二周目……?」
テレーズが目をパチクリとさせる。
「隠さなくても大丈夫ですよ。……マリー、王女殿下にも私の『秘密』を共有してよろしいですね?」
ナポレオンが私に向かって確認してくる。
「あ、ああ、そうね。……テレーズ、実は言ってなかったんだけど。私とナポレオンはね、お互いが『転生者』だってことを、数年前から知ってるのよ」
「……はぁっ!?」
テレーズが、ベビーチェアから転げ落ちそうになった。
「ママンが未来から来たのは知ってたけど、ボナパルト将軍! あなたも転生者だったの!?」
「ええ。私は前世において、フランス革命の後に登場し、フランス皇帝として全ヨーロッパを武力で支配しておりました。……まあ、最終的には島流しにされて孤独に死んだわけですが」
ナポレオンが、事もなげに自身の壮絶な前世を明かす。
「こ、皇帝……!? 私の後に、そんなとんでもない奴が玉座に座っていたの!?」
「……私の後? 王女殿下、あなたの前世は一体……」
ナポレオンが、怪訝な顔でテレーズを見つめた。
「……ふん。驚かないでよね」
テレーズは、小さな腕を組み、最高に尊大な態度で胸を張った。
「私は前世において、正真正銘のフランス王妃、マリー・アントワネットだったのよ!!」
「…………は?」
あの常に冷静沈着なナポレオンの口が、ポカンと開いた。
彼は、テレーズの顔と、隣にいる私の顔を、何度も何度も往復して見比べた。
「ほ、本物の王妃様!? では、今の王妃様は、未来から来たとおっしゃっていましたが、一体……!?」
「私は21世紀の未来から来た、マカロンを喉に詰まらせて死んだ食いしん坊の女子大生よ」
私がサラリと告白すると、ナポレオンは頭を抱えてフラフラと後ずさった。
「……なんというカオスな王室だ。前世の王妃様ご本人が今生で娘に転生し、21世紀の未来の平民が王妃の中身になり、19世紀の元・皇帝が軍事司令官をやっている……? この国の血統と歴史は、どうなっているんですか……!」
軍神の優れた情報処理能力をもってしても、この時空のバグり散らかした家系図を処理するのは少々時間がかかったようだ。
だが、数分後。
冷静さを取り戻したナポレオンは、なぜか深く、深く頷きながら、テレーズの前に片膝をついた。
「……なるほど。道理で、生後一年そこそこの赤ん坊とは思えないほどの威厳と、冷徹なまでの合理性をお持ちだと思いました。前世が王妃様ご本人であったなら、すべての辻褄が合います」
ナポレオンは、真剣な眼差しでテレーズを見上げた。
「王女殿下。……『人生二周目』って、本当に疲れますよね」
「……っ!!」
テレーズの瞳が、カッと見開かれた。
「わ、わかる!? あなたもわかるのね、ナポレオン!!」
テレーズは、ベビーチェアから身を乗り出し、ナポレオンの手を小さな両手でガシッと握りしめた。
「生まれた瞬間から、大人の自我が完成しているのに、周りの大人たちから『赤ちゃん言葉』であやされるあの屈辱! 大人の鈍い動きを見て『ああっ、私がやった方が早いわ!』って思うのに、体が小さくて何もできないあのジレンマ!!」
テレーズが、日頃の鬱憤を滝のように吐き出し始めた。
「激しく同意します!!」
ナポレオンも、我が意を得たりとばかりに熱く語り返す。
「私も、兵学校時代に年上の教官から『子供のくせに生意気だ』と頭ごなしに説教されるたびに、心の中で(貴様、私が前世で何十万の大軍を指揮したと思っているのだ)と、何度怒りで血管が切れそうになったことか!大人の未熟な思考を、子供の体で黙って聞いていなければならないのは、精神的な拷問です!!」
「そう! そうなのよ!! しかも食事! 離乳食のあの味気なさ! 私は最高級のスイーツが食べたいのに、すりつぶした野菜ばかり口に運ばれる身にもなってちょうだい!!」
「激しく分かります! 兵学校の硬いパンと薄いスープ! 前世で最高の専属シェフの料理を食べていた私にとって、あんなものはただの泥水でした!」
……なんということだろう。
フランス王妃(前世)と、フランス皇帝(前世)。
本来なら歴史の教科書でしか交わらないはずの二人の巨大な魂が、「転生者ゆえの子供時代の苦労」という、極めてニッチでシュールな『人生二周目あるある』で、意気投合してしまったのだ。
「ちょっとちょっと、私のサロンで前世の苦労話大会始めないでよ……」
私がツッコミを入れるが、二人の熱いトークは止まらない。
「それにしても、ナポレオン。あなたは前世で皇帝だったのでしょう? 死因はなんだったの?」
テレーズが興味津々で尋ねた。
「……過労によるストレスと、胃がんです。孤島に流刑にされ、誰にも看取られることなく、孤独の中で死にました。……そりゃあもう、胃に穴が空くような、血を吐くような苦しみでしたよ」
ナポレオンが、遠い目をして重々しく語る。
「胃がん……。それはお気の毒に」
テレーズも、神妙な顔で頷いた。
テレーズも神妙な顔で頷いた後、少しだけ顔をしかめた。
「でも、あなた、私の最期がどうなったかは……歴史を知っているなら、言わなくても分かるわよね?」
「……はい」
ナポレオンは、ひどく痛ましそうな顔で目を伏せた。
「革命広場での、ギロチンによる公開処刑。私が台頭する直前の、あの狂気に満ちた時代の凄惨な出来事です。……お辛かったでしょう」
「そりゃあもう、首筋がヒヤッとするどころの話じゃなかったわ。パリの群衆に囲まれて、後ろ手に縛られて、首を刃でスパーンッ! よ」
テレーズが、首に手を当ててトラウマを思い出すように震えた。
「ギロチンと、胃がん……。お互い、前世の最期はロクなものではありませんでしたね」
ナポレオンが、深く同情するように息を吐く。
そして、二人の視線が、スッと私の方に向けられた。
「……ママンの死因はなんだっけ?」
「ん?……マカロンを丸呑みして、喉に詰まらせての窒息死だけど」
「「平和か!!!」」
テレーズとナポレオンの、息の合った完璧なツッコミがサロンに響き渡った。
「な、なによ! マカロンだって苦しかったんだからね! 喉の奥の水分全部持って行かれて、ヒューッてなったんだから!」私が必死に弁明するが、ギロチンと胃がんで悲惨な最期を遂げた二人からは、「甘ったれるな」という冷たい視線が突き刺さるばかりだった。
「……まあ、よいでしょう」
ナポレオンはコホンと咳払いをして、居住まいを正した。
「王女殿下の中身が王妃様ご本人であると知って、私はこれ以上なく心強くなりました。……これからは、アベンジャーズの軍事会議や予算会議において、私があなたの『通訳』を務めましょう」
「あら、いいの?」
「ええ。一歳の赤ん坊が財政を語れば悪魔憑きですが、『軍事司令官ナポレオンの提案』として私が代弁すれば、誰も疑いません。……これからは、王女殿下が『真の影の参謀』として、我々に知恵をお貸しください」
「ふふっ。話が早くて助かるわ、ナポレオン」
テレーズは、小さな右手をスッと差し出した。
ナポレオンは、その小さな手を、軍人としての最大の敬意をもって、しっかりと握り返した。
「よろしく頼むわよ、私の優秀な『同盟相手』」
「はっ。我が命に代えましても、王女殿下」
元・王妃と、元・皇帝。
歴史の修正力すらも震え上がるような、フランス史上最もチートで、最もカオスな『人生二周目同盟』が、ここに爆誕したのである。
「……あの、私、完全に蚊帳の外なんですけど?」
マリー・アントワネット、30歳。
前世のトラウマを語り合い、すっかり意気投合してしまった二人の姿を見ながら私は、自分のマカロン窒息死という死因のショボさに、一人静かに涙をこぼすのだった。




