第212話 至高のバースデーケーキ
外は底冷えのする寒さだが、チュイルリー宮殿のプライベート・サロンの中は、色とりどりの風船や華やかなリボンの装飾で埋め尽くされ、暖炉の火がポカポカと部屋を暖めていた。
今日は、フランス王室にとって、いや、私個人にとって、極めて特別で、そして非常に複雑な感情が入り混じる『ダブル・アニバーサリー』の日であった。
「王女殿下、一歳のお誕生日、誠におめでとうございます! そして……」
財務長官のジャンヌが、銀縁眼鏡をキラリと光らせて、私の方へと向き直った。
「王妃様におかれましても! めでたく『三十歳』の節目を迎えられましたこと、心よりお祝い申し上げますわ!!」
「……ありがとう、ジャンヌ。でも、その『三十歳』っていう部分、そんなに大声で強調しなくていいのよ」
私は、豪華なドレスに身を包みながらも、ズーンと重い溜め息をついてソファに沈み込んだ。
三十歳。三十路、である。
前世の現代日本において、女子大生でマカロンを喉に詰まらせて死んだ私にとって、「30」という数字は、未知の領域だった。
それがどうだ。異世界転生して必死で駆け抜けていたら、いつの間にか20代が終わり、三十路に突入してしまったのだ。
「ああ……お肌の曲がり角。基礎代謝の低下。最近、夜更かしすると翌日の顔のむくみが取れないのよね……。少し油断してケーキを食べたら、そのまま下腹部の浮き輪肉に直行するし……」
私は両手で頬を覆い、前世の現代人特有の『三十代突入のメランコリー』に苛まれていた。
「何を仰いますか、王妃様!」
ジャンヌが分厚い帳簿をバンッと叩く。
「三十歳とは、最も脂が乗ってハイパフォーマンスを叩き出せる『黄金期』の始まりですわ!」
「三十歳。指揮官として、経験と体力のバランスが最も研ぎ澄まされる年齢です。これからの王妃様の采配に、さらに期待が持てますね」
ナポレオンも、懐中時計を片手にウンウンと頷いている。
「あなたたちねぇ……女性の心に対するデリカシーっていうものが、圧倒的に欠如しているわよ!!」
私がクッションを投げつけようとした、その時。
(……はぁ。本当に、ママンはどこまで俗物なのかしらね)
特注のベビーチェアにふんぞり返りながら、本日のもう一人の主役、一歳を迎えたマリー・テレーズは、心の中で盛大なため息をついていた。
(諸外国を震え上がらせた最強の国母が、たかが『三十歳になったくらい』でこの世の終わりみたいな顔をして。……私なんて、前世で三十歳の頃には、首飾り事件だの借金だので毎日針の筵に座らされていたというのに)
テレーズのサファイアブルーの瞳は、呆れを通り越して、どこか慈しむような光を帯びていた。
(でも……まあ、いいわ。あなたが必死に戦ってくれたおかげで、私は今、こうして温かい部屋で、誰の悪意にも晒されることなく一歳の誕生日を迎えられているのだから。……三十歳、おめでとう、ママン)
テレーズが心の中でこっそりとデレていた、まさにその瞬間。
「さあ! 皆の者、道を開けよ! 本日のメインイベント、二人の主役のためのバースデーケーキの入場だ!!」
バーンッ! というドアの開く音と共に、油まみれの顔をした国王ルイと、満面の笑みを浮かべた王太子ジョゼフが、二台の銀のワゴンを押して登場した。
「パパとぼくからの、プレゼントだよ!!」
「あうー♡ きゃはっ♡(待ってましたわ! さあ、存分に祝いなさい!)」
テレーズは、先ほどの大人びた思考をコンマ一秒で投げ捨て、愛らしい産毛の生えた頭に小さなティアラを乗せ、両手をパタパタと振って完璧な赤ちゃんスマイルを振りまいた。
前世で「パンがなければお菓子を食べればいいのに」という言葉を捏造されるほど、生前の彼女は生粋のスイーツ好きである。オーストリア時代から最高級の菓子を食べてきたテレーズの舌は、肥えに肥えている。
「ふふふ……見てくれ! まずはテレーズ! 一歳のお誕生日おめでとう!! このケーキを作るために、僕がスミートン先生と共同開発した新発明、『超高速蒸気式ホイッパー』の成果を味わってくれ!」
ルイが、一台目のワゴンのクロッシュを勢いよく開けた。
「……あう?(……ん?)」
テレーズの前に現れたのは、真っ白なクリームで綺麗にデコレーションされ、上に新鮮なイチゴがたっぷり乗った、美しいケーキだった。
……しかし。
スイーツのプロフェッショナルたるテレーズの目は、即座にその『違和感』を見抜いた。
(ちょっと待ちなさい。このクリーム……普通の生クリームじゃないわね? 質感が重いわ。それに、スポンジケーキの焼き色が見えない。……もしかしてこれ、ただの食パンじゃない!?)
テレーズは、般若のような顔で私を睨みつけた。
(ふざけないで! 私は極上のスイーツを期待していたのよ! なにが食パンよ! なにが代用クリームよ! 一歳の赤ん坊だからって、手抜きをしたわね!? 私の誕生日ケーキを舐めているの!?)
彼女の猛烈な心の声が聞こえたのか、私はニヤリと笑った。
「ふふっ。テレーズ、不服そうな顔をしているわね。一歳の赤ちゃんは、まだお砂糖たっぷりの生クリームやスポンジケーキは食べられないのよ。胃腸の負担になっちゃうからね」
「んぎゃーっ! ぶーっ!!(知るか! 私の中身は大人なのよ! バターたっぷりのブリオッシュと、濃厚なクレーム・シャンティイを寄越しなさい!)」
ジタバタと抗議する彼女をよそに、私は小さなスプーンでそのケーキをすくい、テレーズの口元へと運んでいった。
「これは『スマッシュケーキ』って言ってね。赤ちゃんが手づかみでバクバク食べてもいいように、甘さ控えめで特別に作ったの。……騙されたと思って、一口食べてごらんなさい」
「んーっ!(絶対に騙されないわよ! 食パンにクリーム塗っただけのニセモノケーキなんて、王妃の舌が受け付けるわけ……)」
テレーズは、渋々といった態度で少しだけ口を開け、そのケーキを口に含んだ。
パクッ。
「……!!?」
瞬間。
まるでベルサイユの鏡の間でフルオーケストラが交響曲を奏で始めたような、圧倒的な衝撃が彼女の脳髄を突き抜けた。
(な、な、なにこれぇぇぇぇっ!?)
テレーズは、目をカッと見開いた。
(生クリームじゃない……これは、ヨーグルト!? でも、普通のヨーグルトみたいな水っぽさが全くない! 水分を極限まで抜いて、まるで濃厚なクリームチーズのような滑らかな舌触りになっているわ!)
そう、私が使ったのは生クリームではなく、一晩かけて水切りをした『水切りヨーグルト』だったのだ。
(しかも、このヨーグルトの爽やかな酸味が、中に入っているイチゴの果実の甘みを極限まで引き立てている! そして、スポンジの代わりの食パン! 工場の製粉機で作られた最高級小麦の食パンね! 耳を落としてヨーグルトの水分を少し吸わせることで、まるで極上のショートケーキのスポンジのような、しっとりとした口溶けに変化しているじゃないの!)
テレーズは、小さな両手で頬を挟み、身悶えした。
(完璧よ……! お砂糖をほとんど使っていないのに、素材の甘みと酸味のバランスが計算し尽くされている! 大人が食べるコッテリとしたケーキよりも、むしろこの軽やかさが洗練された極上のスイーツへと昇華しているわ!!)
「きゃぁぁっ♡ あーうーっ!!(美味しい! なによこれ! あんたやっぱりスイーツに関しては天才ね!!)」
テレーズはもう、スプーンなど待っていられなかった。
「手づかみでバクバク食べていい」という言葉の通り、両手をケーキに突っ込み、顔中を真っ白なヨーグルトクリームだらけにしながら、無我夢中でケーキを頬張り始めた。
「あはははっ! テレーズ、すごい勢い!」
「王女殿下が、まるで飢えた子犬のように……いや、失礼、大変可愛らしい食べっぷりですな」
ジョゼフやナポレオンたちが、腹を抱えて笑っている。
(笑いなさい! 笑うがいいわ! フランス王妃たるこの私が、手づかみでケーキを貪り食うという破天荒! これこそが新しい時代の王族の姿よ!)
彼女はスイーツの魔力に完全屈服し、己の尊厳を投げ捨てて「スマッシュケーキ」を文字通りスマッシュしながら完食してしまったのである。
* * *
「さて、次はアントワネットの番だ!」
ルイが、二台目のワゴンのクロッシュに手をかけた。
「君が『三十歳になったら基礎代謝が落ちるから、ケーキを食べたらそのまま浮き輪肉になる』と嘆いていたからね! 僕と厨房のシェフで、君のその悩みを物理的かつ科学的に粉砕する『三十歳のための至高のケーキ』を開発したんだ!」
「えっ……私の悩みを、粉砕?」
パカッ!
蓋が開けられた瞬間、私はその美しさに息を呑んだ。
そこに現れたのは、何層にも、何層にも薄く焼き上げられた生地が重なり合った、芸術品のような『ミルクレープ』だった。その層の数は、ぴったり『三十層』。
「三十歳の誕生日にちなんで、三十層のミルクレープさ! しかも、この生地には小麦粉の代わりに『おからパウダー』と『大豆粉』を使用! クリームの甘みは『甜菜糖』を極限まで抑え、代わりに果物の自然な甘みでコーティングした!名付けて『太らない・低GIロイヤル・ミルクレープ』だ!!」
「ル、ルイーッ!!」
私は感動のあまり、両手を組んで立ち上がった。
「三十路の乙女心と、ダイエットの真理をここまで完璧に理解してくれるなんて……! あなたって本当に、世界一の旦那様よ!!」
「さらに!」
ルイのオタク・エンジンは止まらない。彼はワゴンの下から、真鍮製の奇妙な筒状の機械を取り出した。
「君のもう一つの悩み、『お肌の曲がり角』を解決するプレゼントだ! 蒸気機関の圧力を応用し、水をミクロの粒子にまで分解して噴射する『ナノ・スチーム美顔器』!!これを毎日顔に浴びれば、三十歳どころか、永遠に二十歳のピチピチのお肌を保てるぞ!!」
プシュゥゥゥゥッ!!
機械の先端から、温かく、そして信じられないほどきめ細かい蒸気が噴き出し、私の顔を優しく包み込んだ。
「あぁ〜……。すっごく気持ちいい……。毛穴の奥まで潤いが浸透していくのがわかるわ……」
「どうだい? 基礎代謝の低下も、お肌の曲がり角も、僕の科学の力で全部ぶっ飛ばしてやるから! だから、三十歳になったからって、そんなに落ち込む必要はないんだよ!」
ルイの、不器用だけれど愛に溢れた、全力の『三十歳おめでとう』のメッセージ。
私は、ナノスチームで顔が濡れているのをいいことに、ポロリと一粒の涙をこぼした。
「……ありがとう、ルイ。本当に、最高のプレゼントだわ」
「僕からもプレゼントがあるよ!」
ルイに続いて、今度はジョゼフが元気いっぱいに駆け寄ってきた。
彼の手には、可愛らしい赤いリボンが結ばれた、木製の小さな『手押し車』が握られていた。
「スミートン先生に手伝ってもらって、ぼくがヤスリをかけて作ったんだ! これにつかまれば、テレーズも立って歩く練習ができるよ! ママン、テレーズを立たせてみて!」
「あら、素敵な手押し車ね! すごいわジョゼフ!」
私は、クリームだらけの顔を綺麗に拭いてやったテレーズを抱き上げ、床にそっと下ろした。
「さあテレーズ、立ってみる? お兄ちゃんが手を引いてあげるから」
ジョゼフが、小さな両手を差し出した。
テレーズは床に両足をつき、手押し車の取っ手をしっかりと握った。
角が丸く丁寧に削られ、ささくれ一つない滑らかな木の肌。兄が妹のためにどれほど一生懸命にヤスリをかけてくれたのか、その温もりが直に伝わってくるようだった。
「そう、上手だよテレーズ! そのまま、一歩前へ……!」
手押し車に体重をかけながら、よちよちと、右足を前に踏み出した。
コトン、と木の車輪がフローリングの上を転がる音。
「立った……! 王女殿下が、自らの足で!」
ラプラスが眼鏡を押し上げながら感嘆の声を漏らし、ナポレオンが「おおっ」と拍手をする。
「あう……(……歩ける)」
テレーズは手押し車を押しながら、一歩、また一歩と前へ進んでいった。
タンプル塔の冷たい牢獄の中で、歩く力すら失ってしまった愛する息子。
今、その息子が、満面の笑みで彼女の前を歩き、歩みを導いてくれているのだ。
「こっちだよテレーズ! パパとママンのところまで、がんばれ!」
ジョゼフの声に励まされ、テレーズは数歩を歩き切り——。
「よくやったわ、テレーズ!」
「すごいぞ僕の天使! 天才だ!」
待ち構えていた私とルイの腕の中に、勢いよく飛び込んだ。
「あうーっ♡(ママン! パパ! お兄様!)」
テレーズは、家族の温かい腕に包まれながら、心の底から満たされた思いで声を上げて笑った。
一歳の誕生日、そして三十歳の誕生日。
前世では決して味わうことのできなかった手作りのケーキと、温かい手作りのプレゼント。そして何より、心から愛し合える家族の笑顔に囲まれた、世界で一番甘くて幸せな誕生日。
(……ええ。三十路も、悪くないわね)
私は、腕の中のテレーズと、私を抱きしめるルイとジョゼフを見つめながら、心の中でそっと呟いた。
(最高の誕生日よ)
テレーズもまた、窓の外のパリの冬空に向かって、誰にも聞こえない声で囁いた。
マリー・アントワネット、30歳。
マリー・テレーズ、1歳。
彼女たちの二度目の人生は、甘いヨーグルトクリームとおからのミルクレープの香り、そして温かなスチームと共に、ついに自らの足で、新たな世界への第一歩を踏み出したのであった。




